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「父の生きた時代」を想う 9

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火事とボロ家

夏の朝(7月30日か31日)、車のドアが開く音で目が覚めた。気がつくと車の運転席の後ろに放り込まれた。弟が隣に、やはり助手席の後ろに放り込まれた。あたりはまだ暗く、子供二人を駐車場の車に放り込んで、親二人が家に向かって走っていくのがわかった。すでに人が出ていて、祖母がお経を唱えていた。自宅が火事になったのだと、すぐにわかった。小学校入学前だったが、”姉”を気取って、となりの弟に「みんなが無事ならいいじゃない」とか言ったような気がする。
その前日、普段は寝付きの良いはずの私は、珍しく何度も夜中目が覚めて、その度に寝室にしていた6畳間のとなりの3畳間で話をしてた両親に「水飲みたい」と言い、コップ一杯の水をもらって飲んだ気がする。両親は起業したばかりで、その日夜遅くまで、(明け方まで?)事業のことを話していたそうだ。

私が何度も夜起きるのは珍しいが、私はその家に引っ越した2歳の時、好奇心旺盛で先頭切って家の中に飛び込んで行ったのち、急に泣きながら飛び出してきたと、母親からよく聞いていた。その夜は、ほかにもいくつかその日だけ起きた偶然が続いた。
祖母は後に、あの日は虫がうるさくて目を覚まし、普段は閉めて寝ていた雨戸があいていて(その頃はクーラーもなかったのに真夏に雨戸を閉めて寝ることができたのだろうか?その辺は後の創作な気がするが)隣の家の窓ガラスがに煌々と火が映っていた・・・と語った。
祖母の叫び声で両親は目が覚め、子供たちを一人づつ抱いて外に飛び出し、通りの向こうの駐車場に停めてあった車に子供たちを放り込むと、事業で使う書類などを取りにまた火の手の中家に戻ったのだ。
後に母はあの日のことをこう話していた。「たまたま、前の日に仕立て終わったワンピースがかけてあったの。それを掴んで外に出たのよ」時は70年代で、起業したばかりの家族は貧しく、器用な母はよく自分や私たちの服を自分で作っていた。当時の家は賃貸で1Fが台所とお風呂、6畳、3畳が2つに我々が住み、2Fが6畳一間のアパートがいくつかあった。玄関はみなで共有していたため、玄関から廊下を入って3畳の居間に続くドアに鍵が付いていた。トイレは玄関の廊下にあったので、夜中にトイレに行く時、共有の廊下にでないといけない。2Fの住民は学生などが多く、朝は新聞配達にでかける人が多かったそうだ。そしてタバコの吸い殻の山が明け方の火事の火元となった。1Fは焼けずにすんだが大量の水を浴びた。母が結婚の時もってきたタンスと鏡台は水で撓んだと母は嘆いていた。生まれたばかりの子供に、どこかの営業マンがうまく売りつけた英語のブリタニカ百科事典も水を浴びたが、一冊づつ箱に入っていたので、本自体は助かった。
そして夜があけると、子供二人は近くの親戚の家に放り込まれた。

両親は大変だったはずの新会社の事業と、火事の後の処理に忙殺され、それでもなぜか親戚で予定していた旅行にもちゃんと参加して、9月の新学期が始まる前に、火事になった家のそばに借りた一軒家に一家は収まった。1Fに台所、風呂トイレ、6畳と3畳、2Fに6畳、そして2Fの窓の外(屋根の上)にベニヤ板で作った”物置”があり、子供達としてはかっこうの”秘密基地”になった。この新しい家はガタガタで、車が通っても地震かと思うほど揺れた。階段に手すりがついていたが、これにお転婆な私がよじ登ると壁からはずれて私は階段から手すりごと落ちて頭を打った。隣が当時借りていた(我々が放り込まれた)駐車場だったので、3方を隣の家に囲まれた前の家より、どの部屋も全体的に明るかった。駐車場とは未舗装の狭い通りが隔てていたが、通りに面して洗濯機置き場があり、洗濯をはじめると通りは水浸しになっていた(排水管がつながっていなかったのだろうか)この通りの奥にまだ家が数件あって、その家の人たちも通っていたのに、我が家はこれをまるで自宅の庭かのように、花を植えたり、アヒルを飼って、小屋を置いたりしていた。
洗濯をすると通りに溢れた水で、アヒルのガーコが水浴びをしていた。家の中ではハムスターも飼った。事業がだんだん軌道にのってきて、社員の人が泊まりにくると、ハムスターのカゴがある居間で寝かされ、「夜中うるさかった」嘆いていた。

小学校に入学すると、なんとか家具をつめて作ったスペースに勉強机を置いた。(秘密基地を勉強部屋にしろ、とは言われなかった)そして、なんとその狭いボロ屋にさらにピアノがやってきた。
私が生まれた時セールスマンにのせられたのは英語のブリタニカ百科事典だけではなく、小学校に上がる年に買うという予約購入のアップライトピアノもあったのだ。当時そういう家は他にもいっぱいあったと思う。私が生まれた家は6畳一間のアパートで、月の収入は5万円程度だったはずなのに、30万ぐらいするアップライトピアノを予約購入したのは、さすがに昭和の親だと思う。私が7歳になるまでにピアノがおける家に引っ越すだろうと疑いもなく思っていたということだ。
小学校では、女児の多くがピアノを習っており、家にピアノがあった。(セールスマンにのせられたのは、うちの両親だけではなかった)その頃住んでいた地域からすれば、どの家の所得も同じぐらいで、我が家のようにピアノは年収の1/3とか半分とかだったと思う。本当に昭和の親たちは、ポジティブで、未来は必ず良くなると思っており、しかも子供達に惜しげもなくお金を使ったんだな、と思う。

このボロ屋には2年ほど住んだ。弟も小学校に上がる前年に、両親は自宅購入に向かって行動を開始した。当時は西の方の団地が流行っており、一家で見学に行ったこともある。しかし当時「団地サイズ」と言われる間取りが小さいことが母の気に入らず、なかなか引越し先は決まらなかった。
ある日母は突然「決めた」と家を衝動買いする。別の家を見に行った帰りに新たな分譲地があるという広告をみて、立ち寄り気に入ってその場で決断したのだ。翌日事業で使うと言って200万借りて頭金を払ったと豪語していた。もう消滅した会社の前世紀の話だし真相もわからない。あとで住所をみると「埼玉県」となっていて、引っ越すまで近所の人にからかわれたそうだ。「埼玉県なんて引っ越して大丈夫?」実際引っ越すと下水もガスもきておらず、浄化槽にプロパンガスでショックを受けた。区画もグチャグチャで駅からタクシーでもバスでも、近くまで来るのは困難だった。しかし自然豊かで家の前には雑木林や川があり、あっという間に沼でザリガニを釣り、雑木林を探検し、朝は鳥の大合唱で起きる生活を楽しんだ。

その10に続く


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