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映画感想 ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー

 サリンジャーがこの世を去ったのは2010年1月27日。享年91歳だった。
 代表作である『ライ麦畑でつかまえて』は1951年に出版され、それから間もなくサリンジャー自身姿を消したので、私はもうとっくに「過去の人」だと思い込んでいた。だから2010年、新聞で「サリンジャー死去」のニュースを見た時は、不思議な気分だった。あの世界的名作を書いた人が、まだ在命だったのか? 過去の人ではなく、つい最近までこの世にいたということが、なんとなく不思議だった。

 そのサリンジャーの若者時代、『ライ麦畑でつかまえて』を描いた頃はどんなだったのか――それを描いたのが本作『ライ麦畑の反逆児』だ。制作は2017年。ケネス・スラウェンスキーが2012年に上梓した評伝『サリンジャー 生涯91年の真実』をベースにした作品である。
 監督はダニー・ストロング。俳優で『バフィー・ザ・ヴァンパイア・スレイヤー』に出演したことで知られる。俳優としてのキャリアの傍ら、脚本を執筆し、本作でついに監督デビューとなる。
 本作『ライ麦畑の反逆児』の評価は、日本での評価は高い。Yahoo!映画での評価は3.6。Amazonでの評価は星4.5。しかし本国アメリカでの評価は低く、Rotten Tomatoesでの批評家支持率は28%。平均点は10点満点中5.2。サリンジャーの古里ではこの映画はあまり評価されていない。サリンジャーを生んだ国だからこその思い入れがあちらにはあるのかもしれない。

映画前半20分のストーリー

 映画前半のあらすじを見てみよう。

 1939年。サリンジャー20歳の頃だ。サリンジャーは友人とダンスホールに入り浸っていた。サリンジャーはそこで美しい娘と会う。ウーナ・オニール。父親が劇作家をしていて、自身も小説を好んでいるらしい。
 小説なら自分も書いている……。サリンジャーはウーナに話しかけるが、しかしろくに相手にされなかったのだった。

 その夜、サリンジャーは自室にこもって小説を執筆する。
 母親に読んでもらうと、気に入ってくれた。若者の対話が生き生きしている。「あなたには才能があるわ」。
 しかし父親はサリンジャーの才能を認めてくれなかった。サリンジャー家は肉とチーズの輸入で財産を築き、“ベーコン王”と呼ばれるほどに成功した。「家業を継ぐんだ。作家になるより、そちらのほうが確実な道だ」。
 父親の説得には母親も協力してくれて、大学への復学が許される。

 サリンジャーはコロンビア大学のウィット・バーネット(実際はホイット・バーネット)が開催する創作講座に参加する。サリンジャーはもともとこの学部の授業を選んでおらず、どうやら“もぐり”だったようだ。
 サリンジャーはこの授業を通して、1つの作品を執筆する。『若者たち』だ。サリンジャーは「ストーリー誌」の編集長でもあるバーネットに作品を売り込むが、拒否される。それならと「ニューヨーカー誌」に売り込みに行くが不採用。
 それからもサリンジャーは何本も作品を書き続けるが、不採用の日々が続く。
 自分には才能はないのかもしれない……。
 諦めかけたところに、家族と一緒に旅行へ行くことに。その旅行先で、サリンジャーは急な創作意欲に恵まれ、ホテルの中で一気に作品を書き下ろす。
 バーネットに作品を見せたところ、サリンジャーが最初に書いた作品がストーリー誌に掲載される。
「気に入ってたが、君が本物の作家か見極めていた」
 サリンジャーは初めての作家としての報酬25ドルを手に入れるのだった……。

 ここまでが23分。

 冒頭のシーンから見てみよう。サリンジャーはダンスクラブに入り浸って、友人とダラダラした時間を過ごしている。もう20歳になる若者で、なのに働かず、モラトリアム期を過ごしていた。
 家はベーコン販売で大成功して、豪邸に住んでいる。しかし家庭での空気は沈殿している。対話がない。裕福な暮らしをしているけれど、そこに活気を見出すものがない。
 部屋にこもるサリンジャーは、マッチの火を点けては消し、点けては消し……を繰り返す。これはサリンジャーの内面的な火を現している。ダンスクラブに通っているけれど、それすらただの暇つぶしでしかなく、なんとなく違和感を抱えている(台詞に「ここはゲイとインチキばかり」……とある。ダンスクラブの空気に馴染んでいる……というわけではない)。内面的な“火”を発露させたい……。けれど吐き出す場所がない。その鬱屈さが、“物語を書く”ということに向かっていた。
 しかしそれすらまだ本気ではなく、サリンジャーが熱を入れだしたのは、ダンスクラブでウーナという女性と会ってから。ウーナの関心を惹きたくて、小説を書く……という動機が描かれている。

 父親はサリンジャーの作家になりたいという希望に反対する。昔からよくある、「芸能」を極めたいと思う若者と、「社会の一員になれ」という父親の対立だ。
 映画の後半になってわかることだが、父親も実は芸能で生きていきたいと思っていた時期があった。だから息子が「作家になりたい」という話をしたとき、頭ごなしに怒鳴りつける……ということはしない。丁寧に、「家業を継いだ方が楽だ」と諭そうとする。
 この「芸能」の道と、「社会」の道に関する話は後でまた取り上げよう。

「心の声」を物語にせよ……とは?

 サリンジャーはその以前から大学に入ってはやめて……という感じだったが、創作を学ぶためにまた大学に行くことになる。このあたり、親が裕福だからできた話だね。普通の家庭だったらアウトだわ。
 そこでウィット・バーネットという先生と出会う。実在の先生で、大学で講師をしながら「ストーリー誌」の編集長を務めていた。そんな二足わらじをやっている人が本当にいたというから驚きだ。
 ウィット・バーネットは授業で語る。
「だが彼にはできていないことがある。その如才のない“声”を物語にすることだ。可能性は感じたがね。己の“声”を物語にすることが我々の目標だ」
 この「声」には二通りの意味があると考えられる。
 一つには「語り口」すなわち「作風」。作家にとって大事なことは、まず独自の作風を獲得することである。

 漫画家にとって「いい絵」というのはどういうものであろうか? 上手い絵? そうではない。10メートル離れて見て、誰が描いたか一瞬でわかることだ。(と、荒木飛呂彦先生は語る)
 漫画家にとって、まず絵の巧さよりも「個性」が大事だ。この個性を獲得しない限り、どんなに絵が上手かろうが、漫画家として大成することはない。
 小説だって同じだ。その人独自の作風、語り口が絶対必要で、それはキャリア全体を通じて最大の「武器」となる。逆に言えば、その作風や語り口を持たない作家はプロになれない。
 もう一つの意味は、「作家としての主張」だ。作品の中に、作家の内面や主張が込められているか。人生観が反映されているか。
 創作には、意識的、あるいは無意識的に作家の“自分”がそこに込められる。主人公の姿や内面であったり、自分が過去に体験したこと、実際に言われたこと、そういったものが込められている。
 創作というのは一般の人が思い込んでいる以上に混沌としていて、作家の願望が込められる一方、作家のコントロール不能の“悪夢”も同居する。作者自身が向き合いたくない……と思っているものも創作の中に現れ、むしろそういう“悪夢”を中心にした物語の方が生き生きするものだ。(『進撃の巨人』とかね)

 ただし、バーネット先生はこうとも言う。
「残り時間で物語かマスでもかいてくれ。だがその2つを混同するなよ。区別できていない作家が多いからな」
 作品に自身を込めようとした結果、願望とご都合主義だらけの甘ったるい物語になってしまう。作家が“願望”のほうへ傾くと、そういうものに陥ることもある。そういうのはただのオナニーだ……とバーネット先生は言っている。
(私は言わないよ。「願望」だけで描かれた作品の中に良作も一杯あるから)
 創作はむしろ混沌としていたほうが良い。整った作品、つまり「わかりきった」作品には何もない。作者自身も自分でもなんだかわからないものに向かって、それを引きずり出して作品にしたもののほうがより輝く……そんな意見もある。宮崎駿はそういう映画を「映画になっている」という。あるいは「映画にする価値がある」と語る。わかりきった作品というのは、すでに過去の誰かが整え終えたものに過ぎない。それは「模倣」であって「創作」とは呼ばない。作家はいつでもフロンティアを目指さねばならないのだ。

 バーネット先生はサリンジャーの作品をどう評しているかというと、「声が大きすぎる」と語る。
「作家の声が物語を圧倒してしまうと、作品は単にエゴの表現となる。読者の感情は置き去りだ」
 作家の主張や願望があまりにも大騒ぎをし始めると、物語の構造が崩壊する。作品が輝く瞬間というのは、「崩壊の一歩手前」だ。絶壁の前でつま先立ちをしていると良い。しかしサリンジャーの作品は、崩壊しちゃっている。だから良くない、と先生は語るのだった。
 よくある話だが、政治をやっている人が物語を書くと、登場人物に自分の政治思想を語らせ始めてしまう。キャラクターに自分の政治思想語らせてしまう。これは“作者の声”であって、“登場人物の心情”とは言わない。登場人物の心情に寄り添えていない物語は、物語として破綻している……ということになる。

 サリンジャーとバーネット先生のやりとりは、漫画の世界でもよくある「漫画家」と「編集者」のやりとりだ(小説の世界にも当然ある)。漫画家はまず編集者という最初の読者を納得させなければならない。編集者もベテランになってくると目利きとしての力も付いてくるから、漫画家に対して「指導」としてリテイクを繰り返す。本当はそこまでリテイクさせる必要ないのだけど、指導としてやる……という話は昔からよくある。そういうリテイクに耐えられるか、あるいはそこからさらに磨かれていくか……。それを通して、「こいつはどこまで本気か?」を推し量るのだ。
 最近はそういう「作家と編集者」の間に交わされる切磋琢磨は喪われつつあるようだ。サリンジャーは幸運なことに、大学という場で「作家と編集者」という関係性を築き、学業を通じて指導を受けていく。
 サリンジャーとバーネット先生のやりとりは全編を通じて重要なもので、最初は「先生と生徒」として、その次に「作家と編集者」として指導し指導される関係になり、最後には「友人」の関係になっていく。作家と編集者の関係性の美しい姿を描いているところが素晴らしい。

映画25分から40分のストーリー

 では次の25分を見てみよう。

 サリンジャーはストーリー誌に作品を載せたことによって、名実ともに「作家」になり、ウーナと恋仲となる。
 サリンジャーは作家になり、念願だった美人の恋人を手に入れて……しかし気持ちが晴れないことに気付く。
「僕は普通の幸せとは無縁で、ケチな職と賑やかな家庭を持つ奴らと違うのかも。正気を失うどころか、もとから変なのかも」
 ナイトクラブのトイレに行くと、鏡には「Fuck you」の落書き。鏡に描いてある……ということは、サリンジャーの内面を示している。
 サリンジャーは再び鬱屈を始め、その鬱屈を小説に込める。そこで書き上げたのは『マディソン街の反抗』だ。サリンジャーの分身であるホールデンが初めて登場する作品だ。
 ニューヨーカー誌に持ち込んで採用になったが、しかし問題点があり、修正せよという指示が来る。まず飲酒について。なぜ主人公が唐突に飲酒を始めたのかわからない。それから、主人公である男女は最後にくっつけること。
 しかしサリンジャーはこの修正を拒否したため、ニューヨーカー誌には載らないことに。

 バーネット先生はサリンジャーに「ホールデンを掘り下げろ。短編じゃなく、長編でだ」と薦める。サリンジャーは自身を「短編タイプ」の作家とみなしていたから、長編を執筆せよという指示に渋る。

 1941年12月8日、真珠湾攻撃を切っ掛けに、日米戦がはじまる。サリンジャー(当時22歳)は自ら志願して入隊、戦地へと赴く。
 戦地でも先生との約束を守り、物語の構想を練り続ける。
 しかし新聞紙上で恋人ウーナがとんでもない人物に寝取られてしまったことを知る。チャールズ・チャップリンである……。

 ここまでが全体の40分。
 最後のウーナがチャールズ・チャップリンに寝取られるエピソードは本当かよ、と確認したらWikipediaにも書いてあった。本当のようだ。サリンジャーの恋敵がチャップリン……なんてウソみたいな話だ……。
 戦地に行っている間に恋人を寝取られたショック、さらに戦場で過酷な体験をしていくうちに、サリンジャーの精神は摩耗していき、やがて物語が書けなくなってしまう。
 サリンジャーが経験したのは「ノルマンディー上陸作戦」だ。映画『プライベート・ライアン』のプロローグにも描かれたから知っている人は多かろう。200万人の連合軍兵がドーヴァー海峡を渡り、フランス・コタンタン半島ノルマンディーに上陸する作戦である。史上最大規模の兵力が投入され、戦死者11万人も出した戦闘である。サリンジャーはあの戦闘の中にいたのだ。
 それからアウシュビッツのまさに地獄という光景を目撃し、しかもサリンジャーはユダヤ人のハーフであるから、その光景に激しいショックを受ける。
 兵役の後半は精神衰弱と診断されて、野戦病院で過ごし、1945年11月に除隊する。サリンジャー26歳である。

 ここから物語がまったく書けなくなったサリンジャーの葛藤、戦争後遺症が抜けないまま、短編集の出版にこだわったことでバーネット先生と対立関係になってしまう。
 サリンジャー自身の精神も崩壊し、人間関係も崩壊し、そこからどうにか立ち直って『ライ麦畑でつかまえて』を書きあげる……というのが映画の1時間までの展開だ。

「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない――誰もって大人はだよ――僕のほかにはね。で、僕は危ない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえてやることなんだ――つまり、子供たちは走ってる時にどこを通っているかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっかからか、さっと飛び出して行って、その子をつかまえてやらなきゃいけないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとうになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げていることは知ってるけどさ」

『ライ麦畑でつかまえて』

 戦争で精神が荒廃したサリンジャーは、より純粋なもの、無垢なるものに心惹かれていく。その無垢なるものが崖から落ちていかないように、見張って、つかまえてやりたい……。そういう人間になりたい。
 物語中に描かれる「ライ麦畑の子供たち」というのは、サリンジャー、あるいはホールデンの内面の「無垢」を現している。しかしその無垢はとても小さなものなので、ライ麦畑の中で遊んでいると周囲が見えない。ライ麦畑の外は崖になっているというのは実際風景ではなく心象風景だ。その中で唯一の大人である自分が、子供の心がライ麦畑から飛び出して、崖から落ちてしまわないように、つかまえたい……と語る場面だ。
 映画では、移動遊園地の子供たちを見ながら、この小説の一節が挿入される。
 それは自分の中にある、純真無垢なるものを守りたい、喪いたくない……という心の表れだった。
 だからあそこのシーンは、実際にサリンジャーがああいう場面を目撃したかどうかではなく、イメージである。

 サリンジャーは最初から何かに違和感を抱えている若者だった。家での沈殿した空気に自分の居場所があるとは最初から思えなかった。ダンスクラブは一時の快楽を与えてくれるけれど、本当はそこの空気にも馴染めていなかった。作家になり、ウーナという恋人ができた時も、どことなく気持ちは晴れなかった。
「僕は普通の幸せとは無縁で、ケチな職と賑やかな家庭を持つ奴らと違うのかも。正気を失うどころか、もとから変なのかも」
 自己実現は達成したはずなのに。欲しかったものは手に入ったはずなのに……。あれ? なにか違うぞ。なんだろう、この違和感……。
(だからウーナとの破局は最初から目に見えていたもの。恋仲になったのに「なんか違うぞ」感があったから)
 そう思っているうちに戦争へ行き、本格的に現実感が喪失していく。ずっと夢を見ているような心地。違和感ばかりが増大していく……。
 だからこそ、自身の内面にもっとも無垢なるものは誰からも攻撃されずに、守り通したい……。そういう作者の“声”をそのまま現した作品が『ライ麦畑でつかまえて』だった。

 『ライ麦畑でつかまえて』は出版後、大ベストセラーとなった。
 するとサリンジャー周辺に異常が起き始める。毎日毎日『ライ麦畑でつかまえて』の読者がサリンジャー自宅前にやってきて、「話がしたい」「どうして僕のことがわかるの?」と話しかけてくるのだった。これが災いしてサリンジャーは自宅に戻れなくなってしまう。

創作が社会現象を起こす理由は? 時代の精神を描き出すこと


 さて、作品を大ヒットさせたい。どうすれば大ヒットさせられるだろうか?
 美少女を出せばヒットするか? 巨人や死神みたいな怖いキャラクターを出せばいい? とにかくも有名作家を揃えて、予算を出して超クオリティで作品を作ればいい?

 全部NOだ。

 創作が大ヒットする要件はただ一つ、その時代の人々みんなが思っていて、まだ言語化されていない心象を物語にすること――だ。
 どの時代でも、若い世代が共通して思っていること、というものがある。なぜ「若者」と限定するかというと、ある程度年を取ると、自分の意識や考えがきちんとした言語化されるからだ。誰かが言語化するから、「ああ、それそれ」と自分がそれを考えたことにすればいいし、そもそも年を取ると何事にも雑になって、そういうことも考えなくなってしまう。
 若者だけはまだ自身が何者であるかわからないし、自分の意識を言語にして表明する術も知らない。「僕は、私は何者なんだろうか?」――わからないから、若者は一度自身のアイデンティティのよりどころを求めて悩む。
 若者は常に時代の最先端にいるから、自分たちの意識を誰もすくいあげてくれていない……という葛藤を持つ。大人達は「お前達はこうなんだろう」「お前達はこういうことを考えているんだろう」と押しつけてくる。現代でもしょっちゅう「若者の○○離れ」とか「今の若者は○○タイプ」とか分類してみせようとする。でも若者自身からすると、全部的外れ。それが自分たちを現しているとはまったく思わない。
(なぜか年を取ると、メディアで言う「最近の若者のタイプは~」という話を疑いもなく信じるようになる。自分の若者時代にさんざん嫌な思いをしたのに? 大人になると、自分たちの言語で若者を規定できると思い込むようになるんだ。しかも、若者を1人1人の個人としてではなく「群像」で見てしまう。そういう見方をしはじめると、もう大人になった……ということでもあるけれども。翻っていうと、大人の方も自分たちが「大人」という「群像」になってしまう。あと単純に「忘れる」ということもある。大人になると若者時代の気持ちなんか忘れるから、この不毛な「若者のレッテル張り」の歴史を繰り返し続ける)
 そうしたところに、「物語」で自分たちを表現してくれているものを見付けると、多くの人はその物語に傾倒する。「あ、僕たちが思っていることを物語にしてくれた」と。その物語を、あたかも自身の体験談のようにすら感じる。そうした体験をした人が圧倒的多数の作品が、大ベストセラーになる。その時代の人々が共通して想っていることを物語にした作品は、時代のシンボルになる。だから大ベストセラーの要件は「クオリティ」ですらなく、その時代の意識、気持ちを「物語化」することなのだ。

 なぜ「物語」なのか? メディアがよくやっている「最近の若者のタイプは~」ではダメなのか?
 芸術の役割から考えたい。芸術の役割は、言語化されていない物を表現することだ。批評家の役割は、芸術の言語化することだ。人の感情は多くの大人達が思っているように、容易に言語化できるものではない。物語という形の方が、「僕の物語」「私の物語」という印象を生み出してくれるのだ。(ここに「なぜ人は物語を読むのか」という秘密を解くヒントがある)
 芸術家は常にフロンティアを目指さなければならない。物語が終局的に目指すのは、まだ誰も言語化していない「感情」を表現することにある。それが物語が目指すべきものである。
(「最近の若者は~」で若者全体をくくれると思っている辺り、大人はバカだなぁ……という気がしているが、こういう意識を持っている辺り、私は大人になりきれてないんだなぁ……)

 『ライ麦畑でつかまえて』の凄いところは、1951年に出版された時も大ヒットしたけれど、その後もずーっと売れ続け、毎年50万部を売り続けたことだ。1950年代のその時の若者の心象だけではなく、その後60年間若者の心象を言い当てた作品として君臨し続けることができたのだ。そんな作品は後にも先にもない。
 ただし、サリンジャー自身、そういう作品を描いたつもりはまったくなかった。自身の心の声を物語にした結果、そうなった。だからファンから「どうして僕のことがわかるの?」と言われた時、動揺する。別にアンタのことを考えて描いたわけじゃない……あくまでも自分自身への手紙として書いたものに過ぎない。しかし時代の精神を掘り当ててしまい、ファンから神格化されてしまう。
 時代の精神を物語にする……そうすれば時代を代表する「物語」になりうる。でもそんなもの、書こうと思って書けるものではない。誰だってその時代がどんな時代か、なんてわからない。「結果として書いてしまう」が正しい。そしてサリンジャーは書いてしまった。いや、「掘り当てて」しまった。それで意図せず、注目されすぎてしまった。

 サリンジャーの自宅に押しかけてくるファンというのが、ことごとくいかにも人間関係が苦手そうな、鬱屈していそうな若者達……と映画中では描かれる。
 どういうことかというと、そこにある社会にうまく溶け込めている……という実感のある若者は悩むことはないし、そもそも物語に気持ちを預けたりもしない。アニメやゲームにはまる若者が、みんなやたらと繊細で傷つきやすい少年少女ばかり……なのは、そもそも社会に上手く溶け込めている、つまり「リア充」はアニメやゲームという逃避先を求めないから、だ(アニメやゲームの業界を目指す子ってみんな同じタイプ)。その中で、とりわけ社会からの疎外感を感じている若者は、より「物語」に傾倒していく。物語の中に現実以上の価値観や人生を見出そうとしてしまう。
 だからサリンジャーの自宅に押しかけてくるようなファンは、なにか抱えていそうな若者ばかりになってしまう。オタクとしての濃度が濃くて、ヤベーやつ……になってしまう。

 サリンジャーは『ライ麦畑でつかまえて』という大ベストセラーを書いたことによって、壊れた精神を回復させたわけではなかった。どちらかというと、より偏屈になっていった。偏屈……という言い方がまずければ、「無垢」なるものに対する意識が強くなっていった。
 だから大騒ぎする世の中は嫌だし、汚れた大人達は「インチキ」だから嫌いだし、結婚するけれど妻や子供にも顧みなくなっていくし……。どんどん気持ちを閉ざしてしまう。
 「作家になる」ということは、2つの意味がある。
 まず「職業作家」になること。職業として作家をやるわけだから、締め切りは守らなくちゃいけないし、人気が出たら嫌でも作品を継続しなければならないし、出版社がコメントを求めたら明るくハッピーな雰囲気を装って書かなければならないし……。
 常に社会を意識して、「作家」という役割を演じ続けること。これが職業作家。
 もう一つは「芸術家」としての生き方。クオリティのためなら締め切りは守らない。嫌だと思ったら書かない。大ヒットしても続編は作らない。自分がこれだ、と思うものだけを描き続けたい。
 こういうタイプは、【職業:作家】ではなく、生き方が作家……というタイプ。
 サリンジャーは最終的に、生き方が作家……という道を選んでいく。
 サリンジャーは1965年に作家活動を停止し、隠遁生活を始めた――とWikipediaに書いてあるのだが、実際には書き続けていたようだ。発表するつもりもなく、それでも小説を書き続けていた……。それはもう、「生き方が作家」という生き方だった。

芸能で生きていきたいと思う若者

 最後に、この話題を。
 サリンジャーは「芸能」の道を進みたいと父親に申し出た時、父親はそれに反対し、社会人として働けと薦める。
 この葛藤は、父と子のすれ違いでよく起こる話だ。
 若者は「俺は歌手になってビッグになりたいんだ!」とか言い始める。それに対して父親は、「おいおいお前な……」と止める。大抵の物語は若者の視点で描かれるが、それを止めるのも親としての人情である。
 どうしてこういう葛藤が起きるかというと、若いうちは「自分が社会の一員となる」ということにリアリティを持てない。むしろ、本当に自分がそういう大人になれるか、ということに不安を抱えている。一方、芸能はそれを得意とする若者にとっては、そちらのほうにリアリティを感じている。
 若者のうちは「社会の一員となって働く」ということに現実を感じにくい。でも、自分にとってクリティカルな「物語」に遭遇している若者――つまり「どうして僕のことがわかるの?」という代弁をしてくれたと思える物語と遭遇している経験のある若者ほど、芸能での生き方に現実感を見出しやすい。
 そこで父と子のすれ違いが起きる。真っ当に生きてきた大人は、そういう物語と遭遇した経験がないからだ。経験していたとしても、大人になり、アイデンティティが確立される頃になると、若者時代の悩みなんて忘れてしまう。

 映画中の台詞でも、「作家志望と作家は違う」という台詞はある。これはつまり、「作家としての生き方ができるか?」という話だ。
 「俺は歌手になってビッグになりたいんだ!」という目標を持ったとしよう。歌手になって、有名になって、美人の奥さんができたらそれで満足か? 歌手としての生き方はそれで終了か? そういうゴールを目指して歌手になりたいのか?
 サリンジャーも始まりはそういうところだった。ウーナという美人がいて、その美人の関心を惹きたくて作家になった。作家になったけれども……なんか違うぞ。違和感がある。心の中の火が消えない。僕はおかしいのか?
 サリンジャーの最初のゴールは「ウーナと恋仲になること」だった。でもそのゴールに到達しても、満たされていないことに気付く。違和感ばかりがつきまとう。
 サリンジャーが社会人になろうとしてもうまくいかないのは目に見えている。まず“自分の家”という社会の中でも、違和感があった。その場所に休まるものがない……と感じていた。家庭の延長である外の世界を目指したところで、うまくいくわけがない……。就職したって、ずっと違和感を抱き続けただろう。サリンジャーはそういう人間だった。
 サリンジャーはその違和感を物語という形にして表現しようとする。違和感を抱く度に、物語を書きたいという欲求がやってくるのだ。サリンジャーはどうしたって「作家」にならなくてはいけない人間だった。

 人間は常に何かしらで自己表現をしたいという欲求を抱える生き物である。そのアウトプットする方法はみんな異なる。リア充は最初から社会の中で自己が満たされているから、何かを表現する必要がない。大抵の素人は、市場にある中のものから「選ぶ」だけだ。選ぶだけで、大抵の人は満たされて、気持ちは鎮火する。
 でも作家は、世の中にあるもの全てに違和感を抱えている。だから表現する。自分の知る世の中に、自分が求めているものがないとわかったなら、書くしかない。書き続けるしかない。ある種、そういう社会の隙間に落ちてしまった人は、そういう生き方をするしかなくなってしまう。
(まっ、私なんかもそうなんだけどね)

 そこで引っ掛かるのは、今の世代、「芸能」で生きていきたい……と考える若者が異常なほど増えた。創作をやっていない若者はいないんじゃないか……というくらいに。
 どうしてこういう社会になってしまったのか……というと、若者全員が社会に何かしらの違和感を抱えているから。
 何かおかしい。こんなに物で一杯満たされているのに、自分たちが本当にほしいもの、自分たちの気持ちを表明してくれているものがない。なぜか社会がやんわりと自分たちを弾いているような気がする……。
 そこでみんなそれぞれで自分の物語を持とうとしている。
 どうして若者がみんな物語を持とうとしているかというと、第一に社会がおかしくなっているから。みんな今の社会に違和感を抱えている。でも誰もそれを表明しない。表立って言わない。なぜ? なぜ? ……その言語化されない感覚を、物語にしたい……。でもほとんどの人がうまく物語に落とし込めていない。

 「異世界転生」ものが流行るのは、現実から逃げたいからだ。“ここ”ではないどこかで、自分の居場所を作りたい、その願いから「異世界転生」ものは大流行した。でも、その流行が小さく収まっているのは、それだけクリティカルな物が生まれていないから……だ。
 それ以前に「異世界転生もの」というテンプレートに頼っている時点で、フロンティアを目指しているとは言えない。「模倣」であって「創作」ではない。ドングリの背較べをやっているだけだ。
 もう一つの理由は、自身の存在が薄く感じているから。なぜみんなTwitterやInstagramの「いいね」を欲しがるのか? 自分がそこにいる、という確かな実感が欲しいからだ。みんな自分が社会の中で薄く分解されていくような違和感を抱えている。一見便利になったように思えるけれど、その中に「自分」だけがいないような感覚がある。だから病的に「いいね」を求めたがる。注目を集めたがる。

 「芸能で生きていきたい」――自己表現で生きていきたい。そういう若者がこうもやたらと増えた社会……というのは相当狂った社会だ。そういう芸能で生きていきたいなんて若者は、1万人に1人くらいいればいい。1万人に1人くらい「何かおかしい」……と気付けばいい。 それが今の時代、我も我もと芸能で表現したいと言い始める……。これはつまり、それくらい時代が狂っているという証だ。
 作家という生き方にはゴールはない。作家になったらずっと作家なのだ。その生き方ができるのか? ビッグになって美人の奥さんをもらったらもうゴール……という話ではない。
 そういうためにも、バーネット先生がやったように、「こいつは本気かどうか」という審査は必要なのかもしれない……。


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