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【エッセイ】食べる、話す、空間 

小さい頃から少しだけ周囲よりも恵まれていたように思うことがある。
私には特別な、大切な時間が多かった。
両親にはそれぞれ長い付き合いの友人がいた。
特に父の友人は定期的に私の家に来ては食事を楽しみ色んな会話をしていった。今思うと、会話というよりちょっとした討論、議論をするサロンのようだった。

私にとってその時間はパーフェクトな時間だった。
大袈裟でなく、本当にステキなかけがえのない、貴重な時間だったのだ。
小さい私が1人座り、色んなトピックを語り合う大人達の中に混ざる。
「退屈」なんて思ったことは一度もなかった。
話を聞いてその場にいるだけで特別感で一杯だったからだ。

もちろん難しい会話を聞いているだけで楽しかったわけではない。集まる時間は決まって夕食時…ということで、やはり食事は私の一番の楽しみだった。
テーブルには父が作ったキーマカレー、ハッシュドビーフ、ちらし寿司、稲荷などが並ぶこともあったが、出前でお寿司、中華料理がザッと並ぶことも。
いつも何かのパーティーのように私は思っていた。

食後はおつまみパーティーへと食卓の様子も変化する。
大人達のお酒のあて、おつまみは食べることの好きな私には魅力的過ぎて…
鮭とば、イカ焼き、カンカイ(タラの薫製)、さきいか、ホタテの貝柱薫製、たまにクサヤまで登場した。それはもう毎回色んなおつまみが並んだ。私の目と舌はワクワクしっぱなしだった。

そうして過ぎてゆく時間。
その中で弾む会話。
私はずっと眺めていた。
いつまでもその空間が続けばいいのにと思う程好きだった。
話題は政治や日常のあれこれ、本、映画など。
話は尽きずに続いていく。
例え意味が分からなくても、その場に自分がいる、存在していることがとにかく楽しかった。少しだけ大人の仲間入りができたような。彼らと一緒に議論しているような心持になったりもした。
彼らも私の存在を一人の大人の様に扱っていた。
ただし議論にあまり入らない無口な小さい大人として。
だからなのか、私にとって彼らは両親の友人ではなく、私の友人と思う時があった。

そうやって数十年の時が過ぎ、彼らは1人また1人と姿を消した。
もう声を聞くことが出来ない友人もいる。
でも私の、両親の記憶にはいつも彼らがいて、いつでも呼び起こせる。
思い出さない日はないくらい濃密な時間だった。
今でも両親と思い出しては懐かしんでいる。
それだけで充分だ。あの貴重な経験、時間を過ごせたのだから。
あの時間が私自身に大きく影響を与えたことは間違いないだろう。もう二度と経験できない時間、でも確実に私に刻まれたのだ。

今はもういない友人、まだ近くにいる友人に、そして何よりあの時間を経験させてくれた両親に感謝したい。

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