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「父の生きた時代」を想う 4

その1はこちらから

昭和の中卒を誇る父

昭和には「金の卵の中卒労働者」と言う言葉もあったが、父も中卒だった。
父は小学生の時疎開先で終戦を迎えたが、その時点で家族の長だった。あまり自分のことを話したがらないので詳しくわからないが、父の父(祖父)は戦争中に足が悪いといって戦争にいかず、財産をなくし、家族を疎開先に送るとそのままどこかへ行ってしまったようで、お嬢さんで育ったために何もできない祖母と4人の兄妹の面倒は長男である父がみていた。中学を出るとまず自分が製本会社で住み込みで働き、続けてすぐ下の弟が中学を出ると呼び寄せた。しかしその下の妹が高校に進学するのはサポートした。(父は私についても女性だから学問はいらないなどという考えは夢にも持っていないようだった。昭和のフェミニストだ)
ある時古い写真が出てきて、生まれたばかりの父が正装した写真が出てきた。「なにこれ?」というと叔母があの頃は一族は金持ちだったと教えてくれた。横浜に大きな家があったらしい。祖母も貿易に関わる一家出身で、大連で生まれその後横浜に引っ越し女学校を出た。「若い頃はグラウンドにベースボールをみに行った」などと贅沢な暮らしをしていたようで、祖母の妹の嫁ぎ先も裕福で、父の従兄弟たちはみな大学に進学していた。

しかし貧乏で進学できなかったのに父は全く暗くなかった。
住み込みで働いた製本会社B社を”B社大学”と呼び、そこで商売について覚えたとむしろ誇っていた。製本や印刷業の流れを理解し、のちに起業をするためのネットワークを築いた。当時の写真をみるといつも笑顔だった。一回り下の一番下の弟は高校どころかその先の学業まで父にサポートを受けたらしいが、彼からみると父親代わりの「働き者で偉大な兄貴」は、仕事だけでなくジャズが好きで、洋画が好きで、ドライブが好きだったそうだ。まったく裕福な趣味だ。人の悪口を言っているところも聞いたことがなかった。喧嘩をしたところを見たこともない。相手が怒ってもからかって最後は笑わせてしまう才能があった。これは商売をするために絶対に必要な資質だと母はよくいっていた。それもB社大学で身につけたのだろうか。

ところで父は洋画とジャズは好きだったが英語はできたはずがない。
ある朝、母が笑いながら言った「お父さん、昨日アメリカ人の女の子のヒッチハイクを乗せたみたい」
遠隔地に納品にいった帰りの地方の街道と聞いたように思う。私と弟の最初の反応は、「どうやってその人がアメリカ人だってわかったの?」
父はとぼけて「アメリカン?」っていたらうなづいた、という。(当時の日本人にとって外国人の定義はアメリカ人だったところがある。
彼女は後部座席で何かずっと話していたが、何を言っているかわからない父は、洋画を真似して適当なタイミングで「ウーフン、ウーフン」とうなづいていたそうだ。サービスエリアについて「トイレ?」と聞くと彼女は荷物を全部置いてトイレに行っていた・・・という。母は呆れて「まあ人を疑わない性格というか、お父さんに直感的に信用してもいい、と感じたのか」と苦笑していた。

しかし昭和に商売をするには、この「この人は信用していい」と思われることは必須条件だと思う。父はよく人の面倒をみた。その人が恩を忘れて父を助けなくてもなんとも思わなかったようだ(母はよく怒っていた)。次に常に明るいこと。オフィスにいくといつもにぎやかで、いろいろな人が訪ねてきていた。中には「あの人用がないのにくる」と母がこぼすこともあった。しかしそのおかげで仕事は増え、会社も父も常に忙しく、不況の時もなんとか小さな印刷会社を生き延びさせた。

その5に続く

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