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父の生きた時代を想う 12
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バブル到来
「今度は小さな経営にする」と言ったのに・・・
私が生まれて初めてアメリカに行った時、実は子供の頃抱いていたより「すごい国」に見えなかった。子供の頃はサンシャイン60に登って感激していたのに、その頃には気がつけば新宿に何本も60階を超えるビルが登場し”日本版スカイスクレイパー”になっていた。大学生になったころ、東京の日常はガラリと変わっていた。時代はバブル経済に突入
「父の生きた時代」を想う 11
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再建
会社の再建にあたり、父は「もう小さくやろう」と母にいったそうだ。
倒産した時父はたぶん45歳ぐらいだったと思うが(つまり再建した時もそれぐらい)前の会社では工場を買い、人を多く雇った。おそらく印刷機を買うために借金をし、そのために他人の連帯保証人にもならなければならなくなった。40代の後半になってからの再起業には、もう大きなお金を借りたくない、という想いがあったと思う。
「父の生きた時代」を想う 10
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倒産
父の小さな会社は80年代前半に倒産した。他の会社の借金の連帯保証人になり、その他の会社が倒産して社長が逃げ、連鎖倒産したのだ。父の会社自体は受注もあり、納品後は入金もあり、問題なく社員を雇っていた。それでも自分もお金を借りる時に必要だから、互いに他の人の連帯保証人にならなければならない時代だった。子供心に「この社会、何かおかしい」と憤りを感じた。将来金融制度をよくするこ
読書240915「モサドファイル2」
ガザのことがおきてから、これまで中東に関する知識があまりなかったので、パレスチナ側の本や映画も見るようにしていたのですが、イスラエル側の歴史も少し知りたく読んでみました。第2次世界大戦後、モサドで活躍した実際に活躍した女性スパイたちの実話です。
モサドでは早くから女性スパイが活躍していました。私が子供の頃はまだベルリンの壁があり、東西のスパイの映画やマンガも流行っていましたが、その中で女性スパイ
「父の生きた時代」を想う 9
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火事とボロ家
夏の朝(7月30日か31日)、車のドアが開く音で目が覚めた。気がつくと車の運転席の後ろに放り込まれた。弟が隣に、やはり助手席の後ろに放り込まれた。あたりはまだ暗く、子供二人を駐車場の車に放り込んで、親二人が家に向かって走っていくのがわかった。すでに人が出ていて、祖母がお経を唱えていた。自宅が火事になったのだと、すぐにわかった。小学校入学前だったが、”姉”を気取
「父の生きた時代」を想う 8
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印刷屋はヒーローな時代
私が小学生の時、まだ授業で使うプリントはガリ版で印刷していた。いつの頃からかオフセット印刷機に置き換わったし、大学時代にはノートのコピーをコンビニでとっていたけれど、安価ではなかったように覚えている。
そんな時代、父の会社が印刷屋であったことは、幼稚園のころからなんとなく自分たち子供が”特別扱いを受ける”理由になった。
通っている幼稚園の運動会、習
「父の生きた時代」を想う 7
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昭和だからできたこと
子供の頃よく父や母の話を面白く聞いて育ったが、自分が彼らの年を超えると、中には昭和だからできたことで今はできないなあ・・・と思うこともある。ちょっと寂しいなと思うが。
子供の頃、朝食はいつも”昨日のエピソードタイム”だったが、父のしでかしたことがたいてい食卓の話題だった。
「昨日午後ちょっとおなかがすいたねということになって、ラーメンでもとうろうか言
「父の生きた時代」を想う 6
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昭和のビジネス
父は印刷業を起業したのだが、私が中学の頃一度倒産させてしまった。その後1年で再建するのだが、倒産までは両親は会社を大きくしようと頑張っていたようだった。赤坂、青山、六本木で配る広告誌を看板商品にし、木場に工場を買って当時高価だった4色機を導入した。印刷機は昭和の頃、2色機が主流で、2色一度に入れることができるが、カラー印刷には2回機械を通さないといけない。