あなたのためと、自分のためと 【じぶんのクセをすきになる】
あなたのためと、自分のためと
こんにちは、とつゆうです。
昨夜にも、書籍代を振り込んでくれた方がいました。これで、四冊目です。たかが四冊。されど四冊。
まだ本にもなっていない、ましてや完結もしていない原稿の段階で本が売れているわけですから。自分でも驚いています。それが本をつくるための原資にもなるわけです。新しいクラウドファンディングみたいな形ですね。
でもクラウドファンディングよりもすごく楽だし、健全です。なぜなら、貸し借りがないからです。僕の方からすでに全身全霊で与えているからです。
クラウドファンディングだと、「これこれをやります」という約束のもとに、お金が払われます。お金を借り受けているわけです。何かの期待に対してお金をはらってくれているわけですね。期待とは常に未来を前提にした取引のことなわけです。
今回の「クセすき」の企画では、僕の書籍代として、先んじて原稿を読んだ方にお金を振り込んでもらっています。しかも、読むのは無料です。別にそれを読んだとしても、黙っていれば別に何の取り立ても義務も発生しないわけです。そもそもいつ払ってくれてもいいよ、ってことにしてるわけです。
だから僕はすごく楽になれるわけです。
お金の流れをつくる、というトピックも書きたいなと思っています。この本の中で書くのか、はたまた別に一冊にするのかは分かりませんが。
お金も、クセを活かすとどんどん流れていきます。大いに関連してるわけですね。だからそれについても、本当はもっと書きたいです。
ですが、昨日まで書いていたことが途中になっていたので、今日はそちらの続きを書いていくことにしますね。Kくんのお話ですね。
どんどんと溢れることを書いていくスタイルの僕にも、それくらいの理性は何とかありました。自分でもホッとしてます。
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昨日は、Kくんの「目標を達成する」という処世術を元にして、Kくんの才能について書いていきました。
それは「目標を達成せずとも、私はありのままでここにいてもいい」と感じられることでした。そしてこれをKくんが深く感じられるようになれると何が起こるかというと、他者にもそれを感じさせることができるようになるんですね。
触れている人の持っている感覚は、空気の振動のように、他者にも共振していきます。
例えばKくんが「目標を達成することこそ大事なことだ」と信じているなら、Kくんが触れている周りの人にもそう思わせようとする力が無意識に働くと思いませんか?
その感覚を受け取った人は、それに共感して「自分も目標を達成できる人間になろう」と思うのか、はたまた「自分は違うなぁ」と感じるのかは別として、そもそもKくんからそういうメッセージが発せられるわけです。そして大切な相手にほど、感覚を共振させようとする力は強くなっていくんですね。
逆に言うと「目標を達成せずとも、私はありのままでここにいてもいい」という自己受容感や解放感も、Kくんが触れる他者に共振させていくということです。
Kくんがその感覚を深く感じられているとき、Kくんが触れた相手は「あぁ、私はこんなに頑張らなくても、あなたと一緒にいられるんだ。安心してありのままで生きていられるんだ。」と感じるようになるわけです。癒やされてしまうわけです。命は元気をもらうわけです。
これが僕の話してきた、「才能」のパワーの仕組みです。他者の心のなかにあった厳しさ、つまり自分を脅して奮い立たせようとする鎖から、その人を解放してあげることができるわけです。
厳しさがわるいと言っているわけではないんです。その根本にある「私はありのままで生きてはいられない」という信念が、その人に起こる様々な生きづらさをつくり出しているということなんです。
才能には、そんな鎖から誰かを救い出す力があるということなんですね。その人がつくる作品、書く文章、発した言葉、究極的にはその人自身の存在自体が、誰かを解放して、癒やして、救うというようなことが起こせるようになるというわけです。
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さて、ではこの才能の話も踏まえつつ、Kくんが「目標を達成せずとも、私はありのままでここにいてもいい」と心から感じられるようになり、そんな世界があると信じられるようになったら、何が起こるのでしょうか?
例えばKくんの場合は、「達成すべき目標を捨てる」ということが起きました。「必死になって達成しなくてもいい」と思えるようになったということです。
これ、ここまでKくんが悩んでいた「仕事を辞めるか、辞めないか」という二つの選択肢からしたら、新しい選択肢すぎませんか?これまで悩んでいた分岐とは、全く想定外のところに進んじゃいました。
Kくんは「私がやるべき(やりたい)と感じられる仕事をする」という感覚を強めたみたいでした。
やるべき仕事をやったその結果として、達成できるノルマもあるし、達成できないノルマもある。それでいいと考えるように変わったわけです。
こうして、Kくんにとってノルマは「達成するためにあるもの」ではなく、「”自分にとってすごく重要な仕事”に集中できているかどうかの指標」に変わってしまったわけです。すごいですよね。
これによって、ノルマを達成すること自体に対して緊張したり、不安になったり、必死になるようなことがなくなったわけです。ものすごく心が楽になったんですね。
上司との関係性が何かの最終形として完結を迎えたわけではないみたいですが、ストレスがものすごく軽減されました。嫌な現実が溶けてしまったわけです。一気に起こったような、世界の転換です。
職場でのKくん、前に比べて多分、ものすごく凛としてる感じになってる気がしませんか?今のKくんは、「自分がある人」って見えるような気がします。勝手な想像なんですが。すごく佇まいが変わってしまったんじゃないでしょうか。
もちろん、ここからまた何が起こっていくのかは分かりません。
上司との関係性はまた変化を続けていくだろうし、Kくんがその職場に残るのかさえ分かりません。
でも、人間関係は変化していない方がむしろ不自然ですから。どんどん変化していくんですね。お互いに、お互いの時間は刻一刻と流れているわけですから。
変わらない人間関係はなく、むしろ変わっていかない関係は濁っていきます。お互いの個人的な成長や変化に、むしろ関係性がついていっていないわけです。個人は変化してるのに、関係性の方はないがしろにされちゃってるわけです。
みんな「繋ぎ止める」ことに必死になってしまうんですね。だって、関係性が変化するのは怖いですから。
でもその「怖さ」の根底にあるのは、「つながりがなくなってしまうかもしれない」ということへの不安です。それが怖いんですね。
「私はありのままであなたとつながっていられる」ということを信じられていないんですね。じゃあ、なぜつながりは失われてしまうと考えてるんでしょうか?ここの理屈が、あなたの「処世術のクセ」なわけです。
僕の場合は「目の前にいる人の期待を図り取り、それに応える」ことでした。それを裏切ると、つながりは失われるわけです。
Kくんの場合は、「目標を達成する」ことでした。目標を達成していないと自分の価値がなくなってしまうわけです。
ですが、「私はありのままで他者とつながっていられる」と感じられていれば、関係性が変化していくことには不安はありません。むしろ豊かな体験しか待っていないわけです。命が元気になっていくことしかないわけです。
個人の変化と、関係性の変化。これを通して、人間は何かを体験して、色々なことを感じていくんですね。体験すること。感じること。そこに人間の生きるということの豊かさそのものがあるんじゃないかと思うんです。
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Kくんの話はここまでだったので、ここからは想定の話で、ここからはKくんの現実に何が起こっていくかのシミュレーションをしてみますね。
まず、上司との関係性ですよね。上司は、ノルマを気にしないKくんに対して、まずはこれまで通り叱責するかもしれません。
ですが、Kくんはどこ吹く風です。やるべきだと感じた仕事では、自然とノルマは達成していますから。
ノルマを達成できなかった仕事は、Kくんにとっては怒られるべきことではないんですね。なぜならノルマは、自分にとってもっと合うやり方に変えていくためのサインでしかないからです。
こんな感じで、Kくんは凛としちゃってます。
こんなとき上司としては「扱いづらい部下だなぁ」って感じるんですかね。やっぱり「管理したい」って思うんですかね。自分の思った通りに他人に動いてほしいものなんですかね。
ではそこで上司がとる選択肢は、どんなものがあるんでしょうか。
Kくんのことを諦めて、ノルマを課すことを辞めちゃうかもしれません。怒るのを辞めるかもしれません。「あいつはどうせ達成しないときはしない」って諦められちゃうかもしれません。またはもう、別の部署に異動させちゃうかもしれません。
でもそれは、Kくんにとってはむしろ望んだ現実ですね。Kくんが無理をしなくては達成できないようなノルマがなくなり、Kくんにとって本当に大切な仕事だけに専念できるようになっちゃうかもしれない。新しい機会ですね。素敵すぎます。
もし、それでも上司がノルマを課すのを諦めずに、叱責し続けるということをしたらどうなるでしょうか。
どうしても他人をコントロールしたいわけです。どうしてもその人なりの厳しさによって優しくしたいわけです。
ですが、Kくんは凛としています。もうKくんは目標(ノルマ)を達成するためではなく、もっと根本的に自分の大切な仕事をするために存在しているわけですから。
「私の設定したノルマを達成しないなら、この会社にはいられない」と上司が言って、それがKくんが「大事だと思う仕事」とリンクしていないと感じたなら、Kくんは他の部署に異動するか、または別の仕事に変えることになるでしょう。
「自分がノルマを達成しないとこの会社にいられない。だから頑張ろう。」とか、「上司に認めらるように頑張ろう」とか、そういうことはもう気にならないわけです。心はとっても楽です。もう、自分の存在への危険のために戦わなくてもいいと思えるようになったわけです。
この時点で、上司との関係性をどうにかするための行動ではなくなっているんですね。Kくんがやることは、Kくん自身がやりたいと感じることにもっと集中できるようにしていくことだけになっているわけです。
自分の心地よさと命が持っているエネルギーのための行動になってるんです。自分の自然体のための行動になっているんです。
本当は、上司の立場としても「処世術と自然体のクセ」と、この「第三の道」についても考えてみたいんですけどね。ここまで考えたシミュレーションは、勝手に上司にとっての「逃走」か「闘争」の処世術の選択肢だけを想定してみたからです。
上司本人にとっても、Kくんは彼にすごく大切なことを教えようとしている存在なんだと思うんです。上司の人生にとっても ”どうしようもない現実”として、Kくんが現れるわけです。
そういう出来事に直面したとき、自分の内面にあったクセに気付いて変容していくことが、本当は人間にとって一番大切なことだと思うんです。それを本当はしていきたいんですね。Kくんがこのとき上司の思うままに「ノルマを達成する」人になってしまった場合、上司にとっても大事な機会を逃してしまうことになるわけです。
でも、上司のことまで考え始めるとまた話がどんどんと向こうの方に逸れていってしまいそうので、辞めておきますね。
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こうなるともう、Kくんはより自然体で生きているだけで、周囲の状況が勝手に変わっていく感覚になっていくんですね。Kくんにとって居心地のいい環境が、どんどんと引き寄せられていくんです。
Kくんはただ単に「自分勝手になっただけ」だと感じる方もいるかもしれません。
でも、自分勝手に振る舞うことと、自然体のクセに身を任せることは、似ているようで実は全然違うことなんですね。
今回の場合、Kくんは仕事を放棄したわけではないんです。Kくんなりの生き方で、Kくんの命にとって大切な方法で、最も会社のためになれるようなやり方に変えていったわけです。
なぜならKくんにとって、自分の命を精一杯生きることが、他者のためにもなると思えているからです。それを信じられる力が強まったわけです。それが「つながり」を深めるための本当のことだ、と感じられるようになったわけです。
自分勝手であることと、自然体はとっても違います。その違いは、他者を大切にする心です。他人に愛を与えられるかどうかです。
自分勝手であるということの意味は、「自分が勝つ手」を探して実行しているということです。勝つために、天秤にかけているわけです。自分が負けないような手を探すということです。
その根本には、「自分が勝つことは、相手が負けることだ」という考え方があるわけです。言い換えると「自分のためにやることは、相手のためになることではない」ということです。これが「自分勝手」という言葉の正体なわけです。
人間には本来的に、他者を愛する力というものが備わっています。
それは元々人間が、社会的な生物として生まれているからです。人間は一人では生きていけないようになっています。
群れをつくらないと満足に自足もできないし、そもそもウイルスや自家受粉できる植物と違って、人間の生殖行為には必ず異性(他者)が必要です。
人間には他者を尊ぶ力が本来的に備わっているということです。だから、自然体に生きる人間は、他者を愛することができるわけです。
そこに「勝ち負け」は存在していないんですね。「自分のためか、相手のためか」という二者択一の世界は存在していません。
自分のためにやることは、誰かのためにやることなわけです。それは同時に、誰かのためにやることが、自分のためにやることでもあるということです。
ですが意思を持たずに快・不快に身を任せて思考や行動をしていると、どうしてもこのどちらか一方だけにどんどんと偏ってしまうわけです。
そしてそれが「処世術」としてクセになってしまうわけです。
日本では「自分のためではなく、誰かのため」という方向に偏ってしまっている人が比較的多いような気がします。それは思春期までの日本の義務教育や、もう少し遡ると単一国家としての成り立ちが背景にあると感じています。
逆にアメリカやヨーロッパの一部の国では、「誰かのためではなく、自分のため」という考え方が先行して、そちらに偏りがちな人が多いように感じています。こちらが日本で言われる「自分勝手」という状態です。
「自分勝手」や「相手の目線に立とう」という言葉は、「相手のため」という思考の側に転換させたい意思(メッセージ)が込められた言葉なわけですね。日本にこちら側の表現が多いのも、偏りの傾向を表しているんじゃないでしょうか。
どちらが悪いと言っているわけではないんですね。そもそもこの二つが分離してしまっている状態が、個々人の生きづらさをつくっているということなんです。
ですが、その根本には「自分の命を守る」という防衛本能があります。それが処世術のクセになっています。その不安と恐怖はとてつもなく大きなものですから、中々抗うことはできないわけです。
「自然体のクセ」に素直になるというとは、こんな分離が起きない世界があることを信じてみようよ、ということなんですね。
Kくんの場合は「目標」という「”誰かのため”にもっとならなくてはいけない」という無意識が、この分離を起こしていたわけです。そして、その段階で転職を選んでしまうことは、「より目標を達成できる場所」を探してしまうことになるわけです。
もっともっと目標を達成できている自分になるわけです。達成できていないと不快を感じるわけですから。処世術を強化して、より分離していってしまうんですね。
自然体のクセに身を任せられるようになってきたら、自分のために行ったことって、そのまま誰かのためになるんだ!という体験がどんどんと増えていきます。
その体験を重ねることで、Kくんは「目標を達成しなくても、私は安心してありのままで生きられる」という実感をもっと深めるわけです。
そうなったKくんは、もう才能が開きまくってしまっているわけですね。「自分が勝つ」と「相手が勝つ」が同時に存在してしまう世界に生きている人になってしまうわけです。
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ということで、三日間くらいKくんの実例を通して、クセの活かし方、そして自然体のクセで生きられるようになったらどんなことが起こっていくのか、ということについて書いていきました。
Kくんの事例はほんの一つでしかなく、こんなクセが今地球上で生きている人間の数だけ種類があるということです。
だからあなたにも、あなただけの処世術と自然体のクセがあるということです。すごいですよね。感動しちゃいます。
でもこのクセが、ちょっとずつ似ていたりするところがあるんですね。だってみんな人間で、しかも今この原稿を読んでくれている人たちは、大体同じ時代を生きているわけですから。
似ている部分があるからこそ、才能がパワーになるわけです。誰かの持っている、違うけどちょっと似ている自然体のクセを引き出して、癒やして、その人の才能を解放しちゃうパワーを持っちゃうわけです。
もしワークをやってみたり、この本を読んでいて感じた自分のクセがあれば、ぜひ教えて下さい。
yuta.totz@gmail.com か Twitter( @totzyuta )にでも、いつでも感想を送って下さい。話をきいてきいて!って人がいたら、クセの話なら僕の気分が向いたら、もう本当にいくらでもききます。ききたいです。
ということで、また。
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