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じぶんのクセをすきになる【1-5】クセの東洋医学。あとちょっと体癖について



 じぶんのクセって、どうやったら好きになれるんでしょう?僕は嫌いなクセだらけです。朝起きられない自分、仕事で毎回失敗をしてしまう自分、大切な人の期待に応えられない自分…。「こんな自分になりたい」なんて思うんだけど、いつもそれを邪魔してくるようなクセばっかり。嫌になっちゃいます。

 でも、実はそのあなたのクセ、唯一無二の才能に紐付いています。あなたの身体の声を、心の声を、きいてみませんか。そこにきっと、答えはあります。この本を読み終えたらきっと、読む前よりも自分のことがもっと好きになっているはずです。

ーー内容は、クセを受け入れて生きること、じぶんの才能の知り方、個性の感じ方、自然体な生き方、深層心理学、そんな感じ。

 何とか書籍にできるまで、無料で公開し続けます。いや、本当は無料じゃありません。お金を払う前に内容を読めるようにしておきます。

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じぶんのクセをすきになる

▽ 目次(原稿が進むほど詳細になっていきます)
1. クセと才能って、何のために生まれたんだ?
 ・みんな違ってみんないい。の裏返し
 ・クセの正体は『自然体の偏り』
 ・お金を受け取るクセ、受け取らないクセ
 ・クセとダーウィン
 ・クセの東洋医学。あとちょっと体癖について
 ・クセと才能は「ある・ない」の世界にはいない
 ・才能と技術の違い
 ・一人で生きることを追求する社会で、なぜ人は、人と共に生きるのか
2. クセを通して才能を聴きとる
 ・痛みを思い出す
 ・無意識の信念を自覚する
 ・処世術の発動を気付いてあげる
 ・反射神経で行動するのを辞めてみる
3. 偏見をたくさん持ったら、自分のことを好きになれる
 ・偏見は、偏見でしか壊せない
 ・ユング心理学
 ・メンタルモデル
 ・MBTI
 ・体癖


クセの東洋医学


 今日は、それぞれが違ったクセを持っている僕たちが、なぜ他者と共に生きるのか、というお話をしていきたいと思います。書ききれなかったらすみません。そうしたら何度かに渡って書いていきますね。

 ではなぜクセのある僕たちが、他者と共に生きるのでしょう?「クセがあるから、生きづらい。だから他者と一緒に生きる。」みたいなことですかね?うん、うん。合っているんですが、それだけだと大事なことを説明できていないような気がします。
 クセが生き辛さを生んでいるものだと一度考えてしまったら、クセの素晴らしさについて、そしてあなたの凄すぎる才能について自覚できる機会は、人生でこれからもう来ることはなくなってしまいます。それがクセの恐ろしさです。矯正しようとすればするほど、それはもっと大きな反動として返ってきてしまうんです。
 生まれつきの性質って、結局治すことはできないんですよね。それは授かったものです。父親と母親、もっと言うと父親と母親を生み出すに至った脈々たる数々の人間たちの偏りからすでにDNAは決定づけられているんですね。そこに幼少期〜思春期にかけての心理発達段階での体験が合わさって、人間の体と心のクセはほぼ出来上がってるんじゃないか、って僕は考えています。
 まぁ、そこは厳密でなくてもいいです。先天的か、後天的か、ということの議論に答えはないですから。そしてその違いを知りたいのはなぜかというと「これって、後から治せますか?」ってことを知りたいからなんじゃないかなって思います。後から変わるかどうかを知りたい人が、先天的か、後天的か、っていう分け方をしたいんじゃないでしょうか。
 そういう意味では、クセはその大部分が先天的に決まってしまうんじゃないかなと思っています。思春期までの経験も、もう今からでは治せませんね。(思春期真っ盛りの人もいるかもしれませんが。そんな若い人が読んでくれていたら、あなたはとんでもないクセ持ちですね。)思春期までの体験も、先天的という範囲に入れちゃいましょう。だって、自我というものがまだあまりない頃にすでに殆ど決まってしまっているということですから。どちらにせよ「今からでは治せない」ってことです。

 じゃあ、どうすればいいの?って話になりますよね。もうすでにクセが運命づけられていて、どうしようもない。僕はもう30歳ですから、もう完全に手遅れですね。もう完全に、クセついちゃってます。体も、思考も、偏りまくってます。もう治せません。手遅れです。
 じゃあ、どうしたらいいんでしょう。人間は努力する意味なんてないんでしょうか?この生きづらい世の中を、生きていくことにほんのり絶望し続けろってことなのでしょうか?
 全然、そんなことないです。それは、そもそもの「クセ」というものへの認識の前提から間違っているということです。クセは生きづらさの原因ではなく、僕たちひとりひとりの人間が、それぞれ個人と、そして周りにいる人間、いや人類全体を幸福にすることを追求するために授かった力なんです。僕はその力を、才能と呼んでいるわけです。
 クセは、体が求める自然体です。その偏りが、安心するわけなんです。その偏りに身を任せれば、脱力できるわけです。生まれた瞬間の骨格と、そして幼少期の体験からずっとそれを積み重ねてきたんです。

 「整体」という概念を初めて日本で提唱した野口晴哉さんという人がいます。その人は「体癖」という考え方の研究もしていました。
 体癖とは、人それぞれに元々身体の癖があるという考え方です。そして整体とは、完全に誰にとっても綺麗な形に体を整えるというものではなく、人それぞれの体の癖に合った形に戻していくことですよ、というような考え方から生まれた分野でした。
 野口さんは「体癖は、体が求めている要求である。」と言っています。あ、これも僕の解釈がふんだんに入っていると思います。気になった方は、自分でも調べてみてくださいね。野口さんの書いた「体癖」という本があります。これもかなりクセありな本なので初心者向きじゃないかもしれませんが、すごく面白いです。面白すぎます。おすすめです。
 そう、体癖って、ある人物が何かを求めている表出として生まれているんですよ、って野口さんは言っているわけです。例えば体癖の分類で、左右型と呼ばれる人たちは、左右のどちらかに偏りがちです。つい足を組んでしまったり、ちょっと斜めに体を倒したままソファに腰掛けると楽だったり、履いている靴の片方だけが早く擦り切れたりします。
 整体の世界では「ツボ」というものがありますよね。足の裏は第二の心臓、なんて呼ばれています。ツボによって効く臓器が違うわけです。健康診断でも、臓器ごとに健康的だったり、ちょっと機能が落ちていたりとか、分かるわけですよね。臓器って、ひとつひとつが体にとってそれぞれ違う、重要な働きをしているわけです。だから臓器のどの部分が弱いかによって、その人がどういう偏りを持っているか、という一つの情報になるわけです。
 お酒を飲みすぎていたり、油をとりすぎていたり、タバコを吸っていたり、姿勢が猫背のように悪かったり、、、みたいなことが体に負荷をかけ、臓器に負荷をかけ、弱らせていったりするわけですね。その結果、足の裏のある部分を押されたときに「ここは痛い!」ってなるんでしょうね。足のツボに関しては僕は全然詳しくないのですが。ものすごく痛いということだけは散々体験してきました。痛いですよね、あれ。
 整体は、この「ツボ」のようなものに似ています。先ほど説明した「左右型」は、消化器が重要なタイプです。消化器の調子が悪くなりやすいですが、逆に消化器にとって健康的な生活ができると、途端に体の調子がよくなっていきます。この面白いポイントは、普通に現代で生きていて健康診断みたいなことを定期的にやっていると、ある体の部位が「弱くなりがち」ということばっかりが目についちゃうことですね。そりゃあそうです。数字が下がっていたら、治さなくちゃ、となります。
 でも弱くなりがちな部分には、殆ど必ずクセが影響しています。もちろん暴飲暴食して、煙草も毎日一箱全部吸って、薬物も大量にやって(それはあんまりないか)なんて生活を続けてたら、臓器は荒れ放題になると思います。
 そういうことではないんです。普通に一般の人だよねって思うような生活をしているはずなのに、どうしても治らない体の不具合だったり、心の不具合みたいなことが起こってしまう。そこが、本当はとっても重要なんです。それがあなたのクセなんです。それを「みんなはこんなことないのに…。もっと頑張らなくちゃ。」っていう悩み方はしなくてもいいってことなんです。

 僕の場合は、3つの体癖があって、左右型の3種と、ねじれ型の8種、前後型の6種、の順に強いみたいです。体癖は必ず一つになるというわけではなく、複数ある場合も多いみたいですし、それぞれの強さのバランスも人によって違うようです。人間みんなそうですね。複合的なんです。誰もひとつの型にはめることなんてできません。
 ちなみに体癖は一種から十種まであり、奇数・偶数番号をセットにして、5種類の型に別れます。詳しくは、またこの本の中で書きたいと思ったタイミングで書きますね。
 左右型は、体の中で消化器が特に重要です。具合がわるいときは消化器に出やすいし、逆に調子がいいときは消化器が喜んでいます。
 体癖の面白いところは、体のクセは、心の要求に基づいて形作られていく、という考え方が取り入れられているところです。なので、体の不調が出やすいところだけでなく、体の癖を見るとその人のある程度の心理的傾向も分かるのではないか、というところがすごく楽しいポイントです。
 身体は、精神と切り離されていないよね、って考え方なわけです。東洋医学的ですね。心身一如なんて言葉もありますが、体と心が共に充実する、みたいなことに重きが置かれているわけです。現代の医学はほぼ西洋医学的だなと思いますが、体は体、心は心、とするわけですね。だからもちろん、体のお薬と、心のお薬は別れているわけです。
 でも、全部がこれでよかったんですかね?確かに、体のことは体に、心のことは心に任せておくというのは効率的かもしれません。肩が凝ったときに、筋肉を弛緩させる作用のある注射をするのは手っ取り早いかもしれません。気分の波が出やすい人に、そもそも感情があまり動かないようにする薬を飲むのも手っ取り早く精神を安定させることができるかもしれません。
 ちょっと雑な言い方になってしまいましたが、現代の西洋医学的な薬でやっていることって、こういうことです。そもそも炭酸リチウムがなぜ人の感情の波を抑制する効果があるのかも、あんまり仕組みを詳しく分かっていないくらいなんです。そんなもんなんです。それでも効くから、薬として認められる。でもやっていることは、人間から感情を少し一時的に奪っていくということです。それが本当に正しいんでしたっけ?僕は何だか、そうとはどうしても思えません。
 でも単純に、西洋医学を否定したいわけではないんです。西洋医学の素晴らしさは、それが対症療法として最善、最短であるということなんじゃないか、と思っているんです。何かの症状が出たときに、とても苦しい。怪我をして痛くて歩けない。精神的に落ちてしまって、死にたい。そんなときに最短で効果的に助けてくれるのは、西洋医学の方法なんだと思います。薬を飲めば、痛みを即座に和らげてくれます。それで今日の生活ができるわけです。精神的にも、すぐに死にたさを消し去ってくれます。それで今日も何とか仕事を続けられるわけです。
 僕たちは何とか生き延びていきたいわけですから、本当に大変な状況に陥った土壇場のときに、西洋医学がないと、生き延びてなんていられないわけです。そういう意味で、西洋医学を批判したいわけではなく、一つのやり方としてとても大切なことなんじゃないかと考えているということです。
 そして重要なポイントとして、対症療法は、往々にして原因療法にも紐付いています。
 これは、起こった症状を対処することによって、原因に向かっていけるということです。例えば、皮膚が荒れて湿疹が止まらないとき、対症療法としてかゆみ止めを処方します。そうするとその痒くなった部分を掻くことがなくなるので悪化が進まず、皮膚疾患の治療にもつながっていくということです。
 精神の例でいうと、死にたさの絶望に陥っているときに「私はなぜこんなにも死にたくなっているのだろう?幼少期の頃の体験を思い出してみよう…」なんて、そもそもの深層心理を理解して瓦解していく余裕なんてありません。死にたいんですから。今あるこの苦しみから逃れるためには、死ぬことが一番早い解決方法であるという結論にすでに達しているわけですから。だから、感情を一旦抑え込むんです。あ、うつ病なら抗うつ剤ですが、双極性障害の人は抗うつ剤は絶対に使わないでくださいね。逆効果になっちゃいます。そして気分が安定してきたところで、やっと死にたさを生み出していた苦しみの根源とゆっくりと向き合っていけるわけです。向き合い始めたら、時間はかかるかもしれませんが、必ず徐々に瓦解が始まります。
 こんなふうにして、対症療法は原因療法に繋がっていくわけです。そういう意味でも対症療法、ないしはそれを得意としている西洋医学はすごく重要ということです。まず死なせない。そういうことができるのが西洋医学なんじゃないかなと思ってます。

 西洋医学に関する話をしておくと、先ほど話していた東洋医学的な「心身一如」という考え方の面白さと、逆に脆さというものが分かりやすくなるのではないかと思って、書いてみたくなりました。
 では東洋医学では何ができるかというと、直接的に原因から攻めていくことができるわけですね。原因療法です。何かが起こっている原因を探っていくときに、体と心を切り離して考えることなんてできないわけです。どちらも常に、どちらに対しても影響しています。
 漢方などもそうですね。対症的に起こっている苦しみを解決できればOKということではなく、その人に起こっていること自体を見るわけです。その人自体を見るわけです。東洋医学では、人間も自然の一部と捉えています。切り離されていないんですね。
 切り離さない考え方は、とても東洋的だなと感じます。自然と人間、体と心、そういうものを切り離さず、一体のものとして考えるわけです。だから、起こっている症状そのものではなく、その根本にあることに辿り着こうとするわけです。むしろそこが大切だと考えているわけです。自然の流れに戻してあげることを考えるわけです。
 なので現代的な整体だと「曲がってしまった骨を元の位置に直す」というような認識が多いかもしれませんが、元々「整体」という概念を生み出した野口さんの考え方は違っていたわけですね。「整える」わけです。それは、全員が同じ体になる、ということではないんです。その人の自然体の形に整えてあげるということです。それはとても東洋的な考え方だなと感じています。僕たちの持っている固有のクセにとっても、すごく優しい考え方なんじゃないかなって感じています。
 
 ということで、今日は「クセがある僕たちが、他者と共に生きるわけ」を書いていきました。いや、全然書ききれませんでした。前座のお話で今日の原稿分が終わってしまいました。でも、すごくすごく大切なことを書きました。「クセ」というものが、治すべきものではなく、それを受け入れて自然体で生きること、という大事なことがどんどんと書けているような気がしています。
 その前提さえあれば、「共に生きる」ということも今度こそ書いていけるはずです。僕はこの素敵すぎるクセと今日も生きていきます。では。

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