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「父の生きた時代」を想う 7

その1はこちらから

昭和だからできたこと

子供の頃よく父や母の話を面白く聞いて育ったが、自分が彼らの年を超えると、中には昭和だからできたことで今はできないなあ・・・と思うこともある。ちょっと寂しいなと思うが。

子供の頃、朝食はいつも”昨日のエピソードタイム”だったが、父のしでかしたことがたいてい食卓の話題だった。
「昨日午後ちょっとおなかがすいたねということになって、ラーメンでもとうろうか言ったら、XXXくん(若手社員)が、『もったいないからここで作りましょう』と言って。彼、器用なのよね。インスタントラーメンが4個と冷蔵庫に卵が2個あったの。それでゆで卵つくって、半分にカットして、ラーメンを4杯作ってくれたの。そしたらお箸がなくて」
母は困ったなという感じで言った。
「お父さんが『俺ちょっと行ってくるよ」て言って、ビルの1Fのお蕎麦屋さんで割り箸4膳もらってきたのよ』

(私はこういうところを受け継いでしまい、子供の頃から悪気なく父のように周りの人に助けを乞い、迷惑をかけてきたとおもう)

ある冬の朝、車のエンジンがかからなかった。すると近所の私と小学校で同じクラスの娘さんがいる家にいき、朝っぱらから(しかも雪が降るぐらいの寒さだったと思う!)車をうちの車の前まで持ってきてもらい、ワイヤーでつないでエンジン点火を助けてもらったのだ。2台の車がエンジンをかけるために唸っていた音が今でも鮮明に思い出される。
母は頭を抱えて「朝早くからすみません」と何度も言っていた。友達のお父さんはジェントルマンで朝早くだったのに、きちんとした格好で「いえいえ」と微笑んでいた。それから40年ぐらいたって、ハイブリッドカーをたまにしか運転しない私は、年に数回はエンジンがかからなくなってJAFのお世話になる。「あの頃はJAFってなかったのかしら」と、あの冬の朝を思い出す。

父はさすがに社長なのだから、割り箸だって買いに行けたしロードサービスだって呼べたと思う。でもわざと周りの人に頼む。たぶんささやかなことで近所の人と繋がったり、あらたな会話のチャンスにしたかったのではないかと思う。(自分も父に似たので、今なんとなくそう思う)

他にも昭和だからできたのかなと思うことに採用がある。母は採用広告を出す時、どういう人に来て欲しいかを考えて新聞を選んでいた。そして面接試験をすると一番目と二番目を外して三番目以降の人を採用すると言っていた。理由は「すごく優秀な人より、ちょっとそうじゃない人のほうが、うちみたいなところで一生懸命仕事をしてくれるから」だそうだ。今ならこんな採用をしたら文句を言われそうだ。

商売をしていると人との付き合いの連続だ。父は人好きで、同時にすぐ人を信じてしまうところがあったので、逆に印刷代金を踏み倒されたり、騙されたりもして母はいつもイライラいしていた。
そのため人を見抜くのは母の仕事になった。そこでさまざまな人相学の本を読んで研究し、「新規のお客さんとかがきて、ドアを開けて入ってきた瞬間、顔をみてこの人を信用していいか悪いかが、見抜けるようになった」と豪語していた。
そんな母は自分のことを「経理」と呼んでいたが、周りの人は(本人がいないと)「女社長」と呼んでいた。

一回だけ、朝まだ父が起きてこない時、母が神妙な顔をして前日のエピソードを買ったことがある「お父さん、普段はニコニコしてて、人がいいと思っていたけれど怒る時は怒るのよね。昨日二人首にしたの」
何があったのかとドキドキしたが、これは話題にできなかった。
(今は、昭和ってそんな簡単に人を解雇できたのか、と思うところだが)

これももう聞くことができなくなったエピソードだが、戦後苦労をして生きてきた世代として父は、誠意をもって働かない人を嫌っているところがあったので、そんなことが理由だったのではないかと思っている。

その8に続く


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