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「父の生きた時代」を想う 6

その1はこちらから

昭和の親と子

父は印刷業を起業したのだが、私が中学の頃一度倒産させてしまった。その後1年で再建するのだが、倒産までは両親は会社を大きくしようと頑張っていたようだった。赤坂、青山、六本木で配る広告誌を看板商品にし、木場に工場を買って当時高価だった4色機を導入した。印刷機は昭和の頃、2色機が主流で、2色一度に入れることができるが、カラー印刷には2回機械を通さないといけない。
夏休みの宿題に「印刷物ができるまで」というポスター発表を作ろうと、父について木場の工場に”取材”に行ったことがある。
ランニングシャツで働いているおじいちゃん/年配のおじさん(工場長?)がでてきて、「うちは4色機を持っているんだ」と誇らしげにいっていた。機械に一回通すだけでカラー印刷が完了する。時代はスピードを求めていた。工場には他にも2色機が2台と、活版印刷機があった。工場の前の道がすぐ橋になっていた木場らしい光景をうっすらと覚えている。
他にも浅草橋から飯田橋の事務所に引っ越して(千代田区進出!)大卒の社員を採用した。そして英語の印刷物も受注した。母が「いつも長い髪をとかしてばかりいて・・・」と愚痴をいっていたお姉さんは、英語の原稿を落としてバラバラになってしまった時、さっさと読んで順番通りに整えてくれたそうだ。

そしてある時おそらく長年の夢であった、雑誌の出版に着手した。
ところがどうしてそういう発想になったのか、なんとはじめたのはターゲットをシルバー層にした雑誌だった。創刊号の準備で、ある日若い社員のお姉さんと私は、郊外の新しくできた老人ホームに取材にいくために父の運転する車に乗っていた。子供の頃は何か面白そうなことがあると、いつもちゃっかりついて行っていたのだ。
小綺麗な老人ホームにつくと、まず私たちは館内を案内された。木漏れ日が美しく季節は春だったような気がする。それからお姉さんは館長さんやスタッフにいろいろ取材をした。次に入館者に取材をすることになった。あるお婆さんの部屋にいって取材した。畳の部屋だったように思うが、部屋の中も綺麗になっていた。お婆さんは過ごしやすさなどポジティブなことを言ったと思う。部屋のなかで写真を撮影させてもらい、外にでて緑ゆたかな庭か何かで息抜きをしていると、そのお婆さんがおいかけてきた。
「あの、さっき写真を撮ってもらったんですけど、わたし実は娘がいるんです。雑誌を知り合いがみたら娘が恥ずかしい思いをするんじゃないかって・・・」

その後どうしたか覚えていない。お姉さんが心配しないでください、みたいなことを言ったと思う。私は親が老人ホームにいるということは、こんな素敵な場所であっても娘さんは恥ずかしいのかと純粋に驚いた。
雑誌は3冊ぐらい出したが、やはりうちには難しかったということで、その後知人の雑誌社にひきとってもらった。
お姉さんはしばらく経って「私は雑誌が作りたかったから」といって会社を辞めたと聞いた。それから何十年も経って、私たち姉弟は父の晩年を、ケアハウスで過ごさせた。父は私が訪ねていってもケアマネージャーの方々とハイタッチなどして、楽しそうにみえた。緑が豊かな埼玉県の奥、森林公園のそばにあるケアハウスだった。いつもニコニコしていた父は誰からも親切にしてもらっていたように思う。

その7につづく

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