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【漫画】定子の清少納言と彰子の紫式部 ー 2人の中宮と女房の関係 ー

なにかと比較される清少納言と紫式部。しかしそれは当時の時代背景によるものだったのかもしれません。

清少納言と紫式部はともに平安時代を代表する作家で、同時代に生きた人物です。どちらも中流階級の出身で結婚・出産経験もあり、女房として中宮に仕えていた…と共通点も多いのですが、出仕の時期は異なり、互いに面識はなかっただろうと言われています。

にも関わらず、紫式部は『紫式部日記』に清少納言に対するかなり辛辣な批評を残しています。それは何故なのか、当時の時代背景を見てみましょう。


二后並立の前提となった、定子の父・道隆の四后並立

平安中期に絶頂を迎えた藤原道長。「この世をば我が世とぞ思ふ…」の歌で有名な人ですが、彼の娘で時の帝・一条天皇に嫁いだのが彰子しょうし、そしてその彰子に仕えた女房が紫式部です。
清少納言が宮仕えを始めたのは、道長が実権を握り彰子が入内する少し前。
当時は道長の兄・藤原道隆が関白として政治の中枢におり、その娘・定子ていしは既に一条天皇の中宮となっておりました。

「前代未聞のニ后並立」というと、道長が一人で強引に推し進めた印象がありますが、実はその前提を作ったのは道隆なのです。

律令によれば、本来“后“の地位は3つあり、それは

皇后…天皇の正妻
皇太后…天皇の母にして后位(皇后)にあったもの
太皇太后…天皇の祖母にして后位(皇太后・皇后)にあったもの

とされていました。
定子が入内した際、太皇太后には昌子内親王しょうしないしんのう(一条天皇の祖母ではなく、義理の伯母にあたる人ですが、実の祖母・藤原安子あんしは既に亡くなっていたので)、皇太后には藤原詮子せんし(一条天皇の実の母)、皇后には藤原遵子じゅんしがついておりました。

皇后・藤原遵子は一条天皇の父・円融天皇の正妻だった人。
ところが円融天皇と皇后・遵子との間に子はできず、別の妻・詮子(道隆・道長のきょうだい)との間にもうけた一条天皇が唯一の後継となりました。
本来ならば第一皇子の母が皇后となり、即位にともない皇太后へ移行するものです。しかし円融天皇の時代に皇子の母と皇后が別となってしまったため、子の一条天皇の代になっても、遵子が皇后の座に残ったままとなってしまったのでしょう。

いずれにせよ定子が入内した際に皇后の座は既に埋まっており、定子の立后は難しい状況でした。

そこで定子の父・道隆が考えたのが新たに”中宮“の座を設けるということです。

“中宮“はもともと皇后の住居を指す言葉でしたが、転じて、平安中期には皇后そのものを指すようになりました。当時皇后だった遵子も、皆からは「中宮」と呼ばれていたわけです。
しかし道隆は、”中宮“を皇后の称号から分離させ、強引に定子の立后に踏み切ります。従来の太皇太后・皇太后・皇后に加え新たに”中宮“という位が設けられ、前代未聞の「四后並立」となったのです…!

平安貴族は前例を重視しますので、道隆の強引なやり方に不満の声もあったでしょう。
また新たに后の位を設けるということは、それに付随し事務職を設けるということ。定子のための事務機関・中宮職ちゅうぐうしきにかかる費用は、公費で賄われたと思われます。

このような状況の中、貴族たちの批判をかわすために必要だったのが、文化的な後宮サロンでした。


定子が築いた文化的サロンと紫式部への影響

定子は一条天皇の元服と同時に入内しました。
2人は非常に仲睦まじく、また関白・道隆の威光を恐れ、当時他に入内する者もなかったそうですから、向かうところ敵なしといった状態です。
そのような中わざわざ清少納言らを雇い文化的サロンを築いたのは、貴族たちの評価が必要だったからでしょう。

定子は一条天皇の寵愛を得ていましたが、そもそも彼は、外戚(母方の祖父)である藤原兼家の陰謀・寛和の変によって即位した人物です。
即位当時わずか7歳、定子が中宮となった990年は元服したとはいえまだ11歳でした。天皇を補佐する関白には兼家の息子・道隆がつき、その道隆の息子たちは、父親の威光で若くして出世を重ねます。
道隆率いる中関白家なかのかんぱくけへの批判が強まることは容易に想像されますが、こうした状況は一条天皇への不信をも招きかねません。

「藤原家の力で即位した天皇が、その地位に相応しい優れた人物であること」
これを認めさせるのに中宮定子のサロンが有効だったのです。

『枕草子』を読む限り、定子の作戦は成功したと思われます。
明るく知的な定子の主人としての才覚は素晴らしく、後宮は華やかさにあふれました。定子のサロンには天皇だけでなく多くの貴公子も訪れ、清少納言ら女房たちと交わした風流で教養豊かなやりとりを内裏に持ち帰り披露しています。
定子及び清少納言ら女房は、後宮の中心で一条朝を盛り立てる、文化的な役割を果たしていたと言えるでしょう。

そんな華やかな定子サロンの評判に苦しんだのが、彰子、そして紫式部でした。

道隆の四后並立を前提に二后並立が成り彰子が中宮となった年の暮れ、定子は次女・媄子びしを出産し、そのまま亡くなります。
これで後宮は彰子のものかと思いきや…当時13歳の彼女にとって、8つ年上で最愛の妻を亡くしたばかりの一条天皇の心を掴むのは難しいことでした。

道隆はとうに死に中関白家は没落、政治の実権は道長が握っていましたがまだまだ安心できません。このとき一条天皇の息子は定子が遺した敦康親王ひとりだけ。このままでは彼が帝位を継ぐことになり、中関白家が復興してしまうからです。
外戚政治の時代は、どんなに出世していようと自分と血縁のない者が即位してしまえば政治の中心から外れてしまいます。このときの道長の状況は決して磐石とは言えなかったのです。

問題はそれだけではありません。『紫式部日記』によると、どうも彰子率いるサロンは大きな問題を抱えていたようです。

それは、彰子の女房たちが非常に消極的で風情がないこと、そして過剰な引っ込み思案のために取次の仕事に支障が出ているということでした。
その状況は人々に

「中宮の人埋もれたり」(中宮女房は引っ込んんでばかりだ)

「ことにをかしきことなし」(特に素敵でもない)

紫式部『紫式部日記』より
現代語訳は山本淳子

と噂され、挙句の果てに

「ただことをも聞き寄せ、うち言ひ、もしはをかしきことをも言ひかけられていらへ恥なからずすべき人なん、世に難くなりにたるをぞ」
(ごく普通の会話でも気の利いた反応をするとか、風流な言葉をかけられて面目のある返答ができる女房はなあ、実に少なくなったものよ)

同上


と言われる始末です。

ここで殿上人たちが彰子のサロンと比較し、懐かしんでいるのは定子の後宮に違いありません。
『紫式部』の消息体と言われるこの部分が書かれたのは1010年、既に定子が亡くなって10年経過しています。にも関わらず定子のサロンの記憶が人々から消え失せないのは『枕草子』の影響が大きいでしょう。

『枕草子』の作者・清少納言は定子が亡くなったあと宮中を去り、夫・藤原棟世の任国である摂津に下りました。彼女はその後も筆を止めなかったようで、『枕草子』には最も時代の下るもので1009年の情報が盛り込まれているのです。
どのような方法でかはわかりませんが、『枕草子』は宮中で広められました。それはきっと当時を知る人々の記憶を刺激し、(ときには実際の記憶以上に素晴らしい)定子サロンの光景を呼び起こし続けたことでしょう。そして定子の産んだ敦康親王の存在感を強めるものにもなったのです。

定子、及び清少納言の『枕草子』は、彰子に仕える紫式部にとって超えなければならない高い壁だったと言えるでしょう。


『紫式部日記』にみる彰子と紫式部の関係

そんな紫式部の書いた清少納言批評はかなり辛辣ですが、彼女の立場を考えればそれも致し方ないと思うのです。

少し時間が前後しますが、1008年、彰子は嫁いでから9年後、21歳になってようやく一条天皇の子を授かりました。道長にとって待望の初孫です。
そして続く1009年には2人目の子を出産。

この間、紫式部は『源氏物語』の執筆や冊子制作を行なったり、人目を忍んで彰子に漢文の進講をしたりしています。
『源氏物語』は彰子と一条天皇の共通の話題。彰子が漢文を学ぶのは、夫である一条天皇の親しむ世界に少しでも近づくため。
紫式部は、2人の仲をとりもつのに一役買っていたのです。

彰子は、定子のように華やかなサロンは作れなかったのかもしれませんし、紫式部も清少納言のような洒落た振る舞いはできないままだったのかもしれません。
しかし彼女は清少納言とは違う方法で彰子を支え、彰子もまた、内気な「雛遊ひいなあそびの后」から名実ともに中宮たらんと成長していったのでしょう。
『紫式部日記』には、『枕草子』とは別の主従のあり方が見てとれるのです。


【参考】

角川書店編(2001)『ビギナーズクラシックス 日本の古典 枕草子』角川ソフィア文庫
紫式部著・山本淳子編(2008)『ビギナーズクラシックス 日本の古典 紫式部日記』角川ソフィア文庫


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