見出し画像

言葉そのものが言葉ならざるものである

語りえぬものが存在しているのではない。言葉で語ることが出来ないものが存在しているのではない。言葉と言葉に出来ないものがせめぎ合っているのではない。語りえぬものと語りえるもの、言葉で示し得るものと示し得ないもの、言葉と言葉ならざるもの、言葉と言葉以前、中心と周縁、内部と外部、形式化されるものと形式化されないもの、そうしたものたち、そうしたことたち、そうした形と構造たちは見せ掛けの幻影にしかすぎない。それらがいかに強く大きく刻明で執拗なものであったとしても。

言葉の外側、言葉が辿り着けない場所など始めから存在などしない、のではなく、そうではなく、言葉が言葉として生み出されるその場所があるとしたならば、そこでは、その音がその音として存在するために、沈黙が存在するように、あるいは、その光がその光として存在するために、闇が存在するように、その言葉がその言葉として存在するために、言葉ならざるものが存在している。

揺れ動く言葉ならざるものの沈黙と闇の巨大な海の中に、言葉が、浮かぶ。
今、ここに、出現した言葉はその言葉ならざるものから飛び立つ波頭の先端なのだ。

言葉そのものが言葉ならざるものである。

語りえぬものを前にして、沈黙することが正しい態度であるとするならば、詩を綴る者、歌をうたう者、物語を物語る者、絵画を漫画を描く者、アートを作る者、写真を撮る者、映画を作る者、音楽を奏でる者、自然が語るその声を聴ききその言葉を語る者、そうした者たちは間違ってしまった者たちなのだろうか? 詩人も歌うたいも小説家も画家も漫画家も写真家もアーティストも映画監督も音楽家も科学者も愚か者たちなのだろうか。そうなのかもしれない。人が声にしてはいけない文字にして書いてはいけない真理という言葉を、彼ら、彼女らが口にし文字にするならば、そうなのかもしれない。沈黙、それが、本当の正しいことなのかもしれない。本当のことは沈黙の中にしかないのかもしれない。彼ら、彼女らの言葉と行為は空虚な架空の絵空事であり、それは偽り事なのかもしれない。彼ら、彼女らは愚か者であるだけではなく嘘つきなのかもしれない。全部が全部、そうではないとしても。

だが、しかし、彼ら、彼女らは語りえぬものを前にして語り続けた者たちだ。どこでもいかなる時でも。それが語りえないことだからこそ、それが語りえないものだからこそ、語ろうとした者たちだ。言葉にならないものを、言葉にならないことを、それでも、だからこそ、それを言葉にしようとして、足掻いて踠いた者たちだ。そうであるのならば、わたしもまた、その無様な愚か者のひとりとなって、言葉ならざるものである言葉を発する者のひとりになりたい。語りえぬものを前にして語り続ける愚か者たちのひとりになりたい。とわたしは思う。

仮に、それが間違ったことであったとしても。

二冊の本と佐々木中さんに感謝を、そして、マナティ師に祝福を込めて。
佐々木中さんはマナティさんが大好きなのだ(!?)

画像6

画像7

マナティ師とウィトゲンシュタイン佐々木中さん。三人が昼下がりの午後、森の小径を散策している。小鳥が木々の枝を渡り、話をしているかのように囀る。風が吹き、葉と葉が擦れ合う音が潮騒のように聴こえて来る。足許に咲く小さな花々の香りが柔らかく小径を包む。マナティ師がウィトゲンシュタインに優しい笑顔で話しかける。ウィトゲンシュタインからとめどもなく終わることのない言葉が溢れ出す。少年のように。時折、佐々木中さんがからかうようにウィトゲンシュタインの肩を揺する。マナティ師が微笑み、それに合わせるかのように森が騒めく。その眩暈のするような光の奔流の光景。わたしの中の白昼夢の光景。わたしもマナティ師のように茫漠とした曖昧でとりとめのない不透明で不定形でありながらも明確な形を持つ透明で明晰な思考の水の中で揺蕩い、その液体で作られた精密機械の思考の中に溶けて行きたい。

画像4

画像5

追伸
ウィトゲンシュタインが姉のマルガレーテ・ストーンボローの新しい家のために設計したドアハンドルについては、いつか一文を書きたいと思う。次のように題して、世界を開くことに関する幾つかの希望と絶望についての文を書きたいと深く思う。彼のドアハンドルによって開かれる世界の入口のドアについて、そして、そのドアの向こうの世界についての話。

「ウィトゲンシュタインのドアハンドル、あるいは、世界を開くドアのために」

画像 ドアノブ

画像1

画像2


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?