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不老不死になるたったひとつの方法

例えば、他の条件が同じなら、わざわざ病(やまい)に苦しむよりも健康でいたいと思うのが自然であり当然であろう。きっと誰もがそう思う。ただ、その上で寿命が限りなく長い方がいいという人もいれば、いやどこかで限りがあった方がよいのだという人もいるし、そんなことなどついぞ考えないで生きているという人もいる。寿命の長さについては意見が分かれるのだ。

同様に、不老長寿や健康寿命の延長だけでも、あまり興味が湧かない人もいれば、自分など短い寿命でかまわないという人もいるし、ひたすら少しでも延長できないかと考える人もいる。不老長寿の研究をするなら、そこでコンセンサスを取ってみんなで協力して不老研究をサポートできるようにすればいいと思われるのだが、夢のまた夢のテクノロジーだと思われているのか、はたまた老化は誰もが素直に受け入れるべきもので、むしろ抗(あらが)いたくないと思っているのか、人々が極端に関心を払うことはない。

これが「不老不死」になると話はもっとファンタジックになるし、もはや冗談である。なお「不老不死」を「不死身」と混同する人も多いが、もちろん両者は異なる。なぜならば、不老不死とは老化せず老衰によって死ぬことが無いというだけのことだが、不死身とはどのような手段を持ってしてもその生命を破壊不可能ということだからである。この不死身という概念の荒唐無稽さに引きずられて不老不死も言わば虚構上の、あるいはインチキな概念だと思われているのかもしれない。

ただ、実際のところ不老不死に意図的になる方法が現在でもないわけではない。つまらないことを言って恐縮だが、それは自殺のことだ。なぜ自殺が不老不死なのかといえば、一回死ねばもう一回死ぬ可能性もさらに老いる可能性も無くなるからである。別の言い方をすれば、死ぬことによって人間は永遠の存在になるのである。

唯物論者あるいは自然主義者であれば、死とはその人間の肉体が分解されることであり、その分解によってその人間をそれたらしめるものは永遠に喪失される、つまり無に帰すのであって土に埋まった肉体の原材料以外何の存在も残らないというだろう。

一方で、我々はその人間が少なくとも生きていたあいだは、そこに外からはみえない〝意識〟や〝内面〟を前提してその挙動を解釈していたはずである。言い換えれば、それはその人の身体の外面から内面の様子を推測するだけはなく、内面あるいは動機が自立的にあってそこから外からも見える挙動・作用・機能が現れたのだと解釈していたはずである。さらに言い換えれば、人が内面を持つということは自由意志を持つ責任主体であるということであり、雑に言えば自己原因でもあるということだ。

これを延長すると、肉体の動きなどはこの内面の現れ・結果であり、影に過ぎない。そう捉えていくならば、仮に従である肉体が滅びたとしても、主である内面も滅びると考える必要はない。もちろん反対に絶対滅びないとか魂がどうとか言わなければならないわけでもない。そこから先は明らかに経験を超越していて、言わば信仰上の課題であり、死生観の領域である。

とはいえ、或る肉体の滅亡という意味での「死」が訪れるのはどういう立場を取ったとしてもやはり1回なので、その後の老化も無ければ2回目の死もあり得ないという点ではやはり死によって不老不死は成し遂げられる。

誰かが死んだとき、傍観者たちにとって、それは永遠の別れであると共に、その人物からの知覚が閉ざされたことでもある。したがって、その人物を体験することはもう不可能である。なぜならば、その人物は傍観者たちの人生に二度と現れ得ないからである。このことによってその人物の特徴の束はすべて原理的には確定してしまい、その人物がいつどこで誰とどんなことにどのように関わったかもすべて追加されることのないアーカイブになる。その点では、その人物は死んでしまったことによって博物館の展示品のひとつになってしまうのかもしれない。それらは職員によって丁寧に手入れされ、ずっとそこに同じ姿のまま佇(たたず)んでいる。

一方、その人物の〝精神〟はどうだろうか? それはまだ死亡後でも新たに読み直すことができる。なぜならば、その人物の〝精神〟はその人物が語った記号列のなかから誰かが解読をほどこして、その人物の自立した内面を再解釈しなければそもそも成立しようがないのだが、そこに物証によって立証されてしまうような唯一の答え、絶対的な解釈を期待することはできないからである。この精神については、それが不老だとは言えてもやはり不死とは言い難い。なぜならば、誰もそれに興味を持たなくなり誰もその解釈に耳を傾けようとしなくなれば、やはり精神とてもその機能を喪失し、またそれを表す記号列も風化して散逸するからである。

そして、もし肉体に続いて精神までもが死んだとしたら━━それは同じ意味の死ではないが━━今度こそあらゆる意味で不老不死が完成し、その人物は概念になったと言えるのである。すなわち、永遠不変の自立的な存在である。しかし、この自立と自由を得た代わりに概念は自らを孤独の沼底に沈殿させるのである。そして、そのような存在たちは沼の下で誰か心ある人々に、想像力豊かな人々に引き上げられるのをひょっとしたら待っているのかもしれない。

(2,171字、2024.04.26)

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