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この星の地表で生きるということ 《 3.11後からの日本を案ず(9)》

── 前回「消えた砂浜」の続きです

なにを・なにから、守りたいのか?

—— バブル期には山をゴルフ場にして、土地を切り崩してはマンションを建てて、全国の海岸はどこも同じようなリゾート開発でコンクリートの岬やヨットハーバーなんかも造っちゃって、そんなあの頃からはじまった国際的な環境問題。

地球を守ろうとか自然を守ろうとか、さんざん言った挙句に、このまま日本列島をすべてコンクリートで囲むつもりでしょうか?もはや人間の住む地球には、土も海も台風も地震も虫や猛獣もすべてまるで“無かったこと”にでもして、街路樹も開店記念も結婚記念日にも造花を贈って、空飛ぶ自動車を飛ばすつもりでしょうか。枯葉や落ち葉も動物も動物などの糞もすべては「ゴミ」という“モノ”として、街には無いことにでもするのでしょうか。

もしも海や地球を擬人化して喩えるならば、自分の唇や肛門などに朝起きたらコンクリートの堤防とかが築かれている。たぶん体に住んでいる菌や微生物が睡眠時のよだれや下痢で流されることを防ぐためにこしらえたのだろうけれど、これじゃ食事も排泄もままならいし、それよりもとにかく気になるし皮膚も痒くてたまらん!

ってな感じで、ついつい手で掻いてしまったり、大きく身震いしたりとか、速攻で洗い流したりもそりゃあしてしまうことでしょう。多少傷ついたりしちゃったなら、場合によっては治癒するまではちょっとだけカサブタや毒素なんかも発生するかもしれません。そしてまた、お住いの方々は大激怒!って…、だったらもう、出てって…ってなって当然ですよね。あなた方が勝手につけた汚れや、勝手に打ち込まれた薬剤や爆弾なんかも、みんな浄化してあげているのに!って。

都市を都合よく弄んでおいて、飽きたり疲れたり、または「なんかちがうな」だなんて思い直したりして、それで、ちゃんと掃除もせずに都市部を捨てて、田舎暮らしでうぇ〜い!って、そういうステイタスや言葉でスタイルを固定化して、あげくのはてには「地球を守る」などと言いながら、やりはじめたのは「そうだ!海岸をコンクリートで覆っちゃおう!」だとかって…… いったいなにを守るというのか?

どうも感情的に、感傷的に「わすれない!」とかって言語化して必死に、なぜか攻撃的になっている方々が一定数いらっしゃることは、確かに理解や意義はわかりますが、どうしてそのような思考になってしまうのでしょうかって感じます。なぜに躍起になってまで、何かに対して「○○でなければダメだ!そうでなければダメだ!」という思想を正当化しようとしているのだろうかとさえ感じます。

というか、“何を忘れない”忘れたく無い、または忘れやすいと決め付けているのか?人間を守るとか地球を守るとか○○を守る!にしても、いったい“何から守る”というのか?そこにある敵対する脅威とは、その感覚の正体とはいったいなんのであろうか?って、謎に思えるのです。肉食の猛獣が夜な夜な山から降りてくるってわけじゃないのですよ。

それこそ野獣が怖いなら都市部へ行けば良いですし、アラスカやロシアが寒くて嫌なら赤道近くの土地へ移住すればいいのですし、お寺の除夜の鐘がうるさいのなら、そこから引っ越せばいいだけなのです。お寺にしてもほとんどは人間の寿命の何倍も前から、そこにあるものです。そこに知ってか知らずしてか後から住み着いて、何百年や一千年以上とか続く風習や文化に対して苦情を言うとか、ほんとすごいねあなた!って驚きです。

津波から守られたいのなら、ただ海岸から離れた場所に住めばいいだけの話だと思うんです。それでも海の見える家がいいと言うのなら、危険も覚悟して受け入れて、その上でご自分の望みを優先すればよいのです。日本は地震大国とよく言われますが、それを承知で、ここにいるわけですから。

生まれた場所とか愛着や伝統や様々な「好き」が、その土地に各々あるものだとは思いますが、好きでそこに住んでおきながら、その土地や場所らしい個性を「嫌い」と言って、まるで邪魔や悪などとして勝手に被害を訴えたり、敵対して戦いはじめたり、ましてやその理不尽な戦いを正当化して、自らを犠牲者として扱うなんて、どう考えても逆恨み的で異常だと思うのです。


そこまでしてなぜ生きたいのか

なんていうか、どこかに“かわいそう”という感情が入っているように感じるのです。なんていうか、そういう無理矢理に「忘れない!」って言っている人の言葉の中に。その“かわいそう”が、果たして「忘れたら被災者や被害者が可哀想」なのか、はたまた「被災者や被害者が可哀想だから忘れない」なのか、どういうものなのかはわからないですが、その“かわいそう”が、「憂い」として慈しむ「情愛」からなる気持ちではなくて、「怒り」として恨む「遺恨」からのものなのではないかと感じることがあります。
 
私は、それでは、ちょっと未来のためだとは思えないのです。敗戦後に日本は隣国からずっと謝罪やお金を求められていますが、あれもまた、なんのため?と言うならば、それは未来ではなく「過去」に向けている感情だと思うのです。無論、事実とは異なっていても、それをずっと「怒り」や「恨み」として、今に留まり続けている。それって、未来を奪う行為や思考そのものだと感じるのです。

災害から何を未来に活かすべきなのか?きっと、そういった「感情的事実」ではなくて、ただ現実的な事実が必要だと言えると思います。ただそれだけを学び将来に活かすという「知恵」だと思うのですが、だから「記録」はとても大切だとは思います。しかし、あくまでも「記録」であって、次世代に活かすべきは、もっととても単純で率直な生きるという「知恵」それだけだと思うのです。

エコとか、ロハスとかスローライフなんて言葉が流行った時期がありました。「地球に優しい」とか「イコール人間に優しい」「自分に優しくする」とか、まるで地球に“優しい”という「思想」を口にすることが“優れている”かのような思想がまかりとおってしまった流行だと感じたのですが、現在でも、その思い込みの中に生きている方達は多いですよね。良いとか悪いとかってわけではなくて、あくまでも「思想」なんですよね。優しいわけではなくて、あくまでも“優しいという主義”なんです。

以前、テレビで料理対決番組を見ていて、服部幸應さんが出場されていたのですが、そこでゲスト解説として来られていた道場六三郎さんが、司会の「この戦いどうなるでしょう」という問いかけに『…だって、服部さんは“学者さん”でしょう…』って回答していて、やっぱりこの人本物の料理人なんだなぁって思ったことがあったのですが、例えば本当に肉を食べない人ではなくて、菜食主義なんです。本当に食べない人と思想主義な人は、全くことなる別物です。(この話はまた別の機会にします)

… いや、なにもですね。現在の人類が「文化」とか「科学」とか「進歩」だとしている観念や概念を否定したいとかケチをつけたいわけではないのです。私も幼き頃はちょっとだけ、そんな近未来感にもワクワクした時代をちょっとだけ経験していますからね。ただ、理解ができないくらいに、滑稽に思えてしまう気持ちに近いのです。だって、そうまでして「生きたい」ですか?本当に、そんな、最後は地球をコンクリートや鉄くずとかで惑星ごと固めちゃいますか?

オゾン層や太陽フレアとか隕石や小惑星などの衝突だって可能性はありますから、地球の大気圏内を全部、屋根で包んでLED電球とかで内側を照らして、土はコンクリート、風も波も雲も雨もすべて止まるでしょうから、それらも人工システムにして、いっそのこと人間の体も半分くらいはすべて人工というか、クローンを解放してしまって…

本当に、そこまでして“生きたいですか”って、本当に不思議に思うんです。もしかしたら私こそがズレているのかもしれないですよね。私も都市部で長く暮らして、虫とか汚れとか苦手になっちゃいましたが、私が思う「生きる」と、なんかこういったテトラポッドとかの感性が普通な現代人の「生きる」という観念は、どうも完全に違っていると気がついた自分がいます。

多くの現代人にとっての「生きる」ってなんなのか?って思うのです。じゃあお前は死ねよとかって責められちゃうかもしれませんが… なんていうか、ひとつだけこの時点で言うのなら「“死”ってそんなにダメなことでしょうか」って思うのです。


あきらめちゃうんです

ここからが今日の(やっと)本題なのですが、震災直後にブログに掲載した、井上陽水さんの「海へ来なさい」のことを先述しましたが、実は、その他にもうひとつだけ掲載したものがあったのですが、それも当時のYouTubeにあった動画だったのですが、現在ではすでに無くなってしまっていました。しかし、少し短い動画ですが、該当の同じシーンをあげてくれていた方がいらっしゃったので、そちらをお借り致します。

以前のは五郎さんも出演しているシーンも含まれていましたが、この方のトリミングは、まさに私が重要視したシーンそのものだけを抽出しているので、たぶん、この動画をアップされた方も、少なからず私と同じ感性の方なんだと思いました。私も農家に生まれ育ったので、本当に、この感覚はダイレクトに共感というか、そっくりそのまま同感の感性が、自分の生きるベースにあることを確信しています。


—— それとね。これも言えるんですよ… 天災に対してね。あきらめちゃうんです。なにしろ自然が厳しいですからね。あきらめちゃうことに慣れちゃってるんです。

たとえば水害にあった時… 今年、北海道めちゃめちゃにやられましたよ… それであの、めちゃめちゃにやられてもうだめだっていう時に… テレビ局来て、マイク差し出されると、ヘラヘラ笑ってるんです。もうだめだぁっちゅうて、ヘラヘラ笑ってるんですよ…。

あきらめちゃうんです。神様のしたことにゃあ…
そういう習慣が、わしらにはついとるです。——


「北の国から」大滝秀治さん演じる清吉の台詞より

https://youtu.be/u3AX-0DuaSA?si=xy0ZUEacGZUITDTy


黙ってまた耕し始める

この「北の国から」のひとつのシーンを掲載して、当時も数人の方から反応やコメントなどをいただきました。あぁわかってくれる方もいるんだなって、ホッとした自分をいまでも覚えています。

近年、都市部から田舎に移住する方も増えました。「半農半X」だとか「週末農業」などという言葉もありますが、前述の道場六三郎さんの感覚のように、それこそこういった感覚は教わって学べることではありません。道場さんにしても10代から現場で見て覚えるとか、見て盗めだとか、そういう「感覚」として育てた能力が多くあることでしょうし、自然のまだ多くあった中で食材自体の味覚をはじめ、料理への「勘」は幼少の頃からあったのだと思います。

こういう精神というか、“生きる感性”とも言えるであろう感覚。これは思想でも哲学でもそういうものでは無いのです。細胞の感覚という表現に近いのですが、これは、日本にあった遺伝子的な感性なのだと感じています。そして、その感性は、古来から日本にあった「信仰心」だと思います。

多神教だからだとか、神道は道であってどうのこうのとか、自然崇拝がなんだかんだとか、それよりも前にあるくらいの愛や生命とか、まさにこの星の地表で生きる上での感性。そういうものだと私は感じています。どこからそう感じるのかって、それは「体内」からです。

実は人間のこういう感覚とは、ああだこうだと理論などで説明しても仕方なくて、つまりは、土の説明は「土を触ってもらう」ことでしか伝わらないでしょうし、たとえばどんな土の状態がどの野菜には適していてなんてことを伝えるには、土が何億年かけてここにいま存在するってことを説明するよりも難しくて、野菜が育つには土だけじゃなく水や日光や虫や細菌やと万物の話から始めなければならなくなる。(そんな農業教室があったらイヤですけどね 笑)

そんなレシピどおりにやったとしても、台風ですべて台無しになる。そしてまた来年の春を待つ。待つしか無いのです。自然を訴えるなんてばかな真似もしませんし、国に補償しろとか、ほんとそういう“うるさい”こととか言いません。それ以前に、ただ、あきらめちゃうんです。だって、そういう星に、しかも土地をお借りしてそこから植物や、つまりは生命の恩恵をお分かちいただけるわけですからね。ただ黙ってまた耕し始める。

まぁ、そんな大それた理念をいちいち思うわけでもないですが、収穫祭的なものが全国にあるように、どんな時でも、本当は「感謝」を込めて、当たり前にただ、あきらめちゃうんです。そしてまた来年を待つ。無論、現代ではすべては貨幣価値を基準にしてしまっていますから、農業も倒産するしかない時ももちろんありますけどね。そういうのを「先進」と呼んでいるのが現代社会なのですから、年貢の時代よりも、今の経営の時代のほうがよっぽど生きづらい世界だとは思いますが、食物というのは生物ですから、来年を待つしかないのですよね。

その“来年”っていうのも、果てしない時間と何世代にもわたる実務と研究を経て、春の中でもこんな陽気の日に種をまくということが、ただマニュアルもなく伝わって来て、それをまた感覚で遺伝している。そしてただ肌が覚えているような感覚として、つまりは『自然を理解している』のだと思います。可視化も言語化もできませんが、感覚がある。

雨の日も風の日も、ただ命ある限りは「生きる」んです。「あきらめちゃうんです」っていう言葉は、それと同義語であって、つまりは「生きるだけです」っていうことなんだと思うのです。

そこにただ“生きる”というドラマがあるのです。「監察医 朝顔」も、この「北の国から」にも、そこが共通点を感じたドラマでした。

ドラマ「監察医 朝顔」も先日(2021年3月22日)の放映でシーズン2も最終回を迎えましたね。またシーズン3を続けて欲しいと願うほどの、近年では貴重なドラマだったと思っています。上野樹里さん演じる朝顔さんが本当にそのまま生きていて、とても輝いている生命を感じました。つぐみちゃんも可愛すぎますしね。柄本さんや時任さんや大竹さん、もはやその怪演さに全く気がつかないほどに、皆が当たり前にこの世界に本当に生きているように感じる、北の国から以来のとても素晴らしい作品に感じました。

なんか思うのは、ほんとはこんな風に、生きるって、もっと静かなんですよね。

つづく ──

20210325



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