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読書240915「モサドファイル2」

ガザのことがおきてから、これまで中東に関する知識があまりなかったので、パレスチナ側の本や映画も見るようにしていたのですが、イスラエル側の歴史も少し知りたく読んでみました。第2次世界大戦後、モサドで活躍した実際に活躍した女性スパイたちの実話です。 モサドでは早くから女性スパイが活躍していました。私が子供の頃はまだベルリンの壁があり、東西のスパイの映画やマンガも流行っていましたが、その中で女性スパイといえば、ハニートラップというのが定番でした。しかしモサドで活躍した人たちは皆「

    • 「父の生きた時代」を想う 9

      その1はこちらから 火事とボロ家 夏の朝(7月30日か31日)、車のドアが開く音で目が覚めた。気がつくと車の運転席の後ろに放り込まれた。弟が隣に、やはり助手席の後ろに放り込まれた。あたりはまだ暗く、子供二人を駐車場の車に放り込んで、親二人が家に向かって走っていくのがわかった。すでに人が出ていて、祖母がお経を唱えていた。自宅が火事になったのだと、すぐにわかった。小学校入学前だったが、”姉”を気取って、となりの弟に「みんなが無事ならいいじゃない」とか言ったような気がする。 そ

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        読書240915「モサドファイル2」

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          8月の東京散歩

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          「父の生きた時代」を想う 8

          その1はこちらから 印刷屋はヒーローな時代 私が小学生の時、まだ授業で使うプリントはガリ版で印刷していた。いつの頃からかオフセット印刷機に置き換わったし、大学時代にはノートのコピーをコンビニでとっていたけれど、安価ではなかったように覚えている。 そんな時代、父の会社が印刷屋であったことは、幼稚園のころからなんとなく自分たち子供が”特別扱いを受ける”理由になった。 通っている幼稚園の運動会、習っているピアノの発表会、いつも父の会社でパンフレットなどを印刷していた。たいてい

          「父の生きた時代」を想う 8

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          7月の東京散歩

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          読書240819「無形資産経済見えてきた5つの壁」

          壁が5つだったかどうかわからないのですが、著者が言っているいくつかの点は非常に納得できました。 ①経済成長がずっと停滞している。   これは意外でしたが読んでいるうちのよくわかりました。たしかに両親の世代が子供の時から親になる間に遂げた経済成長は、今は多くの国ではおおらず、日本では30年間大半の人は生活が向上していません。 ②産業が無形資産化し、富を生み出す資産がわかりづらくなり、全体成長に問題外ある(無形資産はもっと開放して共有されたほうが経済成長する?) ③無形資産

          読書240819「無形資産経済見えてきた5つの壁」

          「父の生きた時代」を想う 7

          その1はこちらから 昭和だからできたこと 子供の頃よく父や母の話を面白く聞いて育ったが、自分が彼らの年を超えると、中には昭和だからできたことで今はできないなあ・・・と思うこともある。ちょっと寂しいなと思うが。 子供の頃、朝食はいつも”昨日のエピソードタイム”だったが、父のしでかしたことがたいてい食卓の話題だった。 「昨日午後ちょっとおなかがすいたねということになって、ラーメンでもとうろうか言ったら、XXXくん(若手社員)が、『もったいないからここで作りましょう』と言って

          「父の生きた時代」を想う 7

          「父の生きた時代」を想う 6

          その1はこちらから 昭和の親と子 父は印刷業を起業したのだが、私が中学の頃一度倒産させてしまった。その後1年で再建するのだが、倒産までは両親は会社を大きくしようと頑張っていたようだった。赤坂、青山、六本木で配る広告誌を看板商品にし、木場に工場を買って当時高価だった4色機を導入した。印刷機は昭和の頃、2色機が主流で、2色一度に入れることができるが、カラー印刷には2回機械を通さないといけない。 夏休みの宿題に「印刷物ができるまで」というポスター発表を作ろうと、父について木場の

          「父の生きた時代」を想う 6

          「父の生きた時代」を想う 5

          その1はこちらから 戦争の記憶と長い付き合い 父は小学生の時終戦を迎えた世代だが、私が子供の頃その両親がお世話になったような世代の人々は、大なり小なり戦争によって人生が変わった。今日、これを書いているのは終戦記念日なので、それについて思い出した。 毎年1度受注していた印刷物に、ある学校の同窓生の会誌があった。それは戦前に青島か大連にあった学校で、終戦で日本に引き上げてきた同窓生が毎年その消息を知らせあうために発行しているようだった。 お客様の印刷物だが、同窓生の名簿が入っ

          「父の生きた時代」を想う 5

          「父の生きた時代」を想う 4

          その1はこちらから 昭和の中卒を誇る父 昭和には「金の卵の中卒労働者」と言う言葉もあったが、父も中卒だった。 父は小学生の時疎開先で終戦を迎えたが、その時点で家族の長だった。あまり自分のことを話したがらないので詳しくわからないが、父の父(祖父)は戦争中に足が悪いといって戦争にいかず、財産をなくし、家族を疎開先に送るとそのままどこかへ行ってしまったようで、お嬢さんで育ったために何もできない祖母と4人の兄妹の面倒は長男である父がみていた。中学を出るとまず自分が製本会社で住み込

          「父の生きた時代」を想う 4

          「父の生きた時代」を想う 3

          その1はこちらから 昭和の自営業 昭和の時代、印刷業というのは”机一つ”で始められ、今のようにどの会社にもコピー機が設置されていないころは、どんな業種でも事業の一環として必要とするサービスで(それは今も同じかも)、だから東京都のようなところにはたくさんあり、東京都の産業の一つに”印刷業”が挙げられていたのを社会科で習ったような記憶がある。紙の問屋、印刷工場、写植屋さん、そして手順やそれぞれの納期などの知見があれば、顧客から相談をうけ、印刷物の内容や予算に合わせた企画を作り、

          「父の生きた時代」を想う 3

          「父の生きた時代」を想う 2

          その1はこちら 仕事が趣味です お通夜もどきの夜、姪たちが「おじいちゃん」の思い出話をしていた。ガチャガチャで孫が欲しい景品が出てくるまで何十回も100円玉を投入しあとでおばあちゃん(母)から大目玉を喰らった話などは、チョン・ジアが金髪の高校生から父親の話を聞いた時のように新鮮だった。そもそも私は姪たちとの接点も数年に一回しかなかった。隣の県に住んでいるというのに。 昭和50年代に起業をした父は、その時代の多くの日本人と同じくモーレツに働いていた。記憶の中にあるシーンで、

          「父の生きた時代」を想う 2