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映画感想 永遠の門 ゴッホの見た未来

 『永遠の門 ゴッホの見た未来』はゴッホのパリ時代の終わりから、アルルでの生活を経て、死の様子までを描いた作品である。制作は2018年。アメリカ合衆国・イギリス・フランス合作。監督はジュリアン・シュナーベル。
 監督のジュリアン・シュナーベルは新表現主義のアーティスト。抽象画や彫刻などを手がけ、長らく低迷していたが1970年代の終わり頃に作品が注目され始め、以降様々な個展を開催し、注目されるようになった。
 映画監督としては1996年デビュー。アーティストとしての視点で、アートやアーティストの人間観を捉える作品を中心に制作している。代表作は『バスキア』『潜水服は蝶の夢を見る』など。本作でもやはり「芸術家として」の視点でゴッホがどういった人物だったのかを掘り下げようとしている。
 主演のウィレム・デフォーは癖が強すぎる顔ゆえに、存在感のある脇役や悪役で注目されることが多い。『スパイダーマン2』でスパイダーマンと戦うことになる、ノーマン・オズボーンことグリーン・ゴブリンなどはよく知られている。文芸名作の演技派としても知られ、『最後の誘惑』ではイエス・キリストを演じ、2017年『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』では全米批評家協会賞助演賞を受賞。本作『永遠の門 ゴッホの見た未来』ではヴェネツィア国際映画祭男優賞受賞、ゴールデングローブ賞主演男優賞などを受賞した。
 ウィレム・デフォーは本作の役作りとして監督のジュリアン・シュナーベルから絵描きを学び、作中では吹き替えなしで自らゴッホの絵を描くことに挑戦した。また撮影に入る前から、ゴッホが過ごしたアルルを訪ね、そこで生活し、ゴッホが体験したであろうアルルの空気感を体に染み付けてから映画撮影に臨むなど、ゴッホを演じることに並々ならぬ情熱を注ぎ込んでいた。

 では映画のあらすじを見ていこう。

 物語の始まりは、おそらく1888年頃。ゴッホ35歳頃だ。
 フランスのパリで過ごして芸術家としての研鑽を積んでいたゴッホだったが、描いた絵は一枚たりとも売れない。弟で画商のテオがそれなりに成功していたから、その弟夫婦の家に居候をして過ごしていた。
 ある時、ゴッホはテオと一緒にとあるサロンを訪ねる。そこには印象派と呼ばれる画家達が集まっていたのだが、1人が提案をする。みんなで協力し合って、絵が売れたら売れた金額の20%をプールし、それをみんなに配ろう……というものだった。そうすれば、売れていない画家もパリで一緒に生活することができる。
 でも、もとより一匹狼体質の画家達は反発する。その中でも傲岸と反発したのがポール・ゴーギャンだった。「画家を階級分けするのか!」「それじゃ画壇の官僚どもと一緒だ!」と怒鳴ってサロンを出て行く。
 ゴッホはそんなポール・ゴーギャンの様子にシンパシーを覚え、追いかけていき、話を聞く。ポール・ゴーギャンはパリにいてはダメだ。ここから脱出しよう。「南へ行くんだ!」とゴッホに助言をする。
 この言葉でゴッホはパリを離れて、南仏アルルを訪ねる。

ゴッホ『自画像』1889年8月。ゴッホ36歳頃の自画像である。ウィレム・デフォーは35歳のゴッホを63歳で演じる。自画像の顔と較べると老けすぎているが、この時代のゴッホはすでに肉体も精神もボロボロで、実年齢以上に老けていたと考えられている。

 映画の前半1時間は、南仏アルル時代のお話がベースになっている。

 この映画の話をする前に、この時代のアート界がどういう様子だったのか……という話をしなければならない。
 ヨーロッパ画壇(「サロン」という)の世界にも「権威」というものはあって、その世界で評価される絵というものが決まっていた。「聖書」か「神話」を題材にしなければならず、写実主義しか認められない世界だった。画壇が権威を持っていた時代は画家達はみんなテンプレート的な題材を選び、みんな似たような絵を描いていた。
 それが19世紀末の時代になっていきなり価値観が反転する時を迎える。「なんでいつまでも数千年前のできごとを描かなくちゃいけないんだ?」と芸術家達が画壇権威に対して反発を唱え、それぞれで新しい絵の世界を作る……という時代に入っていた。それが19世紀末の潮流だった。

 以前取り上げたハン・ファン・メーヘレンは1889~1997年の画家で、メーヘレンはゴリゴリの権威主義絵画の信奉者で、古典絵画の勉強をしっかり積み、学生時代のうちにコンクールで賞を得て画家になったのだけど、世間に出てみれば「写実主義や権威主義なんて古いよ」とボロカスにされてしまった。メーヘレンはそういう狭間の時代の人だった。批評家からボロカスに言われて、プライドもズタズタになったメーヘレンは、批評家達を見返してやろう……とフェルメールのニセモノを描き、批評家を騙して後で「実は私が描いたんだよ」と明かす計画だったが、しかしあまりにも評判になりすぎて言えなくなってしまって……それでメーヘレンの屈折したウソ人生が始まってしまう。

 ギュスターブ・クールベは1819~1877年でメーヘレンよりも100年近く古く、ゴッホよりもひと世代前の人である。ギュスターブ・クールベは初期の頃はおそらくアカデミックな絵画技法を学んできたが、次第に画壇権威に反発して新しい時代の絵画を模索した作家だった。

ギュスターブ・クールベ『オルナンの埋葬』1849 オルセー美術館

 例えば1849年の『オルナンの埋葬』はどこにでもある田舎の埋葬風景である。これをクールベは「歴史画」として発表した。
 なぜ画壇はイエス・キリストの処刑や埋葬風景ばかり画家に描かせるのか? あんなものは遠い昔の話だ。どこにでもある田舎の、ありきたりな埋葬風景も歴史の一つだ。歴史や神話ではなく、そうした神話的な表層を取り除き、その時代にある風景を切り取って、画壇が画家に描かせてきた風景を再現する。『オルナンの埋葬』はクールベなりのサロン批判であった。
 ギュスターブ・クールベはやがて「写実主義」を標榜するようになっていく。その時代の風景、その時代の人間をしっかり描き、時に画家達が避けてきた露骨な猥褻画にも挑戦した。猥褻な絵を描いたのも、「神話や歴史の絵であればヌードは許されるのに、なぜ現代の女性のヌードがダメなんだ? 同じことだろ」という意見によるものだった。それで1866年の『世界の起源』をはじめとして『白い靴下』といった、露骨に性器を描いた作品や、レズビアンを描いた『眠り』といった作品を描いたし、1853年の『浴女たち』のような中年女のブヨブヨの胴体もモチーフとして描いた。

ホイッスラー『白い服の少女』1862

 以前このブログにも取り上げた1862年のホイッスラーが描いた『白い服の少女』もサロン批判によって生まれた絵だった。「なぜ白い背景に白い服の人を描いてはならないんだ?」という疑問。サロン的な価値観でいえば、「白い背景に白い服の人の絵」は評価の対象外。「画面の隅々までガッチリ描かれたものが絵」であって、「白い絵」のようなものは「何も描いていない」と見なしていた。「余白の美」なんて発想はもちろんない。だからホイッスラーは、提唱するつもりで、あえて白に挑戦した絵を描いたというわけである。当時は猛烈に批判されたが……今では「名画」である。
 19世紀末という時代は長らく支配的だった「権威的な絵」がまずあり、それに対する反抗が画家達の大いなるテーマになっていた時代だった。

 ゴッホはそういう時代背景に生まれた画家だった。それ以前から脈々と画家達の上に君臨していた権威主義に反発し、新しい絵、新しい時代を模索していた時代である。その嚆矢としてまずギュスターブ・クールベがいて、その後にモネ、ドガ、ルノワールといった画家達が「印象派」を開拓し、その地ならしの後に続いてきたのがゴッホだった。
 1880年以降の画家たちは「ポスト印象派」と分類され、ゴッホをはじめとして、ポール・ゴーギャン、ポール・セザンヌたちがこのグループに入れられている。
 ゴッホはそういう時代の空気を猛烈に浴びながら独自の画風を模索していた画家だった。ゴッホもこの時代の「新しい芸術を!」という空気に影響を受けていたのだ。
 しかし、こういった画家達の評価ははっきり低かった。メーヘレンは20世紀の絵描きだが、この時代でもまだ権威主義は生きていて、真面目な画学生ほど古典絵画を勉強して……。学生のうちになにかしらの「お墨付き」をもらおうと思ったら、権威的な古典絵画は学ばなくてはならないものだった。

 本作でも、ゴッホの絵を見た村人が「わけのわからない根っこなんか描いて芸術家気取り」と罵倒する場面がある。ゴッホのような印象派はその時代でもまだ「早すぎた」潮流だった。田舎の村人が前衛的なゴッホの絵を見て理解できるはずもない。人々の間ではまだまだ権威主義的な考えが根付いていたし、はっきりいえば絵がよくわからない人にとってみれば写実的な絵のほうが上手いかヘタかがよくわかる。ゴッホのような独特な絵は、「こんなの子供でも描けるよ」みたいに思えてしまう。そういう、わかりやすい意味での「上手い/ヘタ」の価値基準を超えた絵の良し悪しなんて理解されるわけがなかった。
 アルルで前衛的な絵画を模索するゴッホと、「汚い格好の人が村のあちこちを歩き回り、わけのわからない絵を描いている(要するに不審者だった)」という認識の村人の間で対立が起きてしまうことは、ある意味仕方のないことだった。
(「現代アート」は権威に対する反発から生まれ、それが先鋭化し、再び権威となったところで生まれた。そこに至るまでの経緯を知らず、いきなり現代アートを見て理解できるか……というと理解できなくて当然。わかるわけがない。文化を鑑賞し楽しむためには、「教養」は絶対に必要なのである。教養無しで作品といきなり向き合って「心で感じろ」というのは単なる無茶ぶりでしかない)

ゴッホ『種まく人』1889年。ミレーの『種まく人』の模写。うまいと思う?

 ところでゴッホの絵画について語る時、私たちはゴッホを「偉大な絵描き」「作品が有名」という視点で見てしまう。しかし、ゴッホの作品を改めて見てどう思うだろうか? 「ゴッホは偉大な絵描きである」と教えられているから、「偉大」という名札を作品に添えて見てしまうが、いったんその名札を外した上で、純粋な目でその作品を見てみよう。
 どう思っただろうか? 「あんまり上手くないな」と思ったのではないだろうか。というか、むしろ「ヘタだな……」と。
 そう、実はゴッホはたいして上手くないんだ。
 まずゴッホは、絵描きの経歴にありがちな「幼少期から神道のような才能を発揮して……」というタイプではない。ゴッホはもともと聖職者になるつもりで勉強していたが、やがて挫折して、30歳近い年齢になってようやく絵の勉強を始めた。ゴッホがもっとも旺盛に創作活動に打ち込んでいたアルル時代というのは35歳からの話であって、相当に遅咲き。スケッチなんかを見れば実力がよくわかるが、実はさほど上手くもなかった。
 しかしゴッホについて語る時は、そういう「上手い/ヘタ」という二元論の話はほぼされない。ゴッホについて語られているものをよくよく見ると、作品の個性、革新性、あるいは生き様だ。

 ゴッホは確かにアカデミックな教育を受けていないし、さほど上手くもなかったが、あの画風は完全に独自のものだった。「ゴッホタッチ」といえば誰でもすぐに頭に思い浮かぶし、それを模倣し発展させられた画家は存在しない。
 漫画の世界に『ジョジョの奇妙な冒険』という作品を描く荒木飛呂彦という希有な作家がいるが、漫画史を俯瞰して見ても荒木飛呂彦に似たスタイルの漫画家は存在しないし、荒木飛呂彦ふうの絵を描いてもただの模倣にしかならない。完全に尖ったオンリーワンの世界に行くと、どこから来たかわからないし、誰も継承できない存在になってしまう。
 ゴッホはそういう境地をいきなり発見し、行き着いてしまった。だからこその評価がある。

 しかし「文化」というのは必ず過去の文化を踏まえるものである。過去の文化観とまったく無関係なものがある日突然生まれる……ということは絶対ない。ミーム(文化的遺伝子)というものは必ずあり、そこにミッシングリングなどというものはない。あらゆる芸術家は自分を構築した過去作品を模倣する性質を持ってる。だから芸術家は過去作品を模倣するか、あるいはカウンターするしか選択肢がないのである。19世紀芸術家達は、その手前まで作り上げてきた旧態依然の芸術に対するカウンターとして新たな絵画を模索したが、それも「過去の文化」という遺産がそこにあり、そこを意識しなければ到達し得ないものだった。
 とはいえ、じゃあゴッホを構築したものは何だったのか? あの独特すぎる画風はどうやって、どのように獲得し得たのか? これも謎だった。漫画界の鬼才・荒木飛呂彦は初期の頃は白土三平あたりに影響を受けていたが、その後すこしずつ「荒木飛呂彦でしかない」というものに育っていった。ゴッホの場合はどのような土壌があって、「ゴッホでしかない」タッチに行き着いたのか? これが謎である。

カラヴァッジオ『エマオの晩餐』1601年。天才・カラヴァッジオの作品。この時代にカメラがあったのか? と思うほどに精密な瞬間を描き出している。

 本作ではその疑問にも、ジュリアン・シュナーベル監督独自の解釈が語られている。
 本作のとあるシーンで、ゴッホがルーブル美術館に通うシーンが描かれている。ゴッホは巨匠達の作品を見るが、見ているのは「タッチ」のみ。作品の全体像やテーマとか見ずに、ただひたすらに「タッチ」……つまり「絵筆跡」ばかり見続けている。
 私たちは「西洋絵画」と聞くと、まず写実的でスフマートを活用した、筆跡を一切残さないような絵を連想するが、実際にはそういう絵は少ない。レオナルド・ダ・ビンチやカラヴァッジオといった巨匠の作品は確かに筆跡を残さないような精密な絵を描き、それがあまりにも有名なので、その印象で西洋絵画について考えるが、実際はそうではない。

フランシスコ・デ・ゴヤの『着衣のマハ』。まったく同じ構図の裸バージョンも描かれ、着衣版とヌード版は簡単に入れ替えられる仕組みになっていたらしい。絵画史上的に見て、陰毛を描いた最初の作品とされる。白いドレスが勢いでザッザッと描かれている。

 例えばレンブラントやスペインの画家フランシスコ・デ・ゴヤの絵を細かく見ていくと、筆跡が一杯残っている。実は本当にうまい絵描きの作品というのは、「手数」が少ないものなのだ。筆をざっと引いただけで、それを遠くから見た瞬間、リアルな陰影や、人物の動きを感じさせる絵になっている。いい絵描きになると注文数も尋常ではないくらい多いので、その仕事をさばくには、そういう絵の描き方を習得することも大事だったのだ。
 本作のゴッホは、その「絵筆跡」をえんえん、フェティッシュな視点で見詰め続ける。「私の好きな絵描きは筆が速いんだ」と語りながら、その筆の感触を再現しようとする。かつての巨匠達が書き残した「絵筆跡」の部分だけに猛烈な感銘を受けた変人的な絵描きがいた……それがゴッホではないのか、という「説」を作中で披露している。

 作中、興味深いのはゴッホの絵を(正確には主演のウィレム・デフォーが再現した絵)を白黒で見せているところだ。ゴッホ風の絵をモノクロにするとまるで彫刻のように陰影が浮き上がり、妙な生々しさが立ち上がってくる。本来カラーのものをモノクロで見せる……というゴッホの絵の新しい鑑賞法を提示している。
 作中の絵は主演ウィレム・デフォーが自ら絵筆を取って再現しているのだが、ストロークの長い線を再現しているのには感心した。ゴッホ風の絵を再現しようとする時、あの長~いストロークをブレさせず再現するのは、熟練した絵描きでもなかなか難しい。それを再現していたところで、ゴッホという役にいかに打ち込んでいたかがわかる。
(ゴッホの絵を語る時、「浮世絵」の影響も忘れてはならない。ゴッホは浮世絵に傾倒しており、たくさんの模写を残している。浮世絵のはっきりと描き分けられた色彩表現や、線画の表現にも影響を受けていた)

ゴッホといえば『ひまわり』が代表作とされている。なぜこの作品が有名か、というと安田火災(現・損保ジャパン)の社長が1987年(昭和62年)3月、ゴッホの『ひまわり』を58億円で落札した。バブル時代、日本人が西洋の名画を買いあさっていた時代の話である。安田火災社長・後藤康男は『ひまわり』を気に入り、「私が死んだらこの絵を棺桶に入れてくれ」と発言。「世界の文化財を燃やすつもりか」と日本中で非難を浴びた。もちろん、これは本気ではなく「それくらいこの絵が好きなんですよ」という比喩表現のつもりだった。そういう経緯があって、ゴッホの『ひまわり』は日本でもっとも有名な絵になった。『ひまわり』は現在も損保ジャパン日本興亜美術館にて展示されている。「作品が有名になる」というのは作品の評価以外にもそれなりの「経緯」があるのだ。

 余談になるが、ゴッホは日本において絶大な支持を受けている。日本でゴッホが紹介されたのは1912年(大正元年)に発行された雑誌『白樺』である。『白樺』ではマネ、セザンヌ、ゴーギャン、ロダン、マティスといったその時代の西洋芸術家を一挙に紹介しており、その中にゴッホも紹介された。『白樺』での紹介は西洋よりも一歩先んじていたと言われる。
 ここから日本人による「ゴッホ神話」というものが次第に形成されていくのだが、日本人のゴッホ支持はもっぱら「作品」ではなく「生き方/生き様」のほうだった。日本の芸術家には「清貧の美」という意識があり、「芸術家が金儲けを考え始めたらダメだ」「金儲けのためにモノ作りするのは汚い」……つまり「清貧の美」を保っていれば清い心で素晴らしい芸術を生み出すことができる、というような考え方があり、この思想は今でも若い芸術家の意識の中にある。(アニメーターの世界でも「貧乏からスタートした方がいい絵描きになれる」みたいな信仰がある)
 ゴッホはそういう「清貧の美学」そのもののような生き方を貫いた芸術家、として信奉され、作品の評価というか、作家に対する信仰のようなものでゴッホを支持していたような感覚に近い。こういう人達にとっては、ゴッホの絵画は聖遺物のようなもとして見る傾向がある。「自分もゴッホのような生き方を貫き通したい」……というような理想や憧れをそこに見出していた。

 「炎の画家ゴッホ」というわかりやすいキャッチコピーも印象に残り、今でも「ゴッホ」といえば「炎の画家」というキーワードを連ねて作品を見ようとする人も多い。
 こうやって時を経て、日本人の「ゴッホ信仰」という名のゴッホ人気は深まっていった。
 ただし、芸術家達の「清貧の美」はあっという間に形骸化していった。1号数百万円もらっているような絵描きが、「清貧の美」を理想として語る。行動と実態が一致していない。それに感銘を受けて信じた若い芸術家が、貧乏で苦労していく……という奇妙な構図が生まれていく。結局、「清貧の美」を語るのは、そこそこ金を持っている芸術家ばかり……というのが現実である。
(ゴッホにしても絵がまったく売れず、かといって制作費をひねり出すために仕事をしていたわけでもなく、弟テオの仕送りを頼りに生活していた。ただのニートだ。絵が一枚も売れない芸術家気取りのニートをかっこいいと思うか?)

 私たちが勘違いしやすいことの一つに、「自分の考えたことは自分自身で生み出したものだ」という意識がある。「私はこのように考えている。この考えは自分自身で発見したものである」……そう思い込んでいる人は多い。でもそれは勘違いである。思考の99%くらいはどこかから、誰かからもらったものである。私はこうやって文章を書いているが、私自身で考えて書いたもの、というのは全体の1%くらい。すべて何かしらの本に書いていたことを頭に入れて、それを再現しているだけにすぎない。
 私は、「私の頭の中の99%は他人のもの」……という意識を明確に持っている。だが、この意識に気付いている人は少ないらしい。
 例えば写実的な芸術を見た時、多くの人はこう言う――「写真のような絵はつまらない」「こういう絵は誰でも描ける」……もしかして、コレ、自分で考えて言っていると思っているか? もちろんそんなわけはない。
 「写実的な絵はつまらない」という認識はどこから生まれたのか、というと19世紀芸術界隈で、その以前の写実主義的な権威的絵画に対するカウンターから生まれた。私たちはそのミームの断片を受け取って、意味や由来もわからず、「写実的な絵はつまらない」を「かっこいい」と思って言っているだけである。そう、「かっこいい」から言っているだけであって、その言葉がどういった意識から生まれてきた言葉なのか、きちんと考えていない。

 芸術家の考える「清貧の美学」なんかも、19世紀時代の芸術家たちが理想として抱いていたもので、これも芸術家の権威達の成金生活を揶揄した表現だった。別に貧しかろうが大富豪であろうが、本当に才能のあるやつはどっちにしても良い作品を作る。大成功して大金持ちになった途端、面白くなくなった……なんて漫画家は存在しない。
 今の若い芸術家の間にも「清貧の美学」がどうして残っているのか……というと「かっこいい」からだ。修行僧のようにアトリエにこもり、孤独に芸術に向き合う……という姿はそりゃかっこいい。憧れる。でもそれは単に「かっこいい」からでしかない。「才能」と「所得」は無関係だ……というか才能のあるやつはだいたい金を持っている。売れてないやつは、要するにたいした才能じゃないってことだ。
 どっちの例にしても、はっきりいえば「中二病」でしかない。私に言わせれば、「まだ言ってんの?」という感じだ。「写実的な絵はつまらない」なんて意識は100年以上前の権威主義のカウンターで言ってただけの話で、今の時代にそんなこと言ったってしょうがない。「賞味期限切れ」の意識で、現代は現代としての意識を持って創作に臨むべきだ。
 19世紀芸術家話をしていると、ついこういう余談をしてしまいたくなる。それも19世紀芸術家が現代にいたるまでの「芸術」の意識を作り、固定しちゃっているから……というのもある。

 と、ここまでぜんぜん映画の話をしていないじゃないか……と思われるが、それはちゃんと理由がある。なぜなら本作『永遠の門 ゴッホの見た未来』という作品の中で、教科書的に「ゴッホはなにをしたか」「ゴッホはどうしたのか」という話はまったく描写されない。「そういう話は知ってて当然でしょ」という認識で映画が進行してしまう(アーティストが制作している映画だから、そうなる)。ある程度ゴッホについて知った上で見ないと駄目な作品だからだ。だからまず映画の話ではなく、ゴッホ自身やゴッホの時代の芸術について解説しなければならなかった。

 本作『永遠の門 ゴッホの見た未来』という映画は、「ストーリー」なるものがほとんどない。散文的な映像の作りで、「物語経緯」がきちんと掘り下げられず、その時々の心象や印象のほうを重視して描かれる。
 例えば冒頭の、パリの異様に寒々とした風景。ゴッホは作品が売れず、弟夫婦の家に惨めな思いをして暮らし、なかなかインスピレーションにも恵まれない。そういうゴッホの気分を映して描かれる。
 ゴーギャンの「南へ行け」の一言で一念発起し、アルルへ移住する。アルルに移ってからもしばらく寒々とした風景が描かれる。カメラはずっと手ブレしながら、ゴッホの様子を捉え続ける。カメラはまったく止まらないし、ずっと揺れている。最初気持ち悪かったくらいだ。カメラがブレ続けるのは、どこまでもゴッホの心象に寄り添っているからだ(印象派の画家が風景をどう捉えているのか、という視点も表現しているのだろう)。まるで素人撮影のようにカメラがブレ続けるが、しかし光の捉え方や構図はバチッと決まっている。素人を装ったプロの撮影だ。
 実は劇中、一回だけ手ブレの一切ないフィックスの画面が出てくるシーンがあるが、それが医者の視点になったとき。医者の視点でゴッホを見ている時、画面がピタッと止まる。あそこでピタッと止まった画面が出てくる……ということは、意図的に全編手ブレさせまくって撮っているということである。

 間もなくアルルの「黄色い部屋」に移り、ゴッホにとって転機が訪れず。ゴッホはアルルの自然に触れ、インスピレーションに恵まれ、旺盛に創作活動に打ち込んでいく。
 この時の映像が、えんえんアルルの自然を描写し、その中を歩くゴッホ、手を広げて風に身を委ねるゴッホ、土を掴んで自分の顔にかけて微笑むゴッホ……とゴッホの心象風景ばかりが描き出されていく。
 ぜんぜん物語を掘り下げない。ゴッホのその時その時の心象をひたすら、延々掘り下げていく。まるでゴッホが今の時代に実在して、ホームビデオでも撮っているかのような画がえんえん続く。
 こういう映画の作りだから、あらかじめゴッホについて知識を入れてから見たほうがいい。なぜなら映画の中で一切解説してくれないからだ。ゴッホについての知識がない人が見たら「?」な内容になっている。
 解説しない代わりに、「ゴッホはこういう人物じゃないのか?」という監督独自の「説」が様々に披露されていく。
 その一つがすでに挙げた「ゴッホのスタイルはどこから来たのか?」という問いに対して。ルーブル美術館に通い、ひたすら「タッチ」のみを観察し、それを時間をかけて自分のものにしていく。

 もう一つがゴーギャンとの共同生活について。
 通説では、ゴッホとゴーギャンは間もなく大喧嘩して別れることになっているが、映画の中ではその経緯についても独自の見解で描いている。
 ゴッホとゴーギャンは芸術の方向性について少しずつ違いを意識していくことになる。もともとはパリ芸術家達の反発で意気投合していたゴッホとゴーギャンだったが、一緒にイーゼルを並べて絵を描いてみると、次第にお互いのスタイルの違いが気になってしまう。ゴーギャンはゴッホが描いている姿を見て、「もう少しゆっくり描いたらどうだ」とアドバイスをしようとする。こういうアドバイスも、ゴーギャンなりの人情だった。でもそれがゴッホにとって疎ましい。
 こういうところもアーティストにとってありがちな話だ。大きな体制があって、それに対する反発ということで意気投合はしたものの、創作の方向性は微妙に違う。お互いの方向性の違いが気になって仕方ない。お互いの作品を見て、「お前の作品ってこうしたほうがもっと良くなるんじゃないか」と人情でアドバイスするのだが、そう言われるのが疎ましい(自分からは言うけど、言われるのは疎ましいのだ)。「いや、これが俺のスタイルなんだ」と反発したくなる。そこからじわじわと友情に亀裂が入ってしまう。アーティスト同士というのはなかなか友情で結びつけないものだ。私ですら、そういう経験はある。
 だがゴッホとゴーギャンは決定的に友情が破綻して決別したというわけではなかった。ゴーギャンは間もなく作品が売れるようになって、アルルとかいう田舎で貧乏生活を送る必要がなくなった。だからお別れだ……ということだった。
 しかし思い込みの激しいゴッホは、友情が壊れてしまったのだと悲嘆に暮れてしまう。もともと精神状態が危うかったゴッホは恐慌状態に陥り、自ら耳を切り落とし、ゴーギャンに贈ろうとする。
 どうしてこのように描いたのか、というとゴッホとゴーギャンはその後も文通を続け、その内容を見るととても友情が破綻したようには見えなかったからだそうだ。「ゴッホとゴーギャンの友情は実は破綻していなかったのではないか」がこの作品で描かれた解釈だった。ただ、誤解があっただけだった……と。

 ゴーギャンはイケメンで社交性が高く、アルルの人達とうまくやっていくことができた。それにゴーギャンは素人目にもちゃんと「上手い絵」に見える絵を描く。ゴーギャンとゴッホで村人たちの接し方はまるで違った。ゴッホのイメージは、汚い格好で村中ブラブラ歩き、なんだかわからない絵を描く人……つまり不審者だった。しかもゴッホは精神的に不安定だったので、時になんだかわからない行動を取っていたようである。ゴッホはアルルの自然に理想郷を見出していたが、アルルの人々はゴッホを疎ましく思い、次第に関係も悪くなり、最終的には追い出されてしまう。
 同じ頃、ゴーギャンとの友情に終焉を迎え、後半1時間は精神的支柱を失ったゴッホが精神病院へ送られてしまう姿が描かれていく。理想郷アルルから追放され、精神病院に収監され、絵筆も取り上げられてしまう。絵が評価されない、絵も描くこともできない絶望が掘り下げられていく。
 自分は絵描きなのか、狂人なのか――。ゴッホは自問自答を続ける。面会に来た神父がゴッホの絵を見て、「醜い」とバッサリ評論する。この時代はまだゴッホは理解されない存在だった。理解されなさ過ぎて狂人と思われていた。やがてゴッホ自身も自分は狂人なんじゃないか、と思い、不安を抱くようになっていった。
 しかし実はその頃、ゴッホの絵は評価され始めていた。弟テオが熱心にパリで絵を紹介し、ゴッホの絵を見た批評家が、その絵の中に自然の生々しい息吹と太陽の熱気を感じる……と評価したのだった。相変わらず売れなかったけれど。

 私は常々、「批評家の仕事」とは「芸術を言語化すること」と語っている。芸術家の仕事とは、「言語化されたものを超えること」。芸術家は批評家を蛇蝎のごとく嫌っているが、実際にはこの両者は両輪のようにお互いを支え合って機能している。
 一般人は芸術を見て、それがなんなのか、どういうものなのか、理解できない。何をテーマにしているのか、何がすごいのか……。それをわかるように翻訳して紹介するのが評論家のお仕事である。評論家のお仕事とは、言語化されていない芸術をわかりやすい言葉に置き換えて紹介することである。
 芸術家が評論家を嫌うのは、芸術家は「そんなことは考えるな。心で感じろ!」というつもりでいるからだ。言語として分解されると、芸術が持っている神秘も失われてしまう。それに「翻訳」では完璧にオリジナルが持っているニュアンスを正確に人に伝えることはできない。例えば日本語を英語翻訳すると、多くの細かなニュアンスが抜け落ちてしまう。言語翻訳でもニュアンスが抜け落ちるし、微妙な食い違いが起きてしまう(全ての言語に対応する言語があるわけではない)。そもそも言語を越えた概念である芸術を言語に翻訳したところで、正確に翻訳することなどできるわけがない。アーティストからしてみれば「それは違う」と言いたくもなる。

 だから芸術家は批評家が文字翻訳したものではなく、「作品そのものを見てくれ!」と思っているわけである。映画中でも、人々が「作品そのもの」ではなく、「批評家の書いた文章」のほうばかり見ている……というシーンがある。芸術家からしてみれば「作品を見て、作品で感じてくれ」と言いたくなる。
 しかし普通に過ごしている一般人は、芸術がどういったものなのか、わかるわけがない。批評家が翻訳したものの方が圧倒的にわかりやすい。一般人がその芸術が凄いかどうかを判定するのは、批評家が書いたものを読んでからだ。自分からは考えないものなのである。「思考の99%は誰かの借り物」――芸術を見てどう感じるのか、という意識も人から借りてくるのである。
 だいたい、芸術なんてものを理解し得るのは、同じ芸術家だけなのだから。こういうところで批評家と芸術家の葛藤は続くわけである。

 精神病院での長い時間を経て、ようやくゴッホは退院し、再び芸術家に戻るのだが、間もなく死の時が迫ってくる……。
 本作の公式サイトではゴッホの死について「死のミステリー」ともったいつけるような書き方をしているが、そういうものではない。ここで驚くような仕掛けが施されているわけではない(なので変な期待を持たせる書き方をするのはどうかな……という気が)。ただ、ゴッホの死についても、本作ならではの「解釈」が示されている。
 通説ではゴッホは「拳銃自殺」をした……ということになっているが、しかしそれも怪しいところがある。どういうことかというと、自殺としては不自然な角度から銃弾を撃ち込まれている。ゴッホの死に際については複数説が唱えられており、まだ確定されていない。
 本作がどのような結末を迎えるのかは、オチを話すようなものなのでここでは語らないが、この作品ならではの解釈が示されている。それを見届けるために映画を見るのもいいだろう。

 「ゴッホ」をテーマに掲げても語るべきことというのは山のようにある。日本においてはゴッホは「偉大な芸術家」と見なされているが、それがなぜなのか。実際はどうなのか? そこから一歩進んで、ゴッホはどうしてこんな奇妙な作品を描いたのか。どういう時代的な要請があったのか……。様々な角度から語り、掘り下げていかねればならない。なぜならば、ゴッホを巡る意識の一つは、間違いなく私たち日本人と無関係ではないからだ。ゴッホを掘り下げていくと、日本人がなぜ「私たちはそのように考えるのか」という答えを一つ示すことができる。
 映画についてだが、これまでの感想文の中で書いたように、「ゴッホがもしもいま時代にいて、もしもホームビデオ的な映画を作ったら」というようなニュアンスで描かれている。だから全編ひたすらブレている。ゴッホの視点で、FPS的に風景が描写されるシーンもある。それがゴッホの心象風景を浮かび上がらせる効果をもたらしている。
 一方で、ゴッホについて「何をした人なのか?」という話はまったく掘り下げてくれない。この作品はゴッホに関する教科書にはならない。ゴッホに関する基本的解説がほぼない代わりに、監督による独自解釈だけが示される作品だ。ゴッホについて知識のない人が見たら、最後まで「?」で終わるだろう。事前知識必須の作品だ。ゴッホについての知識をあらかじめ持っている人であれば、この作品は有意義な鑑賞体験になることだろう。主演俳優ウィレム・デフォーがゴッホの代弁者のように感じられることだろう。


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