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映画感想 パラサイト 半地下の家族

 韓国映画『パラサイト 半地下の家族』はもはや世界中の誰もが知る名作映画だ。第92回アカデミー賞では作品賞、監督賞、脚本賞、国際長編映画賞の4部門を受賞。英語圏以外の作品が作品賞を受賞するのは、アカデミー賞の歴史の中でも初めてのこと。第72回カンヌ国際映画祭では最高賞であるパルム・ドール受賞。アカデミー作品賞とカンヌのパルムドールを同時に受賞する作品は1955年の『マーティ』以来の2作目である。
 世界中でありとあらゆる栄誉を勝ち取った名作中の名作――それが本作である。
 監督はポン・ジュノ監督。『グエムル 漢江の怪物』『母なる証明』『スノーピアサー』と作る作品はすべて世界中で大ヒットし、何かしらの賞をもぎ取ってくる。エンタメと社会風刺を高い次元で融合させる作風は、もはや名監督の域である。そんな若き名匠が2019年に制作し、世に問うたのが本作『パラサイト 半地下の家族』。実際に見てみると、恐るべき作品であった。

 『パラサイト 半地下の家族』はどんなお話なのか?

 主人公であるキム一家は全員が失業中。低所得者向け住宅である半地下の狭い家に、一家4人が身を寄せ合って過ごしていた。
 ある日、息子ギウの友人が訪ねてくる。その友人は自身が留学をしている間、とある人の家庭教師を引き継いで欲しい……とのことだった。それが高級住宅街に住んでいる一家の娘、パク・ダヘであった。その友人はダヘが大学に入ったら結婚するつもりでいた。だが大学の友人に任せたら、寝取られてしまうかも知れない。そこでギウなら信用ができる……ということだった。
 ギウは大学受験に失敗しており、自分は家庭教師に相応しくないのではないか……そう考えたが、結局引き受けることになる。
 ギウは丘の上の豪邸に住んでいるパク家を訪ね、間もなく家庭教師として信用を得ることに成功する。
 パク家の奥方であるヨンギョが、幼い息子であるダソンの美術教師を探していることを知ったギウは、「実はいい美術の先生がいるんですよ……」と、妹のギジョンをアメリカ帰りの美術エリート・ジェシカと偽ってオススメする……。

 ここまでが前半20分くらい。
 前半20分ほどでキム一家の極貧生活が掘り下げられ、富裕層であるダヘの家庭教師を切っ掛けに、「キム一家侵略」が描かれていく。
 この後もキム一家の攻勢が続き、パク一家はすっかり騙されて、キム一家に家を半ば占領されてしまったような状態に陥っていく。
 まさに「軒を貸して母屋を取られる」。ここまでの展開は、かなり面白おかしく、ユーモアたっぷりに描かれている。が、この時点でちょっと怖い。純真無垢ゆえに、騙され、財産の一部を知らないうちにかすめ取られていく姿が怖い。そんな怖い光景を笑えるように描いている、ブラックな作風である。

 キム一家がパク一家内に潜入するまでの経緯が、前半50分の間に描かれる。50分の間に、キム一家は金持ち一家への「寄生」を完了させ、達成と満足感を得るのだった……。
 が、大抵の映画は中間地点である50分前後のところで何かしらの転換点が起きるわけだが……この映画でもここを境に、驚天動地のトンデモ事件が起きてしまう。ここからの1時間は、かな~りエグい展開が待ち受けているが……それは見てのお楽しみ。

 さて、貧乏一家であるキム一家について掘り下げていこう。
 舞台となっているのはソウルの一角。薄汚い通りに面した半地下の家庭で過ごしているキム一家。全員が失業中で、スマートフォンのWiFiも隣家から勝手にひろって使っている。この時点で、すでに「他人のモノをかすめ取って暮らしている」姿が描かれている。
 どうしてこんな奇妙な「半地下」が生まれたのだろうか? それには経緯がある。
 韓国では1970年頃、北朝鮮との対立が激化し、ゲリラ部隊がソウルへ潜入しテロ行為を行う事件が相次いだ。そこで韓国政府は建築法を改正し、防空壕や軍事転用可能な半地下住宅を作ることを義務化した。
 北朝鮮テロリストの問題はやがて解消されたのだが、1980年頃、首都の住宅不足が深刻化し、半地下住宅を賃貸として貸し出しても良いという法律が作られる。それ以来、半地下は低所得者や上京してきた若者が住む家として定着していった。
 これが半地下住宅である。
 半地下住宅の住人は、人口の2%ほど、90万人が暮らしているとされている。キム一家はその2%の中に含まれる人達である。

 その立地だが、とある大雨のシーンで、階段をひたすら下へ下へと下りていく様子が描かれている。階段をひたすら下りて、ようやく辿り着くような場所だから、大雨になるとその水がまるごと流れ込んで、家が完全に水没してしまう。
 雨は大雨といえば大雨だけど、実はそこまで大した雨じゃないんだ。日本の台風被害のほうがもっと激しい。しかしキム一家の住宅が完全に水没し、避難しなくてはならなくなる。これがソウルにおける都市問題だ。大雨を逃がす仕組みができていない。あの程度の雨でも都市機能の一部が麻痺し、避難する人々が出てしまうのが、ソウルの実態だ。
 この大雨シーンの始まりのところで、側溝から溢れ出す濁流がクローズアップされるが、要するにキム一家の家はドブってこと。雨で町中の汚水を巻き込んで下へ下へと流れ込んで、その終着点になるところにキム一家の家がある。町中の腐敗や様々な「負」を飲み込んで、その身で浴びているのがキム一家だ。キム一家は低所得者層の負を全て浴びた存在として描かれている。低所得者の「代表」だ。だからこそキム一家の体臭がひどく、その体臭が最後まで抜け落ちることはない。

 この半地下の光景というのは、「実際的な住宅」と同時に「観念的な描写」でもある。「低所得者」の実体をその通りビジュアル化している。
 でもキム一家は「半地下」の住人であるから、まだ世間とコミットしようとすればできる。絶望的な低所得者だが、まだ体の半分くらいは世間と接することができる。本作のように、富裕層であるパク一家とお知り合いになるチャンスがあるのが半地下住人のポジションだ。
 しかしこの映画には、半地下よりもさらに恐ろしい、本当の「地下」の住人というのもいて……。
 この地下住人に会いに行くエピソードがあるのだが、不必要なくらい階段が長い。パニックルームだとしても、あんなに長い階段を作る必要はない。どうしてあれだけの階段を描いたのかというと、キム一家の、「ひたすら階段を下った先にある半地下の家」と対応した作りだからだ。その半地下よりも遙かに下層の住宅……を印象づけるために、やたらと階段が描かれる。ここでも階段の長さで「観念的な描写」を表現している。
 この本当の「地下の住人」になってしまうと、もはや世間ともコミットする余地がなくなる。完全に社会から切り離された、「幽霊」みたいな存在になっていく(「幽霊みたいな存在」……というのは比喩表現ではなく、実際に「幽霊」として描かれる)。
 一方の富裕層の住宅は「坂道の上」にある。整った綺麗な坂道がずーっとあって、その途上にあるのが富裕層パク一家。

 これらの3構図がすべて対応するように描かれている……というところですでにうまい。構造がよくできている。
 しかも映画中に見える風景の大半がセットとして作られたもの……というのが凄まじい。韓国映画の制作力がいかに高いかがよくわかる。日本映画で『パラサイト』のような凄まじいセットにもう何十年も巡り会えていない。セットの作り込みだけでも、韓国が一歩も二歩も先んじていることがわかる。

 韓国には「スプーン階級論」というものがあるそうだ。Wikipediaに書いてあったのでそのまま拾ってこよう。
 イギリスのことわざに「銀のスプーンをくわえて生まれる(born with a silver spoon in one's mouth)」というものがあるが、ここから派生して韓国で広まったスラングである。親の階級によって子供の階級も自動的に決められてしまう。裕福な家庭に生まれたらいい仕事、いい家に住めて、いい結婚ができる。もしも貧しい階級に生まれたら……。
 韓国では「家族主義」の思想が根強く、1人がいい家に仕事につけたら、家族全員が同じ仕事やその派生した職業に就くことができる。韓国ではサムスンやヒュンダイといった大企業が有名だが、そのサムスンやヒュンダイだけで韓国内でのほとんど全ての所得を作り出している。サムスンに就職できなければ、あとは底辺確定……それくらい極端な世界だ。しかもそういったサムスンやヒュンダイに就職できるのは、すでにそこに就職している人の家族……ということになる。
 韓国でも一生懸命勉強して大学に入れば、チャンスはある。だが能力があったとしても、最終的に「運」がなければどうにもならない。もしも家族の誰かがあらかじめサムスンやヒュンダイだったら確率は相当に上がるが……。
 日本も似たようなところがあって、一部の大企業はバブル崩壊以降、縁故採用が進んでしまい、今や新人どころか中堅社員までポンコツだらけ……なんて話も聞いたこともある(あの有名企業がなんとなくパッとしなくなったのはこれが原因……どことは言わない)。その日本での状況をひたすら極端に、ひどくしたのが韓国だ。韓国は「家柄」で将来が決まってしまう社会。日本でも最近は「親ガチャ」といった言葉が話題になっているが、韓国は数十年の後日本の姿かもしれない。
 日本のテレビメディアは韓国には大甘で、韓国の明るい面ばかり映し出すが、この映画で描かれている方が韓国のリアルな実態を描いている。

 低所得で半地下住人であるキム一家は、能力が低いから底辺であるのだろうか?
 しかしそういうわけではない。息子のギウは大学に入れなかった「学歴底辺」だが、しかし家庭教師としての確かな実力を見せているし、非常に機転が利く。
 娘ギジョンも美大を目指していたが入れなかった「学歴底辺」だが、文章偽造をさらっとやってみせるし、やはり美術教師としての実力を見せている。
 父ギテク、母ギウも同じく。みんな一様に高いポテンシャルを有している。富裕層一家パクは、キム一家のウソをとうとう見抜けたなかったほどだ。というか、このパク一家が本当に豪邸に住むだけの高い能力を有しているのかどうか、疑わしい。まずキム一家のウソを見抜けなかった……というところで怪しい。
 それに富裕層一家といえど最上辺ではなく、アメリカに対する猛烈なコンプレックスがある。ギジョンを「アメリカ帰り」というだけで信頼してしまうし、「アメリカ製だから大丈夫」という信仰。富裕層といえど、最上辺というわけではなく、さらに上の存在として「アメリカ」がいる。韓国社会が抱えるアメリカに対するコンプレックスも描いている。
(日本人のアメリカコンプレックスもなかなかすごいけど……)
 ということは、「底辺=低能力」というわけではない。能力があっても、親の階級によっては大学に入れなければ就職もできない。この韓国の問題を、映画はまざまざと描いている。

 一方で掘り下げられるのは、韓国富裕層の無関心。富裕層のパクによる、貧困層に向けた差別的な意識。貧困の問題がそこにあったとしても、「救う」のではなく「差別する」という意識。
 日本ではメンタリストのDAIGOによる、貧困層に向けた差別的な発言が問題になった。DAIGOといえば、相当に頭がよく、理性的な人間であるはずなのに、どうしてあんな発言をしたのか?
 ここに私が提唱する「認知能力の問題」が出てくる。人間の認知能力は、人間自身が思っているほど高くない。1人の人間が同時に認識可能な人間の数は150人が限界という説があり、これは「ダンバー数」と呼ばれる。ここから進んで、1人の人間が認知可能なコミュニティの数も少ないのではないか……というのが私の考え。
 その例として、大企業は下請け企業の実態を知らないし関心もない。自分ところの商品を作っているはずなのに、なぜ無関心? 1人の人間の認知可能なコミュニティの数は決まっているので、大企業のトップになると、見えるのは自分を取り囲む人々と、せいぜい各部門のトップくらいなもの。下請け企業となると、もはや認知外なので、そこでどういった問題が起きていたとしても知らないし、知ったところで関心も持てない。関心が持てない対象だから「下請けいじめ」が起きる。
 大企業が下請けいじめに対処する……という時は下からの声に耳を傾けたからではなく、外部(消費者)からの直接の圧が来た時だけである。下からのリアルな声に耳を傾けることがないのが、大企業トップだ。なぜそうなるかというと「認知能力の限界」。

 DAIGOも彼は超富裕層だから、低所得者がどんな生活をしていて、どういう気持ちでいるか、完全に認知外だから知らないし、知ったところで関心も持てない。認知していても、その実態を相当に屈折して捉えることになる。その認知外の人に差別的な意識や発言を向けたとしても、それが「暴力だ」という自覚が持てない。それどころか、「正当な意見」だと勘違いしてしまう。「低所得者はダメ人間だからいくらでも攻撃してもいいんだ……」と。しかもその攻撃を「正義」だと誤認してしまう。DAIGOほど頭のいいと思われている人間でも、「認識可能な限界」を越えてしまうと、こうもいい加減な考え方になる。頭の良い悪いに関係なく、「認知能力の限界」はあるのだ。
 中途半端な中流階級の人々が好んで使う言葉といえば「自己責任」。「自己責任」という言葉の内面は、「自分は関係ないよ」「バカなやつが勝手に失敗したことだから、自分たちは知らない」……というエゴスティックな切り捨ての意思の表明である。こういう発言ができるのは、相手が「認知外」の対象だから。そこに「外部要因があるかも……」なんて考えない。

 映画の話に戻すと、韓国富裕層も認知外になっている貧困層なんてどうでもいいし、それどころか「目障り」とすら考えている。「奴らが低所得なのは社会のせいではなく“自己責任”であるのだ……」とこう考える(日本で親ガチャに大成功して生まれた人も同じように考える)。
 パク一家は、ずっと運転手として働いてくれている人に対しても、遠慮なく差別的な目線を向け、切り捨ててしまっている。主人公であるキム・ギテクは「あのクビになった運転手はどうなっただろうか……」と考えている瞬間がある。一瞬でも考えられるのは、同じ底辺としての目線があるから。その考えも、家族からの意見があって、さっと忘れてしまう。あの運転手の存在は「認知外」にされてしまったのだ。
 映画では富裕層と貧困層を分けるものとして、「臭い」を挙げている。貧困層キム一家が「富裕層の仲間」を演じていても、隠しきれないもの……それが臭い。半地下生活で都市の不浄を毎日浴び続けて、キム一家に染みついている臭い。この臭いに対して、パク一家はあけすけな差別的な視線を向けてくる。キム・ギテクは最終的に、その臭い、差別を向けてくる富裕層への怒りを爆発させる。

 映画のあるシーンで、あの豪邸でとある「問題」が起きた時、富裕層たちは起きている問題に対処しようとせず、ただただ悲鳴を上げて逃げていく。富裕層たちの解決能力の低さ、無責任さ。結局、その問題に立ち向かって戦ったのは、低所得者一家であるキムだけ。
 富裕層は身なりや住まいは豪奢だけど、能力はさほど高くもない。さほど能力も高くないくせに、自分たちが優れた人間だと思い込んで、低所得者に差別的な目線を向けている。
 どれも日本でも似たような実態はあるものの、それをひたすら濃縮して汚水にさらしたものが韓国社会だ。どこか日本の負の側面を、お隣の国で見ているような気がする……。

 そんな富裕層にしがみついて、「おこぼれ」にあずからなければ生きていけない底辺層の実体。キム一家がそうだし、さらに地下世界の住人もそうだ。一部の人達が所得を独占し、その一部の人達に多くの貧困層がぶらさがっている。その構造自体が、映画の中で鮮やかに整理されて示されている。
 韓国社会のエグい階級問題をこれでもかと濃密に描きこんだ『パラサイト 半地下の家族』。原題をそのまま表現すると『寄生虫』。この一作で韓国がどんな国でどんな問題を抱えているのか、一発でわかってしまう。韓国は寄生虫だらけ。その寄生虫に少しでも信頼して、軒下を貸すと何もかも絞られてしまう(そもそもダヘが寝取られないように、信頼できるギウに家庭教師の依頼が来た……という話だったのに、しっかり寝取ってしまっている。友人ものであろうが、隙あらばかすめ取ってしまう韓国人の怖さ!)。そんな恐ろしさを描いている。
 まさに韓国という国そのもののような映画。しかし格差社会や「親ガチャ」問題は現代日本のリアルでもある。韓国の今は、明日の日本かも知れない。観るべき作品であった。


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