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映画感想 メアリーの総て

 世界で最も知られている怪奇小説『フランケンシュタイン あるいは現代のプロメテウス』を書いたのは、18歳の女性だった……。
 というのは、私もこの映画を観て初めて知った。へーそうだったのか、と見て感心する映画だった。

 メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン・シェリー。1797年生まれ、1851年没。肖像画は43歳頃。40代に入った頃の肖像だが、なかなかに美人だったことがわかる。
 母親はフェミニズムの創始者、メアリ・ウルストンクラフト。母親はメアリーのお産の時に死去してしまったので、会ったことはないのだが、フェミニズム的な思想は受け継ぎ、男尊女卑の時代とも戦ったし、その時代の最先端の思想を受け入れて創作に臨んでいた。

 本作の監督はハイファ・アル・マンスール。サウジアラビア出身の監督で、サウジアラビアとしては初めての女性監督となる。そのハイファ・アル・マンスール監督の第2作目が本作『メアリーの総て』だ。サウジアラビアの監督が、イギリスの近世を描く……というのは不思議な感じがするが、「現在進行形の男尊女卑社会」で育った女性が、「かつての男尊女卑社会」を描くという構図になっている。ある意味で人選としては正しいと言える。
 作品の評価だが、映画批評集積サイトRotten Tomatoesでは支持率40%……とちょっと微妙な数字になっている。あまり評価が伸びなかった理由は、もしかしたら現代人ではあまり共感しがたい心理を描いているからかもしれない……。というのも、あらかじめ書いておくが、出てくる男がことごとくクズ。これが現代の感覚で見ると「うわぁ…なんだコイツ」みたいに思ってしまう。しかしこれが19世紀時代のイギリスにおける男尊女卑社会の実態で、この中でいかに女性が自意識を獲得しなければならなかったのか。女性という立場からの“戦い”がテーマになっているので、男達がことごとくクズとして描かれる。そこでだいぶ共感しづらいお話になっている。この辺りは後々触れていこう。

 では前半のあらすじを見てみよう。


 16歳のメアリーは父の経営する本屋で店番をやっていた。だが時々、退屈してこっそり抜け出しては墓地に行って、怪奇小説を読んでいるのだった。
 そんなメアリーだが、継母とは折り合いが悪く、頻繁に対立する。そこで父はメアリーをスコットランドの友人のところへ預ける。
 スコットランドの田舎で快適な日々を過ごすメアリーは、ある日の読書会でパーシー・シェリーという青年と出会う。メアリーとパーシーは出会った瞬間にお互いに惹かれるものを感じるのだが……。
 間もなくメアリーのもとに手紙が届く。妹のクレアが病気だという。
 急いでロンドンの実家に戻るのだが、クレアが病気というのは嘘。単に、「メアリーに会いたかった」というだけだった。
 また本屋での日々に戻るメアリー。そこに、父の教えを受けたいという若者がやって来た。やってきたのは――パーシーだった。パーシーはメアリーに会うために、追ってきたのだった。
 メアリーとパーシーは関係を深めていくのだが、ある日、通りでハリエットと名乗る女に声をかけられる。
「私はハリエット。パーシーの妻です。この子はアイアンシー。夫に近付かないで」
 なんとパーシーは結婚をしていて子供もいて、離婚をしていないのだった……。


 ここまでが30分ほどの内容。

 時代背景を見てみよう。1813年頃、ということはイギリスは産業革命のまっただ中。ロンドンは大気汚染で常に薄暗くくぐもっていた。ロンドンの風景がやたらと薄暗く描かれているのは、大気汚染のためだ。
 産業革命というのは「職人の時代」から、「工場の時代」への移り変わろうとしている時代だった。「職人の時代」というのは、一部の技能に長けた人だけが仕事を得られる時代だったが、産業革命によってあらゆる人が、スキルを身につける苦労をせずに平等に仕事を得ることができて、平等に賃金を得られるようになった。産業革命によって人々が平等に豊かになれる……と思いきや、人々が向き合わなくてはならなかったのは単純労働に過酷労働(あと低賃金労働)。当時の機械というのは蒸気機関だからいったん動かしたらすぐには止められず、止めちゃったら次に動かすのに何時間がかかる……というもの。その機械に人間が合わせなくてはならないから、仕事が始まったら休憩なしで働き続けなければならなかった。
 人々を豊かにするはずの産業革命がこんなはずでは……というのがこの時代。
 生活観が大きく変わるなら、人々の思想も大きく変わろうとしている。メアリーの母であるメアリ・ウルストンクラフトはフェミニズム思想の創始者であった。女性は男性に隷属する立場から、独力で仕事も思想も主張してもいいのではないか……という意識が芽生えようとしている時代だった。メアリーの母親の思想が、後々メアリーの行く末にも影響してくるのだが、それはもう少し後の話。
 もう一つの思想の変化は「神と人間」という関係性の変化。産業革命時代以前のヨーロッパは、「聖書に書いてあることが全てであって、そこに書かれていないことは知らなくてもいい」という世界観だった。近世イギリスはそのカウンターの時代。神なんかいないのではないか、神なんか必要ないのではないか。いつまでも神様に縛られてはいけない……「人間主義」や「人間革命」の思想がいよいよ生まれようとしていた。

 そんな時代背景の最中、16歳という青春期を過ごすメアリー。冒頭の場面を見ると、母親の墓石にもたれかかって怪奇小説を読んでいる……というなかなか尖った趣味を持った女の子として描かれている。
 18世紀後半頃から「ロマン主義小説」の流行というものがあった。神秘的なもの、不可解なものへの憧れや称賛……。それよりもうちょっと前では「魔術」や「迷信」と呼ばれ、恐れられていた思想(魔女狩りの時代だった)なのだけど、18世紀頃になると魔術や迷信は「神秘的で格好いいもの」として称揚されるようになっていた。こうしたものが人間の内面を炙り出す、「人間賛歌」的な文脈として再評価されていったのだ。  そうした思想から分化する形で、「怪奇小説」が世に出始める。1764年『オトラント城奇譚』によって「ゴシックホラー小説」のジャンルが生まれる。超自然的な現象や不可解な現象で、人間の恐怖心を炙り出し、また読み手にエンタメ的な恐怖感を提供する。こうした怪奇小説が流行り始める。
 そんな怪奇小説の書き手も読み手も多くは女性だった……という。ホラー好きは意外と女性に多い、というのは今も昔も、というわけだ。
 メアリーも本屋の娘として生まれて、この時代の流行に当てられて怪奇小説に夢中になっていたのだった。

 メアリーは怪奇小説に夢中になり、自分もいつかは作家に……という夢を抱く少女だった。だが、アナーキストとして知られる思想家の父に、
「お前の文章は他人の物真似だ。他人の思想や言葉を振り払え。自分の声を探せ」
 とバッサリ切り捨てられる。
 「自分の声を探せ」……というのは『ライ麦畑の反逆児』の映画感想でも書いたように、「自分独自の語り口を開拓せよ」という意味。やはり駆け出しの頃、というのは誰かの影響を受けて、誰かの真似事をしてしまうものだ。しかしそういうのは他人から見たら、ただの「類似作品」でしかない。だからまず「作風を獲得せよ」。これが作家になる第一に必要なこと。メアリーはまだその第一歩を見つけ出せていない、と父親に指摘されるのだった。

 この父親だが、どうやら「3人婚」をしたようだ。3人婚というのは言葉の通り、2人の異性と結婚すること。一夫多妻制と見なされそうだが、そうではなく2人の妻と結婚すること。当時のイギリスでも認められていたかどうかはよくわからないが……。メアリーは継母と仲が悪い……と書いたが、実は“後妻”ではなく、3人婚で結婚したもう一人のほう。
 それで、メアリーの妹・クレアだが実は血の繋がりはない。クレアは“もう一人の妻”のほうの娘。異母姉妹ということになるが、しかし関係性は深く、後に駆け落ちする場面でもついて来てしまう。
 メアリーの父はアナーキスト思想を語っていた人なので、そういう人らしいところかも知れない。

 スコットランドの暮らしで好きな男性を見付け、順風に思えたメアリーだったが、しかし前半パートラストでとんでもない事実が発覚する。実はパーシー・シェリーは妻も子供もいて、しかもまだ離婚をしていない。そんな状態でメアリーを口説こうとしていたのだった……。これ、実話だよ。
 パーシーは「神からの自由」「人間は何者にも束縛されない」と新時代の人間観を語るのだが、それは裏を返せば「無責任」……。パーシーはイケメンで聡明で情熱的で、16歳のメアリーからは魅力的な男性に見えていたのだが、次第に“メッキ”が剥がれていくのだった。

 では中盤までの物語を見ていこう。


 パーシーは5年前に結婚していて、子供もいた! しかしそれでもパーシーはメアリーを口説き続ける。詩人ならではの情熱的で甘い言葉を聞かされているうちに、メアリーは次第に気持ちがほだされていき、パーシーと相思相愛の関係になっていく。
 結婚はしなくてもいい。パーシーと一緒にいたい。……メアリーはその想いを父親に告げるのだった。すると父親は激怒してパーシーを「二度と家に来るな!」と追い出す。
 しかしメアリーはその夜のうちに家を出て、パーシーとともに駆け落ち。それに妹のクレアも一緒についてくるのだった。
 辿り着いたのはボロ屋敷。ボロ屋敷でメアリーもパーシーも執筆にいそしむが、書いたものはなかなか出版できない。原稿を出版社に持ち込んでも突き返される日々だった。それにパーシーは父親から勘当を下されていた。結婚して妻も子もいる身なのに、別の女とまた駆け落ちしてしまった。それが「家名に泥を塗った」からだという。
 だがある日、パーシーはドレスを買って帰宅する。「明日からブルームスベリーの新居に引っ越しだ!」
 翌日、新居に行くとなんと豪邸。しかも召使いまでいる。
 とうとうパーシーの本が出版されたのか。メアリーもクレアも喜ぶのだった。
 それから間もなくして、メアリーは妊娠。幸せの絶頂にいる最中、パーシーの友人であるトマス・ホッグが初めて本を出版することになったからパーティーを開きたい、という。
 パーティはささやかに終わったのだがその翌日、メアリーが家で一人きりの時にトマス・ホッグが訪ねてきた。トマス・ホッグはメアリーを口説き、強引に関係を迫ろうとする。メアリーはそれを拒絶し、トマス・ホッグを家から追い出す。
 パーシーが帰ってきた時に、「トマス・ホッグに関係を迫られた」と報告すると、パーシーの答えは「彼が好きなら付き合えよ。それが僕らの信条だろ」だった。


 ここまでで50分。

 さて、イケメンに思えたパーシーの本性がいよいよ見えてきた。
 妻も子供もいて、まだ離婚していないけれど、君が好きだから一緒にいたい!
 まあ、「ふざけんな」って話だよね。この作品の共感しづらいポイントはここ。パーシーがどう見てもクズにしか見えないし、実際にクズってこと。しかもそんなパーシーに、メアリーは口説かれてしまう。ここも共感しづらいところ。客観的に見ると「愚かな女」に見えてしまう。
 しかし、そこはパーシーが「詩人」だから。こういう時の口説きはやたらと上手い。ついその気にさせてしまう。詩人は自分で自分の言葉に幻惑されちゃう生き物だから、二人して「その気」になってしまう。
 そんなメアリーに対して、父親は、
「彼女(母親)の核にあった情熱が彼女を引き裂いた。激情に溺れるな。君もバカな夢を見るな」
 と諭そうとする。すでに死去して作中に登場しない「母親」の存在が、じわじわと浮かび上がってくる。

 何者にも束縛されない。型にはまらない。自由な生き方をするんだ!
 ……という話は魅力的に見える。しかし「自由」には責任が伴う。自由に振る舞えば振る舞うほど、責任は重くなっていく。パーシーにはその自覚がないし、自分が追うべき責任からひたすら逃げて、目の前にぶら下げられた欲望だけを追いかけている人間だ。
 パーシーが実は妻子持ちだった……ということが明らかにされた後の夕食の席で、父親は「私もそう思っていた」と言う。メアリーの父は、名の知れたアナーキストだ。彼も若いある時期までは「型に嵌められた生き方は人間本来の生き方じゃないんだ!」……とか思っていたんだろう。でも「そう思っていた」と語っているということは、今はそう思っていない、ということ。自由に振る舞えばそのぶん責任が伴う、ということに行き着いたから出た言葉だろう。
(責任を背負うのが嫌なら、平凡に生きたほうがいいです。「自由な生き方をするんだ!」というのは格好よく聞こえるけどね。自由であろうとすればするほど、責任は重くなっていく。責任から逃れ続けると、いつかその大きな負債を支払わなくてはならない日がやってくる。大変だよ、自由な生き方は……)
 メアリーがパーシーと一緒になりたい、と言った時、父は「自分の行動に責任が取れるのか?」と尋ねる。結婚して、子供もいるのに、離婚もしていない、自分の行動に責任を持てない男に娘をやれるか……と尋ねるとどんな父親でも「NO」と答えるはず。まず自由に振る舞ったこと一つ一つに対して責任を取れ……とそう尋ねている。

 しかしメアリーは結局のところ、パーシーと駆け落ちしてしまう。この駆け落ちにはクレアもついてきてしまう。その前の場面で「今度家を出る時は一緒よ」というやり取りがあるのだけど、まさか駆け落ちに同行してしまうなんて……。
 でもこれ、実話なんだ。クレアは本当にメアリーの駆け落ちに同行したのだった。

 なんやかんやあって、豪邸暮らしになったメアリーたち。そこにトマス・ホッグがやってきて、メアリーとの関係を迫ってくる。友人の恋人だし、しかも妊婦なのに……とんでもない男だ。この作品に出てくる男は、ことごとくクズなのだ。(彼らの理想である、「自由」に振る舞った結果……ともいえるが)
 メアリーはパーシーが帰ってくると、すぐに「襲われそうになった」ことを報告する。メアリーは同情してほしかったのだ。しかしパーシーは不思議そうに「なぜ付き合わなかったんだ?」と尋ねる。メアリーとパーシーが共有している思想は「自由」であること。当然恋愛も自由でなければならない。実際に作中、何度か「恋愛は自由であるべきだ」と語っている。恋人がいるからとか関係ない。自由であるならば、トマス・ホッグを受け入れろよ。それができないのなら、お前の「自由主義」は口先だけじゃないか。論理破綻だ! ……と、パーシーはメアリーを糾弾し始める。
 私はだんだんこの男を殴りたくなってきた。殴ったらアカデミー賞会員から追放されるんだっけ? どうでもいいけど。
 パーシーは典型的な「頭」だけの男。頭で考えた理屈で、すべて通ると思っている。現実問題や感情問題といったものを考慮できない。脳内でシュミレーションできるんだったら、そのようにできるはずだろ……と考えてしまっている男。頭でっかちな若者によくあるパターンだ。だからメアリーが「男に襲われた怖かった」という感情を読み取れない。そういう感情より先に「論理」がある。
 メアリーはパーシーが同情して慰めてくれるんだと思っていたら、「論理破綻だ」と糾弾してくる。ここでメアリーとパーシーは決定的な心情的な亀裂が生まれるのだった。
(どうしてメアリーはパーシーと別れなかったのか? そこには芯の強い「純愛」があったからだ……と映画は説明する。それもあったかもしれないが、この時代、女が作家として生きていこうと思った時、男性の金銭的、精神的支えは必要だった。これは近世ヨーロッパだけの話ではなく、現代でも女性が何かしらアーティストとして生きていこうと思ったら、まず“手段として”結婚しておこう、ということになる)

 メアリーは間もなく出産を迎えるのだが、こんな時になってパーシーが急にお金を得た理由が明らかになる。父の屋敷を担保に入れて、それでお金を手に入れたのだ、という。つまりパーシーの父親は死去し、パーシーはその父の死を喜び、屋敷を抵当に入れてお金を得たのだ。本はまだ出せてもいない。つまり収入ゼロの状態で、召使い付き豪邸で贅沢暮らしをしていた……というわけだった。
 パーシーはまたしても自分の責任から逃げてきたのだった。
 間もなくお金も底を尽き、取り立てがやってくる。メアリー達は着るものだけ手に取って夜逃げをするのだった。その時、無理をしたため、生まれたばかりの子供は死亡。わずか11日だった。
(自由に振る舞えば、そのぶん負債は大きくなる……気を付けよう)

 またしてもボロ屋敷暮らしに戻ったメアリーたち。そこで妹がバイロン卿と知り合いになり、親しい関係になってスイスの屋敷に招待された、という。ボロ屋敷しか住む場所もない、食べるものにも事欠く暮らしだったので、メアリー達はバイロン卿の屋敷にしばし逗留するのだった。
 この場面が後に『ディオダティ荘の怪奇談義』と呼ばれる、文学史における重要なシーンである。映画もそろそろ後半に入るところだが、この場面の解説もしておこう。

 この頃、メアリーたちは半ば放浪のような生活を送っていた。映画では登場しないが、この時のメアリーは次の赤ちゃん、生後3ヶ月の子供を抱えていたという。執筆どころか生活もままならない状況に陥っていたメアリー達は、バイロン卿を頼って、スイスのレマン湖半の別荘、ディオダティ荘に転がり込む。1816年5月14日のことだった。

 バイロン卿はパーシーと劣らずスキャンダルまみれの男だった。まず異母姉オーガスタとの近親相姦で娘を出産。同性愛疑惑もある。バイロン卿登場時、いきなりパーシーとキスをするのは、同性愛を示唆している。そのうえに、メアリーの妹であるクレアを妊娠させている。それでも当時売れっ子作家だったので、豪邸暮らしだった。
 ちょうどその頃、インドネシアのタンボラ火山が噴火、その火山灰で北半球が寒冷化していた。ディオダティ荘に到着した後、メアリー達は数日にわたる長雨で閉じ込められてしまったのはこのためである。
 この雨の時、バイロン卿の提案で、「1人ずつ怪談を書いて発表するのはどうだ?」ということになる。これが切っ掛けとなって、メアリーは『フランケンシュタイン』を、その時同席していた医者のジョン・ポリドリは『吸血鬼』を執筆することになる。

 この映画は、18歳のメアリーがなぜ『フランケンシュタイン』という作品を執筆することになったのか、その心的経緯を描いている。
 まず第1に、母親と死別していること。映画の前半に降霊会の話がちらっと出てくるが、メアリーは最初から「死別した人と再会したい」という願望を抱いていた。
 第2にその母親がフェミニズム思想の創始者だったこと。
 第3に「無神論思想」が始まりかけていたこと。『フランケンシュタイン』は人間が人造人間を作るお話である。実は中世時代、錬金術で「ホムンクルス」なる人造人間を製造する試みが流行っていて、(成功例はなかったが)それは「神に反する行為」であるから忌まわしい「黒魔術」とされていた。人間が人造人間を作ることは、キリスト教世界においては「宗教的タブー」であったが、そのタブーを乗り越える切っ掛けがあったこと。
 第4に赤ちゃんを出産し、すぐに死別してしまったこと。母親と死別したことと同じく、死者との再会を強く願うようになる。
 第5に、科学技術によって生命を作り出せるんじゃないか……という考えがこの時代から生まれ始めていたこと。映画中でも、死んだカエルの四肢に電気を通し、ピクピクと動かしてみせるシーンがあった。生命とは「魂」による産物ではなく、電気的な反応なのではないか。するとやはりそこに神は介在していないのではないか。ディオダティ荘には医者のジョン・ポリドリもいて、「ガルヴァーニ電気」についてかなり深く議論していたという話もある。「ガルヴァーニ電気」とはさっき説明した、カエルの四肢に電気を流したら、生きているように動いた……というアレである。あれを応用したら、死んだ人間も生き返らせることができるんじゃないか。母と死別し、出産したばかりの子供とも死別しているメアリーは、「科学の力で死んだ人間の生命を取り戻せるかも知れない」という考えにのめり込む。
 第6に、パーシーとの不和。それから妹クレアがバイロン卿の子供を身ごもるけれども、「君は遊びだ」とあっけなく放り出されてしまう。ここから、『フランケンシュタイン』の、「主からの愛情を求めるけれども、醜いために拒絶される哀れな人造人間」の物語の骨格が生まれてくる。
 愛すべき妹への同情。その妹がたびたび悪夢でうなされていたこと。後半に登場してくるインキュバスの絵画がなどが物語の伏流になっている。

 死んだ人間の魂を、科学の力によって取り戻せるかも知れない……メアリーの脳裏には、死んだ母と赤ちゃんの姿が浮かぶ。しかし本来、希望的であるはずの諸要素は、周りにいるあまりにくクズすぎる男達によって、忌まわしきストーリーに変換されていってしまう。メアリーは『フランケンシュタイン』を執筆した時はまだ18歳。まだ若いのに、ありとあらゆる絶望を経験し、その絶望が1本の怪奇小説の中に注がれていく。
 傑作を生み出すのに必要なものは絶望だ。

 しかしメアリーは間違いなく傑作を描いたのに、出版社は「女の書いたものは……」と受け入れてくれない。夫のパーシーが書いたことにしろ、という無茶な要求をしてくる。
 メアリーは折れない。「書いたのは私だ」「私の作品だ」――自分の名前で出版してくれるところを探して、出版社を巡り歩く。これには意地がかかっている。創作物というのは「私が私である」ということの主張である。私という人間としてのアイデンティティがそこに関わってくる。だからこそ、メアリーはそこは譲れない。「この小説を書いたのは私だ!」と認めてくれるところが出てくるまで、巡り歩き続ける。

 ジョン・ポリドリも苦労する。ジョン・ポリドリは『吸血鬼』を執筆するが、その作品は「バイロン卿作」として出版されてしまう。誰もジョン・ポリドリという無名作家の作品なんて興味がなかった。出版社はバイロン卿の作品……ということにしてしまうのだった。

 さて、クズ男パーシー・シェリーは後半に入り、ようやく「審判」が下る。自由を求めて無責任生活を送り続けていた男は、「取り返しのつかない事態」に直面して、ようやく責任を自覚し始める。最後の最後に来て、やっと「反省」をしはじめるのだった。
(自由な生き方を続けると、やがて大きい負債を支払わなくてはならない日がやってくる……。自由に対して1つ1つ責任をきっちり取り続けなければならない)

 映画の感想文はここまで。
 主演のエル・ファニングがとにかくも美しい。ドレスは生地が安っぽいのだが、これは時代考証の産物なのだろう。安っぽい生地のドレスだが、エル・ファニングが着るとどれも美しく映える。
 どのシーンも作り込みがしっかりしている。屋敷の風景はどれもいい。19世紀初頭の、産業革命時代に入ったが陰気な空気が出ている。
 その一方で、引っ掛かるのは、似たようなカットがあまりにも多かったこと。シーンごとの特色があまり出ていない。ずっと同じような絵面が続く映像に引っ掛かりを憶えた。
 作品の批評とは違うが、とにかくも共感しづらいものをモチーフに選んでしまっていること。メアリー・シェリーの青春時代を描くとこうならざるを得ないのはわかる。この時代の男尊女卑の感覚、男達のクズっぷり。それを養分にして、傑作を書き上げたメアリー。そういうお話なのはわかるが、お話の経緯、つまりメアリーがなぜ『フランケンシュタイン』を描くに至ったか、その心的経緯の物語が伝わりづらいこと、クライマックスを見ても感動しづらい物語であること。絶望にひたすら向き合った女の子のお話……だからこういう描き方になるのは仕方ないことなのだけれど……。情緒を求める観客からは、「感動できない」という不満が出るのは仕方がない。

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