あなたのクセと、その祝福と。 【じぶんのクセを好きになる】
あなたのクセと、その祝福と
こんにちは、とつゆうです。
最後の10 日目は、9日目のワークでやった「処世術のクセ」をひっくり返すとあなたの才能になる、というお話について書いていこうと思います。
あなたがいつも「そんなの普通でしょ」くらいに思ってしまっているその素晴らしい個性について、才能について、少しでも「私って、もしかしてすごいんじゃ…?」って気持ちになってもらえるように書きたいなと思っています。
才能の開き度合いは、自分自身の「自然体のクセ」への自覚ですから。それをどれだけ許してあげられているかどうか、ということなんです。頭ではなく、心からそれを本当に許してあげられたとき、あなたは人に癒しを、解放を、生命力を与えられる存在になってしまいます。
才能の力は、根源的なんですね。接する人の命を、根本から受容して、肯定して、応援します。命を応援してるんですね。それはとっても無条件ということです。厳しくないんです、勇気があるんですね。
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ということで、僕の例をとって、才能をひっくり返すことについて書いていきますね。
僕の十日目のワークは、こんな文章になりました。
まず、前半のクセは「処世術としてのクセ」です。これまであなたがトラウマや、もしかしたらもっと些細な出来事くらいに思っていたことの繰り返しが、この処世術への反射神経を、筋力を強めていくんですね。
この反射神経は、思春期くらいまでには殆どその骨格が形成され終わっているんじゃないかと僕は思っています。状況に対応する能力はどんどん成長させることができたとしても、根本の仕組みは変わらないということです。
そして、「処世術のクセ」は、あなたの「自然体のクセ」からどんどんと離れていってしまうという構造があります。なぜなんでしょうか?
処世術を身に付ける必要があったのは、何か大事な人や物を失うことや、自分自身の命が危険になるという経験に紐づいています。
僕の場合は、母親(大切な人)に見捨てられてしまうかもしれないという感覚でした。
僕がたくさんの人にクセすきセッションできいた話の中では、「褒められる」ことによって家族との関係を良好にしていたという話もありました。
昔も今もすごく仲の良い家族でも、子供は何かを感じています。それは実際にはショッキングな出来事とは限らないんです。「こうしたら、お母さん(お父さん)が喜んでくれた!笑顔になった!」というような体験も、処世術のクセを形づくる経験のひとつとなっているんです。
だから、親は子供に対して、傷付かないように、悲しまないように、と完全にコントロールすることはできないんですね。子供は勝手に親との関係性から、何かを感じとります。兄弟でさえ全く違うことを感じ取りながら育つくらいです。すごいですよね。
僕はお母さんとの繋がりを保つために、お母さんが望むことをやるようになったんだと思います。そして僕は、対面している相手の期待感や、グループの空気を読む力を身に付けていきました。
それ自体は、僕の武器です、実際にその武器のよって、仕事をしてきました。僕が本気を出したら相手を怒らせてしまったり機嫌を損ねるようなことは絶対に起こさないですし、相手の感覚に沿う物を(ときどき大空振りをしてしまう時も全然あるのが処世術のつらくて面白いところ…)つくることができちゃいます。これは明らかに社会で役に立つ能力ですよね。
そうです、「処世術としてのクセ」はあなたの技術であり武器なんです。この筋力を鍛え続けて来たことを、まず認めてあげてください。褒めてあげてください。「これからも頑張ろうね!」なんて言っちゃダメですよ。愛は無条件です。
これまでの自分をただただ認めてあげて、賞賛するんです。「私、ものすごく頑張ってきたんだね。すごいね。すごいね。」なんて言ってあげるだけで良いんです。自分自身を脅すことによってエネルギーを搾り取るんじゃなくて、認めて、赦してあげることで命の根元から元気を出させてあげるんです。
では、なぜ僕はこんなにも頑張ってこの処世術を鍛え上げてきたんでしょう?中学校の時もグループの空気を読み続けてきたし、できるだけみんなの期待に応えられるように頑張ってきたつもりです。なぜ僕はこんなにも頑張っていたのでしょう?
その答えは、これまでのワークの中にすでにありました。
それは「大切な人との繋がりを失いたくない。一人になりたくない。」という感覚でした。絶望的なほどに真っ暗な孤独感が、その先にあるような気がしてしまいます。それを経験したくなかったんですね。絶対に回避しなくちゃいけなかったんです。
大切な人との繋がりを失ってしまうことが、悲しいんです。とてつもなく寂しいんです。でもこれは、もっと人間にとって普遍の感覚だと僕は考えています。ここまで抽象的にすると、普遍的な感覚に辿り着いていきます。
でも、あなたが辿り着いた感覚は、あなた固有の感覚でもあるんです。それが才能です。自分にしかない感覚であり、それは人類にとって普遍の感覚でもある。自己と他者を切り分けられないところに辿り着いていくんです。だから才能が、他者を癒す力を持っているわけです。
本当にそんなことあるの?って感じかもしれません。あるんです。というより、あることを信じるんです。あることが事実であることを裏付ける、観察と発見を繰り返し続けるんです。それが科学です。分からないことを分かろうとし続ける、終わらない旅です。
悲しんでいるとき、その裏側にはあなたの見たかった本当の景色が存在しています。なぜ人は悲しむのでしょうか?それは、何かを失ったからです。自分にとって望んでいない世界が、出来事が、目の前に起こっていると感じているからです。
そしてその悲しみが二度と起こらないように、僕たちは頑張ります。努力します。向き合って克服したり、逃げたり、色々なことを試します。
悲しいことが起こったとき、あなたはどんな行動をとりがちでしょうか?問題を理論的に小さく分解しながら、ひとつずつ乗り越えていきますか?それとも、布団にくるまってゲームでもしながら、ひとまず全てのことを忘れようとしますか?
その行動の傾向が「処世術のクセ」である、ということなんですね。みんな悲しみを二度と起こさないために、頑張っているんですね。僕もそうです。その行動に、ポジティブもネガティヴもありません。善悪も存在していません。
悲しんでいるということは、何を失ったからですということなんでしょう?もっと言うと、どんな体験を本当はしたかったんでしょうか?どんな景色を見たかったという意味だったんでしょうか?僕の無意識からのメッセージは何だったんでしょうか?
そのことが分かると、世界が反転しちゃうんですね。もはや悲しみを克服したり、なくしたりする必要はなかったんだ、という世界に入れちゃいます。
僕の場合の失ってしまった景色とは、「相手の期待に応えるなんてことをしなくても、その相手との繋がりは絶対になくならない。僕が何をしなくても、どんなに堕落しても、どんなに欠陥だらけでも、僕は大切な人と深く繋がり続けることができる。」という体験です。
びっくりじゃないですか?僕はびっくりしています。相手の期待に必死に応えようとしていた僕の望んでいた世界は、本当の根元に立ち返ってみると、その逆の世界だったわけです。
そんなことしなくたって、頑張らなくたって、母親は僕のことを決して見捨てないし、パートナーは僕がどれだけダラダラして堕落してようと僕のことを見捨てるなんてことはしないという、そういう世界だったわけです。
こうやって初めて言葉にして、頭で考えればそりゃそうだな、って思いますよ。どれだけ僕が欠陥だらけでも、期待に応えられるような人間じゃなくても、母親もパートナーも、僕のことを見捨てるなんてことは実際にはしなかったと思います。頭で考えればすぐに分かるんです。当たり前じゃん、って思うんです。
でも、心は違うんですね。しっかり覚えてます。あなたの心の中で起こってきた悲しさたちを。あなたの心の中で湧き立ってきた喜びたちを。
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何となく掴めてきたでしょうか?難しいですかね。理論で捉えようとしなくても大丈夫ですよ。もっと大事なのは、感じることです。そうすれば、それはあなたの考え方になります。あなたの理論になります。あなたの知恵になります。それが一番大事です。理論を理解しようとするのではなく、感じてみて下さい。何度も読んでみてください。
そう、あなたの本当に望んでいた世界は「処世術のクセ」でとってしまっている思考や行動の、ちょうどひっくり返したところに存在していたんです。
失ってしまった風景を、もう見ることができないと思い込んでしまっているのは、いつも自分自身によって引き起こしていたことなんです。
「そんな世界、ありえないよ。」「愛が大事。とはいえ世界は、そんなに簡単なことばかりじゃないよ。」なんて、みんな自分自身に言い聞かせてあげているわけです。「そんなことばかりじゃないよ」という厳しさも、優しさだと考えていたりするわけですね。
でも、この「本当に望んでいた世界」を体験できたら、ものすごく嬉しくなっちゃう感じがしませんか?
僕だったら「期待に応えるなんてことしなくても、あなたは大切な人たちと無条件に繋がれるんだよ。」なんて言われちゃったら、喜びが溢れてきちゃいます。涙が出てきちゃいます。
今、この文章を書きながら、本当に泣きそうになっています。カフェで。恥ずかしいので涙は流してませんが、静かに鼻をすすってます。鼻をすすりながらカプチーノを飲んでます。すっごく美味しいです。
いや、そんなことどうでもいいんです。この「本当に望んでいた世界」をちらっと垣間見ちゃったとき、それはすごく喜びのある、というか喜びしかない世界じゃん!そんなのあり!?なんて、びっくりしちゃうわけです。
才能とは、その「本当に望んでいた世界」を作り出してしまう能力のことなんです。あなたはそんな、喜びに満ちた世界を、つくれちゃうんです。しかもそれは、あなたにしか作り出せません。あなたにしかその世界を拡げていくことはできないんです。
そんな一人一人の、生まれ持って授けられたような素晴らしい個性みたいなものがあるということです。あなたは世界を、身近にいる他者を、そして自分自身を癒していくために生きているということです。
なぜ「本当に望んでいた世界」をつくれるのが自分自身だけなのかと言うと、その世界を失った悲しみをあなたが持っているからです。体験してきたからです。その世界がなかった、ということに悲しむことができるんですね。
僕の場合は、期待に応えないと周りに人がいなくなっていく、ということに悲しんだ経験があるわけです。そういうことが起こってしまうことを、悲しめるわけです。
実は、あなたがワークで感じてきた出来事にそんなにも深く悲しめるのは、あなただけなんですね。
例えば、とある友人が、自分から見たら絶望的な状況に見えるようなことが起こっているのに、不思議なほどケロっとしているように見えることがあります。その人はその出来事に、悲しんでないんですね。だからそもそも、へっちゃらなわけです。それもクセです。あなたがその出来事にに悲しむのも、またクセであるということです。
悲しむことができる人は、喜ぶこともできるわけです。なぜなら「本当は望んでいた世界」に近い出来事が現実で起こったとき、それはものすごく自分の命にとって嬉しいことだからです。意識を超えて、無意識の奥底まで一緒に響いている嬉しさです。悲しさが深くなるほどに、喜びも深くなります。私たちは「悲しまない」ために生まれてきたわけじゃないんですね。「感情を味わう」ために生まれてきたわけです。
人生で起こることの全てに悲しんで、喜ぶわけです。悲しんだ時に、それを克服したり、避けようとしないということです。
というよりも、感情は自分が本当に見たかった世界について教えてくれようとしてるんだ、と思えると、悲しみさえ尊いものになります。喜びと変わらない、僕の大切な感情の一つということになってしまいます。
悲しみを、喜びを、味わい尽くすんです。授かったものを、出会った出来事を、関わった人たちを、その全てを愛するということです。悲みと喜びに善悪はないわけです。その全てが自分の中に起こっている、大切な発見の種子です。
そうやって人生を味わえるようになれば、きっとあなたはもう自分のクセが大好きになっていると思います。そしてあなたしか持って生まれていないその才能が開きまくっているような存在になっているんだと思います。
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ということで、第二章の実践編はこれで完結です。
僕の全てをを出し切って書いてきたつもりですが、その小さな断片でも伝わっていてくれたら嬉しいです。
僕の才能の解放度で書ける限界まで振り絞っているので、それが僕が今あなたに何かを与えることのできる今の最大出力ということです。
これからも僕はどんどんと大きくしていきます。もっとたくさんのものをあなたに与えられるように、僕も自分自身のクセを、味わい尽くして、悲しんで、喜んで生きていきます。
では。
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