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「底辺製造機」の側面を持ってしまっているスポーツの現状の構造

スポーツ選手の引退後や現役中であっても待遇は多くの場合厳しい。これはもう説明不要であろう。プロどころか実業団や、スポーツ推薦であっても一旦スポーツを離れると厳しい状態に絶たされがちである。それでもスポーツだけに入れ込んで引退前後で詰んでいるか、崖っぷちの人が後を絶たない。

ご存知のように多くのスポーツ、多くの人にも身近であったと思われる小中高の部活等を見ていてもわかるように、彼らはサボっていたわけではないし、むしろこれ以上に無い位に取り組んでいる。よくテレビで取り上げられるドキュメンタリーに至っては正気の沙汰ではないほどの厳しさのものも見受けられる。

しかしそれでもスポーツは一種いわゆる「社会の底辺製造機」のような側面を持ってしまっている。なぜなのだろうか?この構造を考えていきたい。解決策も考えていきたい。

前提:社会で活躍するには?

日本社会で活躍するには、何をするにも基本的に学ぶ必要がある。これは一言で言うと「勉強」である。端的に言えば、社会で活躍するには勉強をする力が必要となる。OJTのような方式があるといっても、基本は読み書きを伴う思考が関係する。どうしても学習能力の高さが必要となる。

スポーツ推薦・実業団などの制度

ご存知のように日本ではスポーツ推薦という制度がある。これは、ざっくりいえば「スポーツが出来る」ことのみで進学や就職を認められる制度である。これは「スポーツだけやっていれば、勉強なんてできなくてもいい!」という考えを肯定する制度といっても過言ではない。この経験によりスポーツに対して成功体験を積んでいる可能性が高くなる。

一方で、特に勉強には苦手意識とトラウマを抱えがちになる傾向にある。しかし特に学校生活や実業団等では、「スポーツだけやっていればいい」という周囲の大人たちからの教育も相まって、スポーツにひたすら打ち込むことを正当化されてきている。そして当事者たちはスポーツには比較的成功体験が貯まっていき、スポーツだけに余計に打ち込むようになる。勉強は相変わらず放置され、周囲の大人もそれを問題視しない、またはしなくていい構造になっている。

ここで、スポーツ推薦や実業団は、要するに学生や社員を広告塔として使いたいという思惑がある制度である。選手の将来を考えているものとは言いづらい。

「一所懸命」・「浮気をせず一つのことに集中して頑張ることが美徳」という考え方

日本には、浮気をせずひとつのことに集中すること、「この道一筋何十年」を称賛する傾向がある。これはスポーツにも当てはまる。「一つの事を我慢して続けて成果を出すことは素晴らしい」、「勉強なんかに浮気している場合ではない」という考えを持つ人も少なくはない。

デュアルキャリアが広まらないのもこの傾向によるものと思われる。

しがみつく

上記のような理由で多くのアスリートは、幼少期からスポーツだけに取り組むことを良しとされてきた。一部の多才な器用な人は問題がないものの、他の分野では思うように活躍できない人も多い。

その際、どうなるだろうか?おそらく「俺は勉強や仕事はダメだけど、スポーツでは結構活躍しているんだ!」と、スポーツでの実績や承認を心の唯一のよりどころにしていく。

更に、スポーツのエリア周辺にとどまれば「スポーツが強い!すごい!」と持ち上げてもらえるために、さらにスポーツだけに取り組む方向に目が向く。

しかし、知っての通り、スポーツで活躍するスキルを活かしてサッカーの代表や、一部の競技でオリンピックでメダルを取った人の一部だけであるのが現状である。他の人は付けたスキルを少なくとも直接的に生かすことは出来ない。

スポーツ以外のことに関する一種の「機会損失」

人間の時間は平等である。スポーツ選手がこのことはスポーツに真剣に取り組んでいるということは、他の事を行う時間が減ることを意味している。特に気分転換に行うのではなく、仕事とするくらいに主にやっている場合には、他の事を行っていたらスキルが付いていたであろう時間と労力を、スポーツに費やしていることになる。

他の方々がスポーツに取り組んでいる時のように、着実にスキルを付けている一方で、アスリートはひたすらスポーツに打ち込んでいる。これにより徐々にスキルレベルに差がついていくこととなる。ここでいうスキルは主に「行うことで金銭的な価値があるスキル」を指す。

スポーツも人間の身体能力が寿命直前まで向上していけばそれで問題はないが、身体能力は20-30代で大きく衰えていく。これは将来的に価値が激減するものに投資している状態になる。

他に生かせるスキルがないことに引退前後で気付く

枠内にボールを蹴りいれる能力やリングにボールを入れる能力は、直接的に役立つ仕事が、該当のスポーツ以外にはほぼない。いざ働こうとしても使えるスキルがそんな似ないことに気が付く。

ここで突破力や精神力があるのはまさしく正しい。ただしそれらの力を他の分野に生かすためには、自身で昇華しなければならないが、この能力がいわゆる「勉強」が関係している。しかしここで、勉強や机は小さいころに捨ててしまったスポーツ関係者がかなり多いために、これらの力を効率的に生かせない状態になりがちである。

プロ化をすると、さらに入れ込むことが正当化されるので被害者が増えがちである。

スポーツでついたプライドが仇となりがち

では、引退したらスキルが何もないから高卒の新卒のような仕事から始めよう、と一回り以上年下の上司から言われてすんなり受け入れられるだろうか?おそらく難しいだろう。「俺はスポーツでは活躍していたんだぞ!」とどうしても出て来てしまうことになる。

なまじ周囲の大人や社会からの期待に応えようと、ストイックに一生懸命努力してきている。無気力で引きこもっていたわけでは決してない。それなのに、この扱いはなんだ?と行き場のない思いを感じる元選手も多いことだろう。この場合どうなるだろうか?社会への憎悪を増幅させれば、反社・半グレ辺りに転身する可能性も高くなってしまう。

「こんなはずじゃなかった!」と感じる人が多数

程度にもよるが、物心ついたころからスポーツで「上を目指せ!」と周りに言われ、自らも上を目指すことが絶対的に正しいと考えてきた。

そして進路はスポーツ推薦で、学生を卒業後は実業団に。ここでも「スポーツ!スポーツ!勝利!」と言われてきている。

しかし引退した途端今度は「え?スポーツしかやってこなかったの?仕事できないの?」という態度で迎えられ、本人たちは「え?今まで周囲に言われるように頑張ってきたのに、何もないの?」と感じることになっている。

しかし客観的に見れば、運動神経が良かっただけの人になる。

周囲は主に善意と一部思惑でアスリートを支援し、本人たちは「頑張っていれば何かがある!」と継続していった結果が、現状の引退したらその先が厳しい問題に直面している、と見ることが出来る。

解決方法

解決方法へのアプローチは、当アカウントでもいろいろ紹介してきた。政治的な構造から厳しいものも多いが、参考いただければ幸いである。

事前に警告する

「スポーツだけやっていると人生悲惨なことになる可能性が高い」という警告を幼少期からしていくのは良いかもしれない。スポーツ業界に限らず、多くの分野で「若い時は夢を持て!」とはよく言うが、地に足がついていなかったり、現実から目を背けるタイプの「夢」は有害にすらなりうる点は気に留めておきたい。

以下のように「同意書」を書かせるのも良いだろう。本人が納得して取り組んでいる分には「こんなはずじゃなかった!」と感じる人はおのずと減るはずである。

規制

現状の業界構造からも、難しいとは思うが、出来るのであれば「スポーツだけ」やらせることに規制をかけてもよさそうである。

制度設計で頑張れば頑張るほど、スキルと地位も向上するようにする

上記の何が問題かと言えば、「スポーツだけやる」ことを是としていることである。スポーツだけに入れ込むことで、少なくとも業界内では地位が上がっていく構造になっていることだろう。しかしいったん業界を離れるとただの運動神経がいいだけの何もできない人になりがちである。

では、スポーツを頑張るには、まずある程度仕事や勉強が出来ない限り上は目指せない構造に持っていくのはどうだろうか?

こうなれば、引退したら、スポーツをやるためにあげた仕事のスキルを直接使うことが出来る。「宿題やらないとゲームやっちゃダメ!」という子供の教育に近い。

終わりに

スポーツは「社会の底辺製造機」のような側面を持っている。これは選手やコーチ・企業などが悪いわけではなく、彼らは彼らのベストを尽くしているし、決して悪意があるわけではないだろう。しかし全体としてはそのような構造になっていること、アスリートは知らぬ間に「被害者」になりがちになることは留意しておいた方が良いように思われる。

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