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「私は無価値」の裏側にあるもの

朝、子どもが
「学校に行きたくない」と
泣きながら私に訴えてきた。

母はいきなりのことに狼狽える。
こういうとき、どう答えたらいいんだろう。
行きたくない理由をまず聞いてみる。
それからその理由を先生に電話で伝えた。
それで少し安心したのか、
子どもは遅刻して登校していった。

ひとまずホッ。
私はその日、ずっと書いていなかったnoteに
なにかしら文章を書こうと決めていた。
それがだ。全然書けない。
けっこう落ち込んだ。
「私、才能ないなあ」
ふいにそんな言葉が飛び出した。
そしたらふいに
ものすごい悲しみが襲ってきた。
しばらくの間、涙が溢れて仕方がなかった。
ちょっと情緒不安定。
でも大丈夫。50歳。

夕方、子どもが学校から帰ってきたのだが、
いろいろあったのだろう。表情が暗い。
「どうせ、なんにもできないんだ」
と今度は子どもが泣き出した。

私は泣く子どもを励まそうとした。
いろんな言葉をかけてみる。
でも、どんな言葉もヒットはしない。
子どもは泣き続ける。

自分の子どもにでさえ、
気の利いた言葉をなにひとつかけられない。
気分を変えてあげることができない。
なんて無力。なんて落ちこぼれ。
何なんだ?私。
ほんとうに情けない、悲しい。
どうして私は何もできないんだろう。
再び悲しみがブワーッと溢れ出てきて、
ひとり隠れてまた泣いた。

ああ、”何にもできない自分”なんて
知りたくなかった。認めたくない。
でも。そうやって逃げてたって、
きっとまた同じことを繰り返す。
それも承知しているのだ。

「何もできない自分」をこのときは
真正面から受け入れようと思った。

私は何もできない、何の役にも立たない。
なんでここに居る?
ああ、こういうのをきっと
「無価値感」って言うんだろうな。

しばらく泣きじゃくった後、
「私は何もできない。何もできないんだから
思いっきりやりたいことをやればいい」
とノートに書き殴ってた。

我ながら七転び八起き。
だるまのような性格だと思う。

何かをやったところで何もない。
芸能人じゃあるまいし、
なんの風も吹かない。かなり気楽なもんだ。

いったい何を背負ってたんだ?私。

そして気づいた。
子どもに気の利いた言葉をかけられない
という悲しみも
このnoteに何も書けないという悲しみも

子どもに、もしくは読んでくれる誰かに
「元気になってほしい」
「笑ってほしい」
「ホッとしてほしい」
という、私なりの”愛”から出た悲しみだった。

”愛”が溢れ出てしまうからこそ
それを上手に表現できなかったとき、
苛立ちを感じ
「私は何もできない」と感じてしまうのだ。

この胸の中にある誰かを想う”愛”。
これを否定する必要なんてない。
ひたむきに持ち続けている、
自分で”ひたむき”と言ってしまってるが、
かけがえのないものだ。

子どもだってきっと
「どうせ、なんにもできないんだ」という
セリフを吐くまでには
「みんなと楽しく遊びたい」
という子どもなりの”愛”があったに違いない。
それを上手に表現できなかっただけなのだ。

そうか。
そもそもは”愛”から始まっているのだな。

”愛”は、私の、そして子どもの胸の中に
確実にある。
「愛こそが存在する最大の力である」
とは、アインシュタインの言葉。
それほどに”愛”は無敵だ。強い。
忘れてはならない。

言いたいのは
「何にもできない」という無価値感って
その裏側には、
その人の深い深い、ピュアな
”愛”が必ず存在しているということ。
「誰かの役に立ちたい」という無償の愛。
それが必ずある。

それさえ持ち続けていれば大丈夫。
それさえ見失わなければ大丈夫。

母の愛が、
子どもに伝わったかどうかは分からないし、
これを読んでくれる方に
いったい何が伝わっているのかは知る術もないが

我々って、もともと持っているのは
やっぱり”愛”なんじゃないか。

そう思う。

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