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前田ネイトが何を言っているのかを理解してみよう!のコーナー

最近、思いついたことはすぐnoteで「つぶやき」として短文を置いておいてみてるんですけれども これ、文字数が少ないなどの関係で表現を濃縮せざるを得ないんですよね。

あと俗に言うクソリプが嫌いなのと、意図しない形で誤解されるのはすごく不快なので、そういうの付く隙がないくらいまでわざと抽象化してる部分はあるかも。
(基本議論しません。そういうのはchatGPTへの壁打ちでお願いします。「曲解による、書いてないことへの応答」は自分がやる必要ないんで、すごく時間の無駄。そんなことより絵を描きたいからね。)


心理学用語とかモリモリすぎて、一般的には伝わりにくいだろうな〜〜(でも伝わるように書くと長くなりすぎるし、ちゃんと長い文章にするほどのことでもないのよね)
くらいの気持ちで書いてます。つぶやきは。

そこで、今回はそのつぶやきの中から適当に選んだのをchatGPTに再編させることにより前田ネイトが何を言ってるのか理解してみよう!という記事を作ってみることにしました。

(ちなみに、どういう訳か自分の文章とchatGPTは相性が良いようで大体8割以上くらいは毎回意図した解釈をしてくれます。)


あ、目次は長いんで読み飛ばしてもらって大丈夫


・逆張りという無自我。
認知的不協和によって生じた不快感のため反射的に「誤った手段」そのものを正当化したり、原因を悪魔化することで「違法的行為」を根本から肯定するといった行為を是としてはならないと思う。
それが色んな悲劇を生む。
顔造形が気色悪ければ殺されて当然だと、そう言うの??

chatGPT:
この文章は、逆張りや認知的不協和による誤った行動や思想を批判するものです。具体的には、以下の内容を含んでいるように見えます。

逆張りという無自我:
これは「逆張り」、つまり一般的な意見や常識に反対する姿勢が無意識に行われていることを指しています。「無自我」という言葉は、自己を失い、反射的に逆らう行動を取ってしまうことを表現しています。

認知的不協和:
人は自身の信念や行動に矛盾を感じたとき、その不快感を解消するために、誤った手段や考え方を正当化してしまうことがあります。
これは「認知的不協和」と呼ばれ、例えば自分の行動が道徳的に間違っていると感じたとき、その行動を正当化しようとする心理現象です。

誤った手段の正当化:
ここで言われているのは、認知的不協和が原因で、正しくない行動を正当化することの危険性です。
例えば、何か不法な行為や道徳的に問題のある行為を「仕方がなかった」「他に方法がなかった」として肯定してしまう姿勢を批判しています。

「顔造形が気色悪ければ殺されて当然だと、そう言うの??」:
この部分は、極端な例を使って、不合理な行動や考え方がどこまで暴走してしまうかを表現しているようです。
例えば、「見た目が気に入らないから殺されて当然だ」というような考え方は、倫理的に誤っていますが、もし認知的不協和の中で自己正当化が行き過ぎると、そのような非道な行動や思想をも正当化するようになる、という警告を含んでいるのかもしれません。

要するに、この文章は、自己正当化や感情的な反応が極端になることで、不道徳な行為を肯定する危険性を警告しているのです。




・アメリカ的として受け入れられにくいと思うけれど、それでもやはり「主張すること」は尊いと思うしそれこそアートや芸術の根幹だという風に思う。問題提起の美徳。
暴力ではなく、文化で争えば血は流れないというHIPHOPの精神が好きだ。コミュニティへの誇りと自尊心、そして他への尊重。

chatGPT:
この文章は、自己表現や主張の重要性についての考えを表現しています。以下に解説します:

「アメリカ的として受け入れられにくい」:
これは、意見を強く主張することがアメリカの文化では一般的であっても、他の文化圏ではそれがネガティブに捉えられることがあるという点に触れています。自己主張が強すぎると、人によっては押し付けがましいと感じることがあるため、受け入れにくい部分があるということです。

「それでもやはり『主張すること』は尊い」:
たとえそれが受け入れられにくいとしても、自分の考えや感情を表現することは非常に重要であり、尊い行為だと述べています。これは、アートや芸術の重要な役割の一つである「自分の視点や意見を表現すること」を指しています。

「問題提起の美徳」:
アートや自己表現は、社会や個人が抱える問題を提起し、他者に考えさせるきっかけを与えるという役割を持っている、という美徳が強調されています。
つまり、アートは単に美しさを追求するものだけでなく、現実の問題を可視化し、それを通じて考えを深めることを目的とすることができるということです。

「暴力ではなく、文化で争えば血は流れないというHIPHOPの精神」: ここでは、HIPHOPが持つ平和的なメッセージについて言及しています。HIPHOPは、言葉や音楽、ダンスを使って自己表現や競争を行い、暴力ではなく文化的な手段で意見を交わしたり競い合うことを尊重するという精神があるとしています。暴力に頼るのではなく、音楽や言葉を通じて対立や競争を解決することができる、という考え方です。

「コミュニティへの誇りと自尊心、そして他への尊重」:
HIPHOPの精神は、個々のコミュニティへの誇りを持ち、自分を大切にすること(自尊心)、そして他者への尊重を同時に持つことを推奨しています。
つまり、自己表現をしながらも、他者を尊重し、暴力ではなく文化を通じて対話することの重要性を説いているということです。

この全体的な意味としては、強い自己表現や主張が必ずしも受け入れられやすいわけではないが、それでも自己表現はアートや社会の根幹であり、その一部として、HIPHOPが持つ平和的な自己表現の精神が尊重されるべきだ、という考えが表されています。



・技術どうこう以前に、「元型」や「集合的無意識」のようなものをインストールすることに役立つものの一つとして石膏像デッサンという練習法が通例的に用いられているように思う。
構成の要素とかに関しても。
だからこそギリシャ神話に出てくる者たちを描くのが定番化されている?のかもと考えた。

chatGPT:
あなたの考えは、「元型」や「集合的無意識」といった心理学的概念が、デッサンや美術の世界でギリシャ神話などの定番モチーフとして使われている理由についての興味深い仮説を示しています。

「元型」とは、心理学者カール・ユングが提唱した、全人類に共通する普遍的なイメージや象徴を指します。「集合的無意識」は、個々人の経験を超えた深層の無意識にある、共有された記憶やイメージの集合体です。ギリシャ神話に出てくる神々や英雄たちは、これらの元型に合致することが多く、人間の基本的な感情や物語、葛藤を象徴しています。

石膏像デッサンが「元型」や「集合的無意識」のようなものをインストールするために役立つという考えは、これらのモチーフが視覚的な訓練を通じて深い構成や象徴に触れる機会を提供することに基づいているのかもしれません。ギリシャ神話のキャラクターは、その象徴性やバランスの取れた形態によって、人間の基本的な美しさや感情を表現しています。それらを描くことは、単なる技術の練習だけでなく、元型や集合的無意識を視覚的に表現し、理解を深める手段としても意味を持っている可能性があります。

石膏像デッサンが通例的に用いられているのは、ギリシャ神話に由来する彫像が古典的な美術教育において「理想的な形態」を表現していると見なされているからかもしれません。
ギリシャ神話の神々や英雄を描くことは、そのような「理想美」や構成の要素を学ぶための定番的な手法となっているということでしょう。




・「根は悪い人じゃない」は様々な災いを引き起こす。
大概の殺人犯も窃盗犯も非行少年も「根は悪い人」じゃ無いだろう?

chatGPT:
この表現は、「根は悪い人じゃない」という言葉が、場合によっては問題を軽視したり、行為の責任を曖昧にしてしまう危険があるという批判を含んでいます。具体的には、次のような意味合いが考えられます。

行為の責任を無視する:
「根は悪い人じゃない」という表現は、その人の内面的な性格や意図を擁護するものですが、実際に起こした行為(犯罪や迷惑行為など)を正当化したり軽視する言い訳として使われることがあります。
たとえば、殺人犯や窃盗犯、非行少年など、悪い行為をした人々にも「根は悪くない」と言われることがあるかもしれませんが、その行為がもたらした被害や社会への影響を軽視することになります。

問題の根本を見失う:
こうした言葉は、個人の責任やその行為の問題を曖昧にし、適切な対処がなされないまま問題を放置する可能性を生みます。
例えば、犯罪や非行が繰り返される原因を「根が悪くない」と片付けてしまうと、具体的な対策や改善策が取られないまま、同じような問題が再発することがあります。

行為と性格を混同する危険:
この表現は、行為と人間の本質を混同してしまう恐れがあります。
たとえば、悪い行為をしても「根はいい人」という評価をすることで、その人の行動に対する批判が和らげられてしまうことがあります。しかし、行為そのものが問題であれば、その責任をきちんと問うべきです。

この言葉は、悪い行為が人間の本質と必ずしも一致しないという認識を反映していますが、それを過度に使うと、行動の責任を追求しない風潮を助長し、結果的に災いを引き起こす可能性があるという意味だと考えられます。





・勇気すらも持てぬ者に、一体何の責任が持てると言うのか?
責任を持つことを恐れることほど非生産的・反クリエイティブな行いも無い。

chatGPT:
この言葉は、責任を恐れることの非生産性や創造性を損なう影響について語っています。以下のように解釈できます。

勇気がない人は責任を持てない:
最初の部分「勇気すらも持てぬ者に、一体何の責任が持てると言うのか?」は、責任を持つには勇気が必要だということを強調しています。勇気がなければ、決断を下したり、自分の行動や選択に対して責任を取ったりすることができないという意味です。

責任を恐れることは非生産的:
次の部分「責任を持つことを恐れることほど非生産的・反クリエイティブな行いも無い」は、責任を持つことを避けると、物事が進まなくなることを指しています。
責任を恐れることで、行動や決断を遅らせたり、避けたりするため、クリエイティブな発展や成長が妨げられるということです。

つまり、この言葉は、勇気を持って責任を引き受けることが、創造的で生産的な行動に繋がると主張しています。責任を恐れることは逆に、行動を抑え、前進する力を失わせることを指摘しています。




・自尊心に満ちていない。これが問題。
自分の権利を侵害されることが不当である認識を多くの人間が持っていない。だから、法律という既にあるルールを無視して根拠のない非生産的なルールもどきでお互いを縛り続ける。
本質を無視し、何もしないことを正当化し、行動する者を冷笑する。不幸になる。

chatGPT:
この文章全体は、社会や個人が持つ自尊心の欠如と、その結果として起こる問題について論じています。主に次のような意味が込められていると考えられます。

1. 自尊心の欠如が問題の根源
「自尊心に満ちていない」という指摘は、自己肯定感や自己評価が低いことを問題視しています。自尊心がないと、自分の権利を守ったり主張したりすることができず、他者に従ってしまったり、自己の権利を侵害されても反応できない状態に陥ります。

2. 権利侵害に対する無意識さ
「自分の権利を侵害されることが不当である認識を多くの人間が持っていない」という部分では、人々が自分の権利に対して無関心であり、その権利が侵害されることが不当だと認識していないという問題を指摘しています。これによって、権利を主張する力が弱まり、個人が不当な扱いを受けても対抗できなくなります。

3. 無視される法律と無根拠なルールの支配
次に、「法律という既にあるルールを無視して根拠のない非生産的なルールもどきでお互いを縛り続ける」とありますが、これは既に存在する合法的な規則(法律)を軽視し、非合理的で無根拠な慣習や社会的圧力が支配的になっている状況を批判しています。この状況では、自由な行動が制限され、社会全体が息苦しくなるという問題が生じます。

4. 本質を見失い、行動を冷笑する社会
「本質を無視し、何もしないことを正当化し、行動する者を冷笑する」という部分は、社会全体が本質的な問題や改善の必要性を無視して、行動しないことを合理化し、むしろ行動しようとする人々を嘲笑する風潮があることを述べています。これによって、社会的進歩や変化が停滞し、問題解決の機会を失ってしまうという結果が招かれます。

5. 結果的に不幸になる
「不幸になる」は、上記のすべての要素が結びついて、最終的に個人も社会も満足感や幸福を得られず、停滞し、不幸を感じる状態に陥ることを指しています。自尊心の欠如、権利の無視、非合理的なルール、行動しない社会の結果として、個人も社会全体も不幸な状況に陥るという警告です。

総括
この文章全体として、自尊心が欠如していることが社会の根本的な問題であり、その結果として権利が侵害され、非合理的なルールや社会的圧力に縛られることで、社会や個人の幸福が損なわれているということを伝えています。




・最近考える、「創造性」の答え。
それは、一般や定説とは異なった選択をするという勇気。
それが"本心であるならば"そうするべきだということ。
才能なんて存在しない。
才能と片付けられるもの、それは異を恐れぬ者になろうという勇気を出さぬ者のための欺瞞であり怠惰であり、まやかしだ。

chatGPT:
この文章は、「創造性」と「才能」に対する考え方を深く表現しています。以下にそれぞれの要素を分解して説明します。

「創造性」の定義:
創造性とは、「一般的な選択」や「定説」と異なる選択をすることだという考えです。
つまり、常識や既存の枠に縛られず、自分の考えや価値観に従って新しい道を切り開く行為が創造性だと述べています。

「本心であるならば」:
「本心であるならば」というフレーズは、単なる反抗や自己顕示ではなく、心の奥底で本当に信じていることに基づいて行動することが大切だと強調しています。
つまり、単に人と違うことをするだけではなく、自分の真実に従って違った選択をすることが重要です。

「才能なんて存在しない」:
才能について、「才能」というものが特別に存在するわけではなく、それは一種の幻想だと主張しています。
才能という概念は、創造的に生きる勇気がない人たちが、自分を正当化するために使っている言葉だという解釈です。
つまり、才能を言い訳にすることで、自分が異なる道を選ばないことを正当化している、という意味です。

「異を恐れぬ者になろうという勇気」:
創造性や成功は、才能ではなく、「異なることを恐れない勇気」に基づいているという考えです。
他人の目を気にせず、自分の信じる道を貫くことで創造性が発揮される、というメッセージが込められています。

「欺瞞であり怠惰であり、まやかしだ」:
才能という言葉で片付けること自体が、自分の可能性を狭める「欺瞞」であり、「怠惰」であると述べています。
要するに、才能がないからできないと考えるのは、自分の本当の力や創造性を発揮することから逃げる言い訳だ、ということです。

全体として、この文章は「創造性とは異を恐れない勇気によって発揮されるものであり、才能は幻想に過ぎない」という強いメッセージを伝えています。
他人に合わせることなく、自分の信じる道を選ぶ勇気こそが、創造的な人生を切り開く鍵だ、という考え方です。




・勇気の元となるもの、それこそ自尊心だと思う。
自分の最近の主張の根拠はこの話に繋がる。
何故恐れるのか?それは自己存在そのものに自信が無いからでは無いのだろうか。己を信じないならば独創性は生まれない。
適切な生活を以て少しずつ肯定していけると考える。
それが健全な創造に繋がる。

この文章は、創造性や独創性の根底にある「勇気」と「自尊心」の関係を探求しています。以下に、それぞれのポイントを詳しく説明します。

「勇気の元となるもの、自尊心」:
ここでは、自尊心が勇気の源であると述べています。
自分自身を大切にし、価値を認めることで、他人の評価を気にせず、自分の考えや選択を信じることができるという考えです。

「恐れる理由」:
恐れの原因を「自己存在に自信がないから」としています。
つまり、自分の存在価値や能力に疑問を持っていると、新しいことに挑戦する勇気が持てず、創造性を発揮できないということです。

「己を信じないなら独創性は生まれない」:
自分自身を信じることが、独創性や創造的な発想を生むために必要であると主張しています。
自己信頼がなければ、他人と異なる道を選ぶことや新しいアイデアを試みることができない、という考え方です。

「適切な生活を以て少しずつ肯定していける」:
自尊心や自己信頼を育むためには、適切な生活や日常的な行動が重要だと述べています。
日々の中で自分を肯定する行動を積み重ねることで、少しずつ自信がつき、それが創造性に繋がるという考えです。

「健全な創造に繋がる」:
自尊心や自己信頼を持つことが、健全な創造性の発揮に繋がると結論づけています。
自己肯定感を高めることで、より自由に、かつ独自の視点から創造的な活動ができるようになる、というメッセージが込められています。

全体として、この文章は「創造性を発揮するためには自尊心が必要であり、自己信頼を育てることが独創性の鍵である」という主張を展開しています。
自分を肯定し、信じることで、新しい挑戦や独自のアイデアを生み出す力が育まれるという考え方を伝えています。




・喜びのために生き、喜びを広めることを行って喜びを増やすことで自分自身を幸せに出来る楽しい生き方をしていきたい。
喜びや楽しみを描き創り、それを頒かち広める行動を行える者でありたい。失望も、怒りも、それを感じられること自体が自己存在が実在するという喜びに繋がるので悪い事じゃない。

chatGPT:
この文章は、人生における「喜び」の重要性や、その広め方についての考えを表しています。以下にポイントを整理して説明します。

喜びの追求:
人生は喜びのために生きるべきだという主張があり、喜びを広めることで自分自身も幸せになれるという考え方です。

創造と共有:
喜びや楽しみを創造し、それを他者と共有することが重要であると述べています。
つまり、自分が感じる喜びを作品や行動を通じて表現し、それを他人に伝えることで、さらなる喜びを得られるということです。

感情の多様性:
失望や怒りといったネガティブな感情も重要で、それを感じること自体が自己存在の証明であるとしています。
このような感情も、自己の存在を実感するための要素であり、悪いことではないという考えが示されています。

喜びの循環: 喜びを増やすことや広めることが、自分自身の幸せにも繋がるという、ポジティブな循環を意識しています。

要するに、この文章は「喜びを追求し、創造し、共有することで、人生を豊かにしていくことが大切だ」と教えていると言えるでしょう。また、ネガティブな感情も含めて全ての感情が自己の存在を示す大切なものだと認識することで、より深い意味での喜びを見出そうとしているのです。



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