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「父の生きた時代」を想う 10

その1はこちらから

倒産
父の小さな会社は80年代前半に倒産した。他の会社の借金の連帯保証人になり、その他の会社が倒産して社長が逃げ、連鎖倒産したのだ。父の会社自体は受注もあり、納品後は入金もあり、問題なく社員を雇っていた。それでも自分もお金を借りる時に必要だから、互いに他の人の連帯保証人にならなければならない時代だった。子供心に「この社会、何かおかしい」と憤りを感じた。将来金融制度をよくすることができる人になりたい、と密かに誓った。
父の会社は贔屓目にみても、商売はうまくいっていて、だから倒産後も「こんなに静かな債権者会議はない」と言われ、工場は同業他社にそのまま買い取られた。「お客さんに迷惑はかけられない」と倒産したことがわかった後も、受注していた分の印刷をタダ働きで続けていた働き者の工場の社員たちも、工場ごと新会社に引き取られたと聞いている。そして両親もメインの顧客だった出版社のオフィスに机を置かせてもらい、翌日からそこでその出版社の”印刷部門”になった。

倒産というものがリアルにわかっておらず、ドラマで見たような、その翌日から家を追い出され小さなアパートで両親が飲んだくれている・・・みたいなイメージがあったが自宅も残った。でもそれは周りの関係者の好意のおかげだったようだ。母はその後、将来の家族のためにと家の名義を父から自分に変更した。
実際仕掛かり案件の整理や、債権の整理などで両親はそれまで以上に忙しく働き、家にいた日は1日もなかった。それが秋の出来事で、冬だったからその翌年だと思うが、ある時両親が「独立した」といい、家族で車で外出した帰りに新オフィスに立ち寄った。二つの倉庫みたいな建物の間にある細い階段を登ると、まるで屋根裏部屋みたいな小さな窓のない部屋があって、机が2台押し込まれていた。電話(昭和のオフィスは絶対これ)と一つの机の隅にポットとお茶のセットが置いてあって、母が編んだ膝掛けが椅子にかかっていた。会社の名前はなんと倒産した前の会社と同じ名前だった。
「みんながそうしろと言うから・・・」と母は照れた表情で言った。「お父さんのみんなに好かれる性格のおかげよ」
その後すぐに、高校受験を控える私のために自宅の増築が行われた。その雑な工事から相当安く頼んだのだとは思うが、車庫の上に鉄骨を組み壁の一部の穴を開けて部屋を2つ増やしたのだ。父はどこかの倒産した会社から物品で押収した事務机を、小さくなった小学生用の机の代わりに私にくれた。
灰色の両袖に引き出しのある馬鹿でかい机で、大学院を終えるまで使った。

それでもその後3年ぐらい、我が家はシビアにお金に困っていた。ある時母の弟である叔父が倒れた。母は私の部屋に来て「どうしよう、お金がない」
私はまだ中学生だったが、その年のお年玉に手をつけずにいた現金を持っていた。1〜2万円だったと思うが母に渡した。
同じ頃ある日曜日、石焼き芋屋さんがいい匂いをさせて家の周りを巡回しはじめた。私はつい欲しくなって母に頼みお財布をもって外にでた。
「中学生?いいねえ」と乗せられて1000円近く買ってしまった。戻って母にいったら、一瞬悲しそうな顔をして「え?そんなに買っちゃったの?返しにいけないかな」と言った時、母を悲しませてしまったとショックを受けた。

数年後だったと思うが、ある日曜日自宅で私が電話をうけると、その倒産の時よく聞いていた「逃げた社長」と同じ苗字の男性が父と話したいといった。父はどもりがあって普段あまり喋らず、声を荒げたりもしない人だったが低い声で「わかった」といって母と二人で車で出掛けて行った。ドラマのような展開にドキドキした。しばらくして二人は帰ってきて、逃げた社長が詫びて、毎月数万円ずつでも返したいといってきたのだと知った。
「あのオシャレな男が、ヨレヨレのワイシャツを着ていたわ」と言う母の声に、”少しでも返したい”と名乗り出てきたことで許したのだと感じた。もちろん彼に踏み倒された借金は数万円ずつの返済で終わるとは思えないようなモノだったろうけれど。

両親は倒産でその後何年間もクレジットカードが作れなくなった。自分も大学生になった時クレジットカードを作ろうとして審査に落ちたことがある。
政府は今でも零細企業に融資をする時、経営者に個人補償をさせたり、しかも連帯保証人を立てることをやめさせようと取り組んでいる。しかし父の生きた時代、労働者の多くが日々の糧をえていた零細企業はみんなこんな状況だった。そしてかれらがリスクを背負って起業し他の人にも職を与えたからこそ日本という国の経済は強くなっていったはずなのに。

大学院の2年目に最後の学費が無事払い込まれたと知った時、言葉に表せないほっとする気持ちが湧いた。自分は絶対サラリーマンになろうと誓った。
就職してしばらく経った時、母が「やっと他人の借金を返し終わったわ」と言った。たまたまオフィスのあるビルに「うかい亭」が入っていたので、奮発してステーキを両親にご馳走した。板前さんはお肉を焼きながら「今日は何かの記念日ですか?」と聞き、私たちは「ええ」と言いながら互いの目を見て笑った。

その11に続く


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