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「父の生きた時代」を想う 5

その1はこちらから

戦争の記憶と長い付き合い
父は小学生の時終戦を迎えた世代だが、私が子供の頃その両親がお世話になったような世代の人々は、大なり小なり戦争によって人生が変わった。今日、これを書いているのは終戦記念日なので、それについて思い出した。

毎年1度受注していた印刷物に、ある学校の同窓生の会誌があった。それは戦前に青島か大連にあった学校で、終戦で日本に引き上げてきた同窓生が毎年その消息を知らせあうために発行しているようだった。
お客様の印刷物だが、同窓生の名簿が入っていて、その多くに中国人の名前が含まれていたので興味をもった。
その中の一人が、父が親戚で何かイベントがあると一同をつれていく中華料理店を経営していることを、いつの頃からかなんとなく知った。その中華料理店は八重洲の地下街と、泰明小学校の隣にあった。我々が頻繁にいったのは八重洲店のほうだった。その経営者の方は、父よりたぶん10歳以上は年上だったと思う。日本人の姓だったが、背景はわからない。ただだんだん大きくなって歴史を学ぶ中で、青島だったか、大連だったかその卒業した学校があったところは、彼にとっては帰れぬ”故郷”になってしまったのだと理解した。
毎年毎年、彼らは印刷を発注し、父は家族をつれて食事にいった。印刷業は長く、さまざまな人とお付き合いできる、というのが両親が印刷業を気に入っていた理由だ。
父の末の弟、兄妹で唯一高校以上の教育をうけた叔父は商社マンとなり、家族をつれて米国駐在となった。その叔父一家の壮行会もそこで行った。私たち子供だけでなく従兄弟たちまでが、恋人ができるとなぜかうちの両親に紹介したがり、やはりこの中華料理店で食事会をしていた。何十年と続いた付き合いはいつどうやって始まったのだろう。これも聞かずじまいだった。
やがて私たち子供が就職して家をでたあと、高齢になったその方が八重洲の中華料理店を閉店させたことを聞いた。同窓会誌の印刷がいつまで行われたのかも、もうわからない。

父より年下の母は終戦時は2、3歳だった(はず)で、私が子供の頃、中国残留孤児の帰国のニュースを聞くたびに新聞を食い入るように見ていた。母の家族が中国にいたという話は聞いたことがない。「置き去りになったのはみな私と同じ年頃の人たちだから」と言っていた。しかし母方の祖父は終戦を出兵中に大陸で迎え、そのままシベリアに抑留された。幸いにも数年後に帰国できたが、もしかしたら知人で子供を大陸に残してきてしまった家族があったのだろうか。

それからバブルが来て、円高になり、日本は世界中に”日本人観光客”を送り出した。コロナ前まで中国には短期間であればビザなしで訪問でき、文字通りの最も近い隣国になった。戦争の記憶は遠くなり、日本が戦前に建てた街並みが”どこか懐かしい景色だ”といって観光客があつまるところになった。自分自身もある年大連から列車で長春、ハルビンとまわり、バスで青島にいくという旅行をした時、あの毎年印刷していた同窓会誌を思い出した。そしてあの名簿に記載された同窓生たちが、”故郷”を訪問する機会があったことを願った。

その6に続く

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