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映画感想 ファースト・マン

 今回視聴映画は『ファースト・マン』。2018年公開の映画で、人類で初めて月面着陸を成功させたニール・アームストロングを描いた作品である。
 監督はデイミアン・チャゼル、主演はライアン・ゴズリング。『ラ・ラ・ランド』の監督主演コンビである。制作費5900万ドルに対して、世界興行収入は1億200万ドルと世界的に大ヒットし、Rotten Tomatoesでは批評家支持率92%と高い評価も獲得した。アカデミー賞では音響編集賞、録音賞、美術賞、視覚効果賞にノミネートし、視覚効果賞を受賞。興業・批評ともに大成功を収めた映画だ。
 ジェミニ計画からアポロ計画の両ミッションを題材にした作品だが、同じ題材を取り扱った過去の映画(『ライトスタッフ』『アポロ13』『ドリーム』『フロム・ジ・アース』)とはかなり毛色が変わっていて、かなり落ち着いたトーンだし、なにより主人公のニール・アームストロングという1人の人間の心理にスポットライトが当てられている。宇宙開発をテーマにしたこれまでの映画は明るい群像劇、エンタメ色の強い傾向があったか、そういった作品と較べるとかなり重いし暗い作品である。

 まず時代観の話から始めよう。
 なぜアメリカはあそこまで宇宙開発にこだわったのか。『ファースト・マン』の作中にも示されているように、アメリカ国内の格差問題や貧困問題に背を向けてロケット開発に予算が突っ込まれていた。なぜアメリカは国民を犠牲にしてまで宇宙開発に邁進し続けたのか。
 それは1957年のスプートニク・ショックに始まる。1957年10月4日、ソ連による人類初の人工衛星打ち上げに成功する。これによってアメリカはパニックになる。
「ソ連に宇宙から攻撃されるのではないか?」
 今も空の上を、ソ連の人工衛星「スプートニク1号」が周回している。もしもあの人工衛星にミサイルが積み込まれていて、アメリカに爆弾を落とすようなことになったら……。
 結局のところ、スプートニク1号は攻撃能力を有していなかったわけだが、「もしも」の事態を想定して、ソ連と並ぶ宇宙開発能力を有しておく必要があった。それはつまり、軍事面での優位性を持ちたいがための行動だった。
 そこに、「国家の意地」や「国威発揚」といったテーマが付随的にくっついてくる。「強いアメリカ」はアメリカ国民にとって、ある種の信仰のようなもので、「ソ連に負けてはなるまい」と、あるいはソ連に対する不安と恐怖から、宇宙開発へと邁進していく。
 しかし、そう思い抱いたところでソ連との宇宙開発競争は遅れに遅れた。1961年4月12日、ソ連のガガーリンが世界で初めて宇宙空間到達に成功する。
(この時、「地球は青かった」という名言を残す)
 同じ年である1961年5月25日、ジョン・F・ケネディはソ連から一歩先んじるために、「60年代の終わりまでに人類を月に送り出す!」と発表する。
 しかし、その宣言を行ったジョン・F・ケネディは1963年に死去。公衆の面前での暗殺であったが、今においても首謀者不明である。

 なぜ月へ行く必要があったのか――というと、アメリカはそれだけ宇宙開発に先んじた能力を持っていることを、ソ連に対して示すためである。軍事の常識であるが、戦争が起こらないようにするための確実な方法は、相手に「その気をなくさせる」ことである。月旅行は、「アメリカはそれだけ精巧なミサイル制作技術を持ってますよ」と示すことができる。それが狙いで、月面旅行計画が立てられた。
 とはいえ、「宇宙開発」と「軍事」というテーマを結びつけていたのは一部の政治家だけで、多くのアメリカ国民にとって「月面旅行」は「ロマン」の産物だった。実際に携わっている人達にとっても、「軍事」というより「ロマン」の色彩は強かっただろう。ロマンという認識だから、「それは国内の貧困問題を放り出してやるようなことか?」という疑問符が付けられる。
 「競い合う」という状況は不思議なもので、次第にアメリカとソ連は「どっちが先に月に到達できるか」で競争を始める。もともとのテーマは「軍事」であったのに、アメリカもソ連もその目的も忘れて宇宙開発競争に邁進していってしまう。
 現代でも月面旅行は「ロマンチックな挑戦」のように語られる話だが、元々は軍事問題が経緯としてあった……という話は押さえておくべきだろう。

 映画の話をする前に、「ルック」について触れておこう。
 まずどのシーンも粒子感たっぷりのフィルム風の画面で作られている。これは1960年代のカメラの風合いを再現するためだ。といっても、あの時代にここまで色彩感豊かなカメラなんてないし、しかもハンディカム風の手ブレが載ったカメラなのにワイドスクリーンフィルムなんて当時あるわけないから、これも雰囲気を出すための仕掛けである。
 これが非常にいい雰囲気を出している。1960年代風のファッションや風景を作り込んで、その時代のカメラで撮影したかのような画面。これだけで時代観が出ている。
 こうしたざらつき感のあるフィルム撮影で、しかも役者の表情を長回しでじっくり撮っていくから、登場人物のささやかな心理の動きまで捉えているような感じがする。
 現代のカメラだったらいくらでも精細に描写することは可能なのに、あえて古さを表現し、その中で時代観と人間を描写する。これが『ファースト・マン』という作風に非常に合っている。それに非常に画面がお洒落。2時間20分という長尺映画だが、画面を見ていて飽きない良さがあった。

映画前半 ニール・アームストロングはなぜ月を目指したのか?

 ではそろそろ本編のストーリー紹介をしよう。

 お話は1962年4月20日(アームストロング32歳)のあるシーンから始まる。
 当時のニール・アームストロングはテストパイロットで様々な実験機に乗っていた。この日はX-15に搭乗していたのだが、高度63㎞まで上昇した時、機首を下げるタイミングをほんのわずかに遅れたために、コントロール不能に陥ってしまう。
 高度が高すぎて風も空気もない空間だから、翼が役に立たない。それどころか、大気に機体が押し返され、帰還不能になってしまう。
 それでもどうにかこうにか帰還。事故死一歩手前の危機一髪からの生還だった。
 このエピソードは後にも語り継がれる「九死に一生」事件だったらしく、Wikipediaにも掲載されている。

 「テストパイロット」という職種は開発途中の実験機に乗ることが仕事だから、当然ながら事故は起きる。というか、「どんな事故が起こりうるか」検証する作業であるから、その最中でテストパイロットの何割かは死亡する……という過酷な仕事であった。
 ニール・アームストロングはテストパイロットの経験があったから、後のアポロ計画の時でも、「テスト中に事故が起きて良かった」と語るようになる。もしも本番という時に想定しない事故が起きたら、それこそ大事件だ。テスト中に事故を起こして、どんな不具合が起き得るのか洗い出せていた方が、後々の事故を防ぐことに役立てる(周囲の人達は「事故は起こらないようにしろ」と語るが、アームストロングだけは「事故は起こるもの」という考えだった)。ニール・アームストロングのこういう考え方は、テストパイロットの経験があったからだ。

 映画の冒頭に、テストパイロット時代の「九死に一生」事件を取り上げたのは、映画的なインパクトを狙ったから……とかそういうことではない。ニール・アームストロングが生と死の端境を彷徨い続ける男……ということを印象づけるためである。ニール・アームストロングはこの事件に限らず、様々な事件に遭遇し、1人生還し続ける男であった。
 「幸運」……という言葉がこの場合適切かどうかわからない。ニール・アームストロングは確かに様々な事件・事故に遭遇しつつ、生還したが、その周囲で死んでいく人が多かった。まるで「自分の身代わり」みたいに……。
 ニール・アームストロングが九死に一生の事故から生還し、自宅に戻ると、2人目の子供であるカレンが「悪性脳腫瘍」で倒れる……という事件が起きる。わずか2歳。2歳で脳腫瘍を患う……というのはもちろん滅多にないことである。
(発生率でいうと、10万分の1である)
 X線治療でどうにか延命するが、2歳の子供の命を救えず、1962年1月28日死亡する。
 まるで自分の身代わりで死んだみたいじゃないか……。ニール・アームストロングは娘の死に哀しみくれる。
(Wikipediaによると、人前では涙を流さなかった……と書かれている)

 娘死亡の哀しみも癒えない時期に、ニール・アームストロングはジェミニ計画に立候補書類を提出する。1962年6月に提出し、同年9月にはそのメンバーに選出されている。

 さて、問題である。
 ニール・アームストロングはどうして娘が死んだ直後、「月」を目指し始めたのか? なにをニール・アームストロングが駆り立てたのか?
 夜の空……には死のイメージがまとわりつく。私たちは今でも人がお亡くなりになると「星になった」という言い方をする。これだけ科学文明が発達した今という時代ですら、そういう考え方や言い回しが残っているくらいだ。
 とりわけ「月」には「死」のイメージがまとわりついている。太陽が生命のシンボルであるのに対し、それを反転した姿である月には昔から死のイメージ、死にまつわる神がそこに当てはめられた。ケルト神話における月の女神は「ケリドウェン」といって、これははっきりと冥界を司る神とされている。
 これはギリシア神話でいうところの、オルフェウスの冥界下りのようなお話なのである。
 オルフェウスは妻が死んで、その妻を取り戻すために冥府へ向かった。オルフェウスの竪琴の音色に冥界の住人達は感動し、死んだ妻をオルフェウスに返す。ただし、ハーデスから「決して後ろを振り返ってはならない」という条件が付けられる。しかしオルフェウスは冥界を抜け出すまであと一歩……というところで振り返ってしまう。
 ニール・アームストロングがそういう古来から残っている神話を意識していたわけではないし、そういう信仰を抱いているようには見えないが、娘が死んだ後、「月に行けるかも」という夢に希望を託してしまう。

 しかし訓練は非常に過酷であった。
 1964年4月23日、「多軸制御訓練」という訓練を受ける。要するに、上下左右あらゆる方向に不規則に振り回され、その中で冷静にミッションを遂行できるか……という訓練である。
 この訓練で、ニール・アームストロングはあっけなくも気絶してしまう。その後に続いた人達も、みんな気絶し、目を覚ました直後、胃の中のものを吐き出してしまう。過酷だが、この訓練は後々意味が現れてくる。

 ここまでが前半25分のストーリーだ。

映画の中盤まで 死んでいく仲間達と、生き残るアームストロング

 次の25分を見ていこう。

 ニール・アームストロングは新たな宇宙計画の新メンバーであるニュー9に選抜され、NASAから近いところへ引っ越ししてくる。アームストロング家のお向かいになったのが、エドワード・ホワイト一家だ。アームストロング一家とホワイト一家は、同じ仕事に就く者同士、家族ぐるみの付き合いを始める。
 アームストロング一家がホワイト一家と親しくしたのは、ホワイト一家に幼い娘がいたから……という話もある。ホワイト一家の娘に、死んだ娘を重ね合わせたのかもしれない。
 ホームパーティのシーンでは子供たちとの交流が描かれるが、これが非常に良い。子役達の演技が台本を読んでいるという感じがまったくしない。カメラワークもあるが、まるでホームビデオを回しているような自然な演技を見せてくれる。
 アームストロング一家とホワイト一家は頻繁にホームパーティをする仲だったがある日、その一同を曇らせるニュースが舞い降りる。テレビを付けると、ソ連が月面歩行用の宇宙服を発表を目にする。「またしてもソ連の勝利だ」……という報道に、男達の表情が強張る。

 1965年8月21日。ニール・アームストロングはこの時予備クルーで、ジェミニ5号の打ち上げを見送っていた。
 打ち上げの後、「内密に話がある」と誘われる。バズ・オルドリンとロジャーチャフィーを紹介され、ニール・アームストロングをジェミニ8号の船長に……と明かされる。

 それから間もなく、エリオット・シーとチャールズ・バセットの2人が着陸時の事故により死亡したことが知らされる。
 ニール・アームストロングは葬式に出席するが、その最中に想うのは死んだ娘のこと……。
 ニール・アームストロングは妻を残したまま帰宅すると、自宅の庭で1人月を眺めるのだった……。

 ニール・アームストロングがどういった人間だったかというと、とにかく無口。ユーモアのない男だった。家族にも本心も内面を語らない。無口で冷静沈着な男だった。
 映画の話ではないが、こんなエピソードがある。1979年、ニール・アームストロングは自宅で農作業をしていたところ、機械に指が引っ掛かり、切断する事故を起こした。そこでニール・アームストロングはどうしたかというと、慌てることなく切断した指をひろい、冷水で冷やしながら病院まで行き、縫い付けてもらった。
 指が切断する事故を起こしても慌てない。冷静に判断して、危機を脱する。それくらいの冷静さを普段からもっていた。ただし、ただひたすらに無口。面白いことは何も言わない。
 記者会見のシーンがあるが、ニール・アームストロングは必要なことを淡々と語るだけ。マスコミ的にもつまらない人間だ。調子の良いことを言って場を盛り上げようとするバズ・オルドリンと対照的な人間だった。
 ニール・アームストロングは誰に対しても無口で、家族に対しても無口。誰にも本心を語らない人間だった。
 娘のカレンを喪ったことは、後々までニール・アームストロングの精神に暗い影を落としていた。だがその精神的苦しみを、家族にも打ち明けない。ニール・アームストロングは家族を放り出して宇宙計画に邁進するようになり、やがて家族との関係は崩れていき、息子達は反抗的な態度を取るようになっていった。
 映画の最後にもなっていくと、家族のフラストレーションはたまっていく。これから月に向けて長い旅に出るというのに、妻にも息子にも向き合おうとしない。何も言葉を残さず、1人で行こうとするニール・アームストロングに妻は怒りを爆発させてしまう。それくらいに何も言わないし、心を打ち明けてくれない……そういう人物だった。

 1966年3月16日。ジェミニ8号が打ち上げられる。船長はニール・アームストロング。同乗者はディヴィット・スコット。
 この打ち上げシーンだが、ほぼ宇宙船の中だけを接写する。いったいカメラマンはどこに収まっていたのか……というくらい狭い空間内に、2人の男が敷き詰められている様子が描写される。
 あまりにも狭く暗い宇宙船内……小さな窓から外の様子がちらと見えるだけ……。宇宙船内の2人には、ただそこに座って無事に打ち上げ完了してくれるまでを見届けるしかないような状況。閉所恐怖症には耐えがたい空間と時間だ。
 どうしてこのように描写したのかというと、私の推測では、第1にロケット打ち上げシーンはすでに様々な映画の中で描かれてきたから。過去の映画と差別化を図る必要があった。
 第2に、作品がニール・アームストロングの内面描写に徹底したかったから。打ち上げの瞬間、ニール・アームストロングがどんな表情をしていて、どんな風景を見ていたのか――それをドキュメンタリー的に再現する、というのが本作の趣旨だ。「ニール・アームストロングを描く」というのが作品の一貫してテーマであるから、そのためには「映画映(ば)え」する瞬間も犠牲にする。
 ロケットの打ち上げシーンは外から描いた方が絶対に迫力があるし、画的にも格好いいシーンができあがる。派手に爆煙を噴き上げながら上昇するロケットは、どんな時でも格好いい画になるのはわかっている。しかしそういう見た目の派手さではなく、ニール・アームストロングという男を描くことがこの映画の狙い。
 打ち上げシーンがひたすらに地味に描かれた理由は、おそらくこういうことだろう……と私は推測する。アポロ時代の映画がすでに山ほど作られているからこそのシーン作りだ。

 しかしジェミニ8号はドッキングを成功させるところまで進むが、その直後、謎の不具合を起こして異常回転を始める。
 最初の訓練シーンで体をグルグル振り回すシーンを入れたのはこのため。異常な回転の中に放り出されると人間はどうなるのか……という生理現象を説明するためと、後にこのシーンがやってくる、ということの予告だった。
 この時の事故について、
「2つあるRCSスイッチのうち1つをオンにしていれば回転はすぐに収まっていた」
 という批判がある。ニール・アームストロングの対処法は適切ではなかった、と。
 しかしこれは「後出しジャンケン」というやつだ。事故が起きた時はNASAもこんな事故が起こることは把握していなかったし、船員は対処法を知らされてなかった(NASAが把握していたら、指示を出していたはずだ)。後で調べてようやく対処法がわかった……という問題の対処法を批判するのは、あまりフェアとは言えない。
 とにかくもニール・アームストロングは異常な回転の中にさらされ、気絶する一歩手前の状態からどうにかこうにか立て直し、地球に生還。ニール・アームストロングはまたしても「九死に一生」の事故を生き抜いたのだった。

 ここまでで50分くらいだ。

 ジェミニ計画の成功を踏まえて、NASAはいよいよアポロ計画へ、本格的に月旅行へと突き進んでいく。
 だが、その最初の一歩、アポロ1号が発射前に火災事故によって乗組員3名が死亡する。ガス・グリソム、エドワート・ホワイト、ロジャー・チャフィーの3人が犠牲になる。
 この時の火災事故は、過去作品では『フロム・ジ・アーズ』の中に描かれている。本作の方が人物にカメラが接近しているぶん、事故が起きた瞬間の怖さが表現できている。逃げ場のない密閉空間の中で火が広がり、慌ててハッチを開けようとするが、こうした密閉空間の中に酸素が流れ込んでくるとどうなるか――。宇宙船内に消火器など用意されておらず、火災から逃れる術はなかった。
 ニール・アームストロングはまたしても事故から回避する。自分が乗らなかった船で事故が起きて、誰かが死ぬ。自分は生き残る。「幸運」という言葉では片付けられない運命によって導かれていく。
 ニール・アームストロングは同じ職場で、仲の良い“お向かいさん”を喪ってしまうのだった。アームストロングの妻は、抜け殻のようになるお向かいさんの奥さんを見て、同情心と共に不安を高めて行く。夫も同じようにいつか事故で死ぬんじゃないか……。この不安が夫婦の関係性を崩壊させていく。
 それでもニール・アームストロングは歩みを止めない。やがて気持ちが家族から離れていき、“月に行くこと”のみに邁進していく……。

映画の感想 歴史は解釈する人によって変わる

 本作の紹介はここまで。
 歴史的事件だからネタバレもなにもないが、アームストロング船長はこの後、人類初の月面到着を成功させる。

「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩である」
That's one small step for (a) man, one giant leap for mankind.
※ (a)は言い間違い。うっかり(a)を飛ばして言ってしまっていた。

 月到達は人類史にとっての偉大な成果だが、この一言も人類史の中でもっとも有名な一言のひとつだ。

 人は生きている間は、何かしらで発言したり、何かを世に残したりして、「自分が何者か」を世間に対して残そうとする。しかしお亡くなりになると、途端に「歴史上の人物」になる。歴史上の人物になると、生き残った人達が評価するフェーズに入っていく。「あの人は善人だった」「あの人は悪人だった」……という感じに「解釈」されていく。
 本作『ファースト・マン』はニール・アームストロングが月旅行にこだわったのは、娘の死が強く関係していた……と語る。ニール・アームストロングが月に行きたかったのは、娘の鎮魂のため、あるいは娘の死を自分で納得したいがため……映画ではそのように描かれる。
 しかし、本当言うと、それが真実であったかどうかはわからない。それは後の人によって「解釈」された物語だ。
(あらゆる歴史物語は、後の人の解釈だから、事実は別として本当かどうかはわからない)
 事実であるのは、2歳の娘を亡くし、その数ヶ月後にアポロ計画に立候補したこと。そして1968年月面着陸を成功させたこと。他にも、映画は歴史事実に基づいて、その時の様子を丁寧に再現して描かれている。ドキュメンタリー的な撮影法で、本当にその時の事件を目撃したかのような気分にすらなる(特に月面着陸シーンは、台詞まで当時の記録を一語も間違えず再現している)。それくらいの生々しさが表現された映画だ。
(ただし、最後のシーンで月に娘の名前が書かれた数珠のようなものを残して行ったのは、本当かどうかわからない)

 ただ、ニール・アームストロングの精神的経緯については「か、どうかはわからない」。そうであったかもしれないし、なかったかもしれない。なにしろアームストロングは公私ともに無口な人間で、娘についてを映画ほど雄弁に語った……という記録はどうやらないらしい。だからこの部分については飽くまでも後の人による「解釈」だ。
 すると、問題になるのは、ニール・アームストロングはなにを切っ掛けとしてジェミニ計画に立候補したのか? 2歳の娘が死んで半年後、という不思議な時期にだ。ただの冒険心? それともアメリカ国民としての名誉のため? ……それすら、アームストロング自身語っていない。ニール・アームストロングの功績があまりにも素晴らしいので、この問題についてあまり語られなかったが、後になって考えると動機がわからない。
 映画として、あるいは物語として、まず娘の死があり、その娘への鎮魂のために月面到達を目指した。そうするとひと連なりの物語として非常に収まりが良くなる。納得感がある。アポロ計画という伝説的な事件を、1人の人間のドラマとして浮かび上がらせることができる。
 それも「解釈」に過ぎない。解釈に過ぎないが……しかしこのように描くと動機と成果が結びつき、もはやそうとしか思えなくなる。『ファースト・マン』は見た人にそうとしか思わせなくなるほどの説得力を持った作品だった。


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