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裸形の排中律、論理の解剖学。入不二基義哲学。それか、それの否定か。 存在が思考から逸脱する。

何かしらのものごとを考える。青く透明な水の中で、緑の風に騒めく葉と葉が擦れ合う間で、鉄が燃えプラスチックとガラスが柔らかく形を変えてゆく空の無い空間の中で、光と影の間で、沈黙と音の間で、静止と動きの間で。

あれこれの中から、これとあれが取り出され、これかあれか、二つにひとつが選ばれ、ひとつが残り、ひとつが捨てられる。残ったひとつがひとつのまま、そこにある。ひとつがひとつのまま。じっとしている。動くことなく割れることなくひとつが、ひとつのまま、二つになることなく、そこにある。

ひとつが、反転し、ひとつ以外になる。ひとつがひとつのままではなく、ひとつとひとつ以外になる。ひとつとひとつ以外の二つになる。ひとつ以外が裏返り、ひとつになり、ひとつが回転し、ひとつ以外になる。ひとつがめくられ、ひとつ以外になり、ひとつ以外がめくられ、ひとつになる。ひとつの中からひとつ以外が生まれ、ひとつ以外の中からひとつが生まれる。ひとつがひとつであろうとする、ひとつとひとつ以外の世界。ひとつとひとつ以外がくるくる回る。ひとつとひとつ以外で作られた世界。それで世界の全部が埋め尽くされる世界。ひとつとひとつ以外、それ以外は存在しない世界。

「Aであるか、Aの否定であるか、のどちらかである。」排中律の論理の世界。あれとあれ以外、それとそれ以外、これとこれ以外、AとA以外、AとAの否定、それだけで作られた世界。肯定と否定の相反する対、現実化される対の中の単独、対と単独が存在することができる場所。単独と対と場所、この三つが交錯する排中律の論理の世界。排中律というルールで動く、論理の世界。

人は世界の中で排中律というルールに従って秩序を組み立てる。排中律に背くほんの些細なルール違反も、巧妙に狡猾に表からも裏からも手を回し取り除く。何度も繰り返される排中律からの例外の嘆願。ここだけの話として、今だけの話として、それとそれ以外もこれとこれ以外もと。しかし、それは静かに断固として拒否される。あたかもそれ以外の世界の成り立ちの形が存在しないかのように。あたかもそれがこの世界の崩壊を導くものであるかのように。わたしたち人間は排中律というルールに基づかない従わない、如何なる形の秩序も排除する。排中律はこの宇宙の厳守すべき基本ルールなのである。

では、

ひとつでもなくひとつ以外でもないもの。ひとつでもありひとつ以外でもあるもの。排中律の外にあるものたち。「Aであり、Aの否定でもあり、どちらでもある」ものたち。あるいは「Aでもなく、Aの否定でもなく、どちらでもない」ものたち。そうしたものたちは存在しないのだろうか?この宇宙に。

光でもあり闇でもあるものたち。光でもなく闇でもないものたち。そのようなありようでしか存在し得ないものごとたち。光として闇として存在するものたち。

おおお、!!! それは人間の存在そのものではないか!
それはわたしたち人間の存在の形式そのものではないのか! 

光であり闇であり光でもなく闇でもなく、光そのものでありそれ以外ではなく闇そのものでありそれ以外ではない、存在とその形式。ひとつとひとつ以外の世界から零れ落ち続ける人間という存在。ひとつとひとつ以外の世界からはみ出し続ける人間という存在。わたしたち人間は排中律の内部でも外部でもない場所に存在するものである。排中律は人間をその檻の中に閉じ込めることができない。

そのことは人間の思考が排中律という論理に拘束され支配されているにもかかわらず、その論理を有する思考を実行する存在自体が、その論理から決定的に逸脱しているという人間の存在の論理性の根源的な矛盾性を告知している、と私は考える。知性が知性であるために排中律が必要とされ、一方で、その知性を持つ物質的存在である人間の存在が排中律からはみ出して行く。ここに知性を獲得した人間の存在の論理学の可能性と不可能性が示される。

わたしたち人間は考えるようには存在していないのだ。そして、また、存在しているようには考えていないのである。

本記事は哲学者、入不二基義(いりふじ・もとよし)さんの著作「足の裏に影はあるか?ないか?哲学随想」と「時間と絶対と相対と 運命論から何を読み取るべきか」の二冊を手掛かりにして書かれたもの。

入不二さんは、排中律には二つの様相が存在していると、考えている。「どちらかただ一つである(隙間なく塗りつぶされていること)」という「べた」の様相と、「二つのうちどちらでもいい」という「空白(隙間なく塗りつぶされる前)」の様相の、排中律のおける二つの様相。さらに、「排中律が排中律であるかぎり「どちらか」と「どちらでも」という「二つ性」が残らざるをえない。」また、「排中律においては「唯一」と「二つ」と「空白(「どちらかで」で満たされることを待つ空白)」が絡み合って働いている。」と論じている。

入不二さんによって排中律がその衣を剥ぎ取られ裸形の排中律が姿を現す。
一見、無謬性の権化のような排中律が分解されその内部が明らかにされる。哲学者、入不二基義による論理の解剖学。哲学と何か?その解答のひとつ。

入不二さんの議論は精密でありながら、確実に相手を追い込んで行くといスタイル。軽やかさと反対の無骨な正攻法的な攻め方だ。だが、決して頑迷ではない。そこでは誠実さと容赦の無さが表裏一体となって読者と共に思考を伴走させてゆく。括弧が多用され言葉の意味を厳密に絞り込みながら、議論が進められて行く。それが入不二基義哲学の基本形だ。その姿はレスラーが卍固めで論理を締め上げてゆくようだ。(後で知ったことだが、入不二さんはレスリングの選手でもある。青山学院大学の哲学の教授であり、大学のレスリング部部長なのだ。)その刻明な議論の凄さを体感したい方は、是非、これら本を読んでみてほしいと思う。私は入不二さんの本に多くの示唆を受けた。別の時に、それらのことをまたnoteに書いてみたいと思う。

尚、2020年8月に入不二基義哲学の極限である「現実性の問題」が筑摩書房から刊行されている。本の帯にはこう記されてある。「現実性こそ神である、このテーゼは果たして何を意味するのか? 世界の在り方をめぐる哲学的探求、その最高到達点」。私の言い方をすれば、「論理の解剖学 その向こう側」となる。これは、日本語で書かれた哲学が何を成し得るのかを示した画期的な論考であり、今後、存在について、論理について、世界について、現実について、考察する上で誰も避けて通ることができない本であると、私は思う。正直、私はその凄まじさに慄いてしまったのだ。心してこの本を手に取るべし。いずれこの本についてもnoteに記事を書きたいと思っている。(とても書ける気がしないが、全く。それでも)


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