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うつつを抜かすこと

「うつつを抜かす人に、頑張る人は勝てない。」

努力を、努力と思っていない
うつつを抜かしている人に、
努力だと思っている頑張る人は勝てない。

これは普遍的であり、不変的なことでもある。

ましてやこれに勝ち負けの概念を
うつつを抜かしている人は持たない。

いや、それは言い過ぎかもしれない。
多少は持ち合わせているかもしれないが、
頑張っている人と比較すると、
あまり持ち合わせている人は少ないと
僕は思っている。

そして、ここまで読んでくれたあなたは思う。
「うつつを抜かせるほどに、
夢中になれることが
人生の中で見つかって羨ましい。」
と思うはずだろう。

果たして、うつつを抜かす人...いや長いな。
ここからはうつつ人と呼ぶが、
うつつ人は、果たして自分が
うつつを抜かせるものを幾多ある選択肢の中から
最初から射止めることができたのか。

僕はそんなことはないと思っている。
なぜなら、これは生まれたときに
出会ったことのない数多の異性の中から
ランダムにこの人が運命の人って決まっていた
とは僕は思わないからである。

確かにその方がロマンチックで、
歌や詩、小説としては面白いかもしれない。

しかし、実際は人生の中で
色んな取捨選択を行い、
何かを選ぶという行為は、
相対的に何かを選ばないということを
している。

その取捨選択を
積み重ねた結果であり、
2人の適切なタイミングで、
そこに選択肢として出てきた
奇跡的な人のことを運命の人と言うと思う。

僕の思う運命の人的な出会いをしたのが、
うつつ人というのだと思う。

頑張るという行為の尊さは、
自分も重ねてきたからこそ
理解しているつもりだ。

けど、頑張る人は
・自分の積み重ねてきた
選択の嗜好や傾向などを理解できていない。
・タイミングが合っていないのに、
一方的なタイミングで尽くしている。
というのでうつつ人にはならない。
そして、続かないのがオチだ。

そして、締めくくりっぽいことを
言わせてもらうとするのであれば
結局は、うつつを抜かすことは
欲求から派生する。

それを抑え込まずに、どう付き合っていくか。

いつもまでも戦時中の
“欲しがりません。勝つまでは“みたいな
価値観を美学としていると
一生うつつ人にはなれないと僕は思う。

今日はちょっと言葉が溢れていたから
だいぶ情熱的な文章になってしまった。。

あなたが楽しんでくれて
少しでもうつつ人になることの
一介になれば嬉しい。

ほなまた。

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