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野球を全く見ない私の、チラ聞き甲子園2023、の話。

運動音痴な私は基本的に、あらゆるスポーツをやったことがないし、やらないし、観戦もしない。
一時期フィギュアスケートはハマって見ていたが、数年で熱が落ち着いてしまった。それ以降はWBCもワールドカップもオリンピックも「今って何かやってるんだ?ふーん」という温度感で終わりになっていて、これははるか昔から同じノリだ。単純に、興味があまり持てないからである。

なので私が甲子園を全く見ないのは、行動パターンとしては何ら違和感はない。
ないのだが、ちょっと高校野球だけは同じ見ないのでも理由が違う。

重すぎるのだ、情報が。
ドラマティックすぎて、感情の処理が追い付かなくて、無理すぎて、見ていられないのである。見たいのか見たくないのかは自分でもよく分からないのだが、とにかく他の大人のやるスポーツと違って、見ていると情動が振れ過ぎてしまって、とにかく辛過ぎる

だって甲子園って、全国の高校生の野球部の、3年生はこれが終われば引退になる、っていう大会だ。
私が昔所属していた吹奏楽部で言うと、コンクールの全国大会である。しかも吹奏楽なら出番は15分かそこらで終わるが、彼らは試合で、2チームで2時間とかやる訳だ。
あの選手の一人一人が、私が中学・高校時代に吹奏楽にかけてた青春エネルギーの何倍もの情熱をかけて、死ぬほど必死に野球をやり続けて、その集大成があの一つ一つの試合で、負けたらそこで終わり、勝ち続けた時にだけ次の試合が存在する、そういう切羽詰まった状況で、ただでさえ山あり谷あり涙ありの野球の試合を、数々のプレッシャーを背負った状態でやるわけである。

無理でしょ。
この設定の時点でドラマがてんこ盛り過ぎる。情報が重い。
絶対無理。概念だけで泣く。

高校野球なんて、甲子園なんて、それも決勝戦なんて、どう考えてもコーラ片手にゴロゴロ寝っ転がりながら見られるような代物じゃない。
私には無理だ。

なので昨夜夫から「明日が甲子園の決勝だって」と聞いた時にも、私は全力でスルーしていた。
なのだが、午後になって私がPCに向かい始めたタイミングで、私の背後で夫がTVをつけて、中継を見始めた。

かーつぞーかーつぞー!と、応援の歌声がリビングに流れ、高校時代に渋々参加させられた、野球応援の記憶が蘇ってくる。
当時は「自分たちのコンクールの練習が出来ないじゃん、迷惑だなぁ」と思っていたけれど、行けば行ったで応援というのも面白かったんだよな、応援団の副団長の○○先輩かっこいー!ってユミちゃんと騒いでたなぁとか。
私の母校は大抵、地方大会の2回戦あたりで負けるのだけれど、4回戦ぐらいまで行けた年があったなーとか。一枚歯の高下駄はいた応援団がポリバケツの水ひっくり返すのに、わざわざ近付いて水浴びたりしてたっけ、とか。夏休み前の梅雨の時期だと、水浴びると寒かったりしたんだよなぁとか。

ヤバい。自分の分のノスタルジーだけでジーンと来る。
が、見ない。私は甲子園は見ないのだ。

わー!!とTVの歓声がボリュームアップする。
実況によれば、大量得点が入ったらしい。

あー、無理。つらい。
点を取ったチームと取られたチーム、どちらに感情移入すれば良いのか分からないので、両方のチームの感情を想像してしまって、それが3年間、いや6年間、もっとか、十数年、彼らの人生17,8年の内の大半をかけて目標にしてきた試合で、と思うともう泣きたい。
点を取ったチームのベンチは喜びに沸き立っているはずだ。決勝戦での大量得点というだけで嬉し涙も出るだろう。打ったバッター本人は喜びを押し殺したまま塁の上で、緊張を解けずにいるかもしれない。
一方で、点を大量に取られたピッチャーは今どんな気持ちでマウンドに立っているだろう。グラウンドにいるメンバーは、ベンチにいるメンバーは、応援席は。彼らの家族だってスタンドで、あるいはTVの前で、拳を握り締めているはずだ。

私の想像力で処理できる感情の大きさも、人数も、完全に超えている。
野球なんて、昔父親から聞いた分と、ちょっとパワプロやった分しか知識がないが、それでも駄目。無理。情報量が多すぎる。

「ピッチャー交代です」
実況のアナウンサーの声が聞こえる。交代と言われたピッチャーの「甲子園」が終わってしまう。同時に新しくマウンドに上がる選手にとっての「決勝戦」が始まる。確かそういうルールだったはずだ。
待って、そんな一言で済ませていい青春の量じゃないよね?

「代打が出ますね」
スタメンに入れなくても代打で出られる日が来ると信じて、これまで一心に日々バットを振っていた少年の「決勝戦での打席」が来る。
だけど、次は自分の番だとバッターボックスに向かう気満々でいた少年にとっての「甲子園」が、終わっちゃう!

「このバッテリーは、小学校の頃から一緒に組んでいるということです。サインも殆ど交わす必要がないと……」
待って何その情報量!!尊さが限界突破してるでしょ、そのバッテリーの二人のその情報だけで「タッチ」まるごと一個分に迫る青春ボリュームがあるでしょ無理無理無理!!

駄目。無理。これ以上このドラマの密度に耐えられない。
情報量が多すぎて処理しきれない。胸がいっぱいになりすぎて、物理的に胸が苦しいし、だんだん頭が痛くなってきた気すらする。
全然、全く、見てないのに。
試合の実況がちょっと聞こえてるだけなのに。
限界だ。逃げよう。

「……昼寝してくる」

寝っ転がってTVを見ている夫にそう宣言して、私はTVを見ないようにしながらリビングを突っ切り、寝室に引きこもって、あらゆる想像力と感情の回路をぶった切って、昼寝をした。何一つドラマの存在しなさそうな、悠久の時間だけが流れるワカクサ本島のカビゴンと共に。



ポケモンスリープのアラーム音で夕方に起きるとTVは消えていた。決勝戦は終わったようだ。
試合の結果が気になるが、夫に聞くと話が長くなりそうだし、野球に興味が出たと思われると後々面倒なので聞かないでおく。

夕飯のタイミングでTVを見れば、ニュースで試合結果ぐらい分かるだろう……とぼんやり考えつつ、寝ぼけた状態からダラダラと起動して、夕飯を用意する。息子と夫と食べる。夫がTVを付ける。
甲子園の試合結果が気になっている私をそっちのけにして、天気予報が流れる。長い。

夫や息子より食べるのが早い私が夕飯を食べ終えた頃、ようやく天気予報が終わってニュースが始まる。
全然違うニュースである。本日のトップニュースだろうと思ったのに、甲子園は国内ニュース、というかスポーツ枠だけの扱いなのか。そう言われるとそういうものかもしれないが、納得がいかない。トップニュースには出来くても、せめて2番目か3番目ぐらいにはやるべきニュースだと思う。っていうか結果だけでも画面の端っこで良いから常時出しておいて欲しい、選挙速報みたいに。

甲子園は?結局どっちが優勝したの??
どっちのチームかすら把握してないけど、大量に点取った方のチームがそのまま勝ったの?点差はあれから縮まった?開いちゃったりした?

TVに向かって問い詰めたい気持ちを抑え、次のニュースはまだか、その次のニュースはまだかとソワソワしながら洗い物をするが、その洗い物が終わっても、ニュースは全然甲子園になりそうな気配がない。

気になる。駄目だ、気になりすぎる。
――仕方がない。夫に聞こう。

「結局、甲子園はどっちが勝ったの?」

めちゃくちゃどうでも良いけどふと思い出した、という感じを精一杯出しながらそう訊ねて、私が聞いた最後の点差の状態のままで試合が終わったという情報を得る。

あー、そっかぁ。そうだったのか。

夫は負けた方のチームに肩入れしていたようだ。残念だと言いつつどこか楽しそうに、今年の甲子園情報を喋り始めた。
やっぱりこうなるか、と雑に聞き流しながら、私は内心呆けてしまう。

そうかぁ。彼らの夏は終わったのか。

それ以外の言葉も感想も何も出てこない。
プロ野球情報と同じような温度感で色んな情報を喋れる夫は、多分あの決勝戦も純粋に「野球」として見られていたのだろう。多分、夫ぐらいの距離感で見るのが正しいように思う。というか、そうじゃなきゃ見られないし、そんなにぺらぺら感想を喋れないよな、と思う。
でも、私には出来そうにない。甲子園の決勝戦が終わった、ただそれだけの情報のはずなのに、なんだか私の夏まで終わったような気分になってしまった。腑抜けという単語の文字通りに、お腹のあたりが脱力して何かがデレーっと垂れ流されているような感じだ。
見てもいないのに。

っていうか私の夏って何だよ。夏休みどころか仕事すらしてない専業主婦で、基本エアコンかけた部屋にしかいない私に、何の夏を語る権利があるというのだ。

でも多分、今日の午後にチラ聞きした甲子園の音声は、私に「高校3年の夏の終わり」を追体験させてくれたのだろう、と思う。
とんでもない密度とボリュームで。マトモに見たら最後、目が潰れるような眩しさで。

だから甲子園は魅力があって、好きな人がとても多いのだろう。
「ワシには強すぎる……」とポム爺さんのようにブルブルしてしまう私は、きっと来年も甲子園は見られない。見られるようになる日が来るのかどうかもよく分からない。
ただ今日の決勝戦を戦った彼らに、そしてそこまで進めなかった彼らに、あるいは野球以外の別の何かを頑張った彼らに、「お疲れ様」と、「よく頑張ったね」を伝えたいなぁ、と思った。

お疲れ様。よく頑張ったね。
昔、高3だった私達もきっとよく頑張った。今年高3の皆もよく頑張ったし、その間に高3だった皆も、それより前に高3だった皆も、よく頑張った。
当然、高校じゃない場所で頑張った皆も、よく頑張った。

多分、「高3の夏の終わり」がノスタルジックなのはきっと、そういうことだ。

私は夏が嫌いだけれど。
少し切なくて、寂しくて、力強くて、めちゃくちゃに綺麗な「夏の終わり」は、多分とても好きなのだ。

そうかぁ。終わったかぁ。

何度も脳内で反芻しながら追加の洗い物をして、私の夏も大体が終わった。
明日もまだまだ暑いけれど、ここから先はきっと「夏の終わり」だ。

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