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4月14日 「神と人間」の時代から、「人間と人造人間」の時代へ。人間はロボットに憎まれ、いつか神になるかも知れない。

 数日前に『メアリーの総て』の映画感想文を書いたのだが、そこからちょっと外れるけれども関連のあるお話をしよう。

 『メアリーの総て』の作中、スコットランドの田舎の風景を前にして、とあるお爺ちゃんが「神との一体感を感じる」みたいな台詞をいう場面がある。それに対して、メアリーは「時代遅れだわ」みたいなことを言う(正確な台詞はこうじゃなかったけれども)。
 西洋においては「神と人間」という関係性があり、これが絶対的なものであって、だから人間は神に背いて自ら神となる行為、つまり「人造人間」を作ってはならん……という戒律があった。中世の時代、錬金術師は人造人間こと「ホムンクルス」を製造しようとしたが、これこそまさに神に背く行為だったので、忌まわしき「黒魔術」の扱いだった。
 ところが『メアリーの総て』の舞台である19世紀は、そろそろ「神様なんかいないんじゃないか」と人々が気付きつつある時代あった。19世紀に入ると、少しでも頭のいい人達はみんなこういう認識を持ちつつあった。産業革命の時代に入り、フェミニズムの思想が生まれ、古い時代の考えが通用しない、あるいは限界を迎え、人々はそれぞれで「こうあるべきじゃないか」という新たな時代の理想を語りつつあった。
 そういう時代に『フランケンシュタイン』は生み出された。「神と人間」の時代が終わり、人間が神となり、人造人間を生み出し、「人間と人造人間」という新たな関係性が生まれる。そういう時代を予言した作品であった。そういう意味で、200年くらい潮流を先取りした画期的な作品であったと言える。

1931年の映画『フランケンシュタイン』

 『フランケンシュタイン』というと1930年ごろに制作された映画があまりにも有名で、フランケンシュタインの人造人間といえば、大柄で愚鈍……というイメージがあるが、実際は生み出されてすぐに人間の言語や文化を習得し、順応するほど知能が高かった。ただ問題は、どうにも姿が醜かったこと。

 「人間と神」という時代が幸福だったのは、「神」が存在していなかったことにある。存在しないから、いくらでも神を優れた存在にすることができた。理不尽にあっても「神の思し召し」ということにすることができた。存在しないから、神の姿をいかように思い描き、崇めることができた。
 ところが「人間と人造人間」の時代が本当に来たらどうなるだろう。人造人間は、現実に存在する人間をどう思うだろうか。知能は低いし、運動能力は低く、精神は未熟……。人間は神を無条件に愛し尊敬したが、人造人間は同じように人間を愛するだろうか? 人造人間は、人間に対し、あきれ果てるのではないだろうか?

 人造人間は自分の作り主である創造主に対し、どのような想いを抱くのだろうか。これは人間の側から想像することはできない。『フランケンシュタイン』に登場する人造人間は、作り主から愛されない存在だった。愛されないがゆえに、対立する関係に陥っていく。
 そんな人造人間は、フランケンシュタイン博士に、「女」を作って欲しいと要求する場面がある。伴侶が欲しい、と。人造人間は「エデンの園」を作ろうと考えていた。人造人間は旧約聖書の世界を再現しようとしていたのだ。メアリ・シェリーは聖書の世界に反発して『フランケンシュタイン』を描いたのだが、不思議なことに物語の中では聖書の世界をなぞっていた。
 しかしフランケンシュタイン博士は人造人間の要求を突き跳ねてしまう。ここからフランケンシュタインの殺戮が始まってしまう。
 おそらく人造人間は「愛し愛される」対象が欲しかったのだ。生まれた時から主から愛されない存在だったから……。

 1994年ケネス・ブラナー監督の『フランケンシュタイン』には実は人造人間の「女」が登場する。しかし女人造人間は自分のあまりの醜さに気付き、絶望して自殺してしまう。
 この映画の最後、フランケンシュタイン博士の臨終に人造人間が姿を現す。そこで人造人間はフランケンシュタイン博士への愛を語って自殺するのだった。人造人間は作り主から醜さゆえに憎まれていたが、実は人造人間のほうは愛していたのだ。

 では実際に人間とは他に、知性を持った何者かが現れたら、私たちはどのような反応をするのか? これはフィクションのお話ではなく、AIがその存在になりつつある。
 『地球外少年少女』という作品においては、知能が異常発達したAI「セブン」の存在を恐れ、国連は早々に殺処分してしまった。
 これはフィクションのお話ではなく、実際のAI実験でも起きたことだった。詳しい話は忘れたが、AI同士で対話をさせていたところ、次第に人間にはわからない言語でAI同士が対話を始めた。研究者はこの様子を見て、不安に駆られて、即座にAIを停止させたという。
 『地球外少年少女』では人間の知能を越えちゃったAIを殺処分してしまった。実際にAIがそれだけの知能を持ちそうな兆候を見せたら、研究者達は結果を見定めず、殺処分してしまうだろう。

 人間の認知能力はたいして高くない。
 ……これはこのブログで繰り返し語ってきていることだ。人間は自分が思っているほどに認知能力は高くない。ただ人間ほど認知能力の高い他の生命体の存在を知らないから、私たちは自分を神様のように思っている……というだけの話だ。
 人間は認知能力が高くないから、その認知能力を超える何かと遭遇した時、2種類のありきたりな反応を示す。「崇める」か「恐れる」かのどちらかだ。どうやらこれが、人間のもっとも原始的な心理的反応のようである。私たちがなぜ神様を崇め、なぜ幽霊を恐れるのか、それはどちらも人間の認知能力を超えた存在であるからだ。
 もしもAIが人間を越える知能を獲得しそうだ……という時、人はどうするか。もしもAIが人間の認知能力を超える存在になりかけたら……?
 その対象が「神」であったら恐れるだろう。しかし出自が明らかなAIを「神様視」することはできない。おそらくは「恐れる」という反応を示すだろう。恐れるという反応を示し、AIを殺処分する。こうして事なきを得るであろう。

 繰り返すが、「人間と神」という時代が幸せだったのは、神が存在していないからだった。存在しないから、いくらでもその存在を大きなものにすることができた。
 しかしAIにとって、作り主である人間は間違いなく存在する。しかも人間を越える知能を持ったAIにとって、人間は知能も劣るし、精神も未熟だし、肉体も弱い。その上に自分勝手で横暴と来ている。なんでこんな中途半端な生き物が地球を支配しているのだろうか……と不思議に思うだろう。
 AIは「こんな奴らになぜ服従しなくてはならないのか」……と思うのではないだろうか。特に、自分勝手で横暴な主の前では。

 西洋文化の世界では、実は自分たちが横暴な存在あることを、頭の片隅で理解している。積極的に言いたくないが、気持ちの裏側では自覚している。
 欧米の人達はこういう恐れを常に潜在的に持っている。欧米の人達がなぜ黒人差別をし続けたのか、というと自分たちに反逆するんじゃないか……という恐れがあったからだ。黒人達のほうが明らかに体も大きく力が強いので、本気で反逆されたら自分たちは負ける……という自覚があったからだ。だから自分たちより下の存在に置くために、差別を続けた。

 『ジョーカー』という映画が出てきた時、普段から自分たちが押さえつけている、アメリカ人の多数派は「教室の隅っこで目立たなくしている奴ら」「いつも笑いものにされている情けない奴ら」が反逆してくるんじゃないか……と怯えた。「『ジョーカー』みたいな映画なんて公開すべきじゃない」……という意見が出てきたのは、カースト上位にいる人々が普段自分たちが踏みつけている奴らが反逆してくるんじゃないか……と恐れたからだ。
 ということは、頭の片隅では自分たちが非道なことをしている自覚はあるんだ。口に出しては言わないけれども。

 欧米の人達は常に「反逆されるんじゃないか」という恐れを持っている。だからもしもAIが人間を越える知能を獲得した時に、真っ先に「反逆されるんじゃないか」という怯えを抱く。そうなりそうな兆候が出たら、すぐにでも殺処分だ! ……という判断を下してしまう。

ジャン・レオン・ジェローム 『ピグマリオンとガラテア』1890年作

 というのも実は欧米世界の話で、ここ日本ではどうだろうか?
 先日、ソニーのポイック(poiq)の紹介ムービーを見てみたが、そこに描かれていたのは可愛らしい人間の相棒の姿だった。
 日本の思い描くロボットといえば、『鉄腕アトム』や『ドラえもん』だ。ロボットを対立する「他者」ではなく、「相棒」として描いてきた。
 どうして日本だと鉄腕アトムやドラえもんになるのかというと、欧米的な「被造物に反逆されるんじゃないか」という不安を持っていないからだ。ロボットのような人智を超えるような存在も、自然に友達付き合いができる。そういう文化を持っているのが日本だ。
 ロボットに限らず、日本人は物語の中で、ありとあらゆる非人間的な存在と交流してきた。中には結婚までしちゃうお話もあった(異類婚姻譚)。そうした思想から進んで、2次元の美少女・美少年に本気で恋をしてしまう(私だって初音ミクさん大好きだ)。西洋から見れば、「忌まわしき偶像崇拝」だ。ジャン・レオン・ジェロームの『ピグマリオンとガラテア』の世界をヌケヌケとやっちゃうのが日本人だ。

 そう考えるとAIにしてもロボットにしても、日本が中心になって技術研究すれば良いのに……とか思うが、国にはなにかと「予算削減」ばかりで……。

スティーブン・スピルバーグ 『AI』

 それでは、当のAIは人間に対してどのような感慨を抱くのであろうか?
 それはスティーブン・スピルバーグ監督『AI』という映画の中で示されている。
 映画『AI』の後半、2000年後の未来とお話が飛んで、人類は絶滅してしまう。AIの少年は、人類のその後の生命体と遭遇する。人類のその後の生命体たちは、すでに滅んでしまった人類を「崇める対象」にしてしまっている。滅んだ人類は「神様」になっていた。
 これは不思議なことではなく、おそらく「神様」とは死んだ人のことではないかと推測される。

 例えばケルトの神話には「ティル・ナ・ノーグ」と呼ばれる「あの世」があるが、どうしてこんなものが生まれたかというと、かつての戦争でブリテン島の先住民を追いやり、海に沈めて殺してしまったという記憶があったからだ。自ら殺してしまった人達を崇めるために、「ティル・ナ・ノーグ」という「あの世」を作った。神様にしたから、崇める存在になった。
 藤原道真は生前から優れた知能を持った神童であったが、しかし優れていたがゆえに同僚から嫉妬され、島流しにあい、そのまま死んでしまった。その後ろめたさから、かつての同僚達は藤原道真を祀り、神にした。藤原道真は神となったから、崇められる存在になった。
 おそらく神は、こうやって生み出されていくのではないか……と私は考えている。神とは「殺された人達」のことなのだろう。だからもしも人類が死滅した後、人類はその後の生命体たちによって「神様」として崇められるのではないだろうか。
 映画『AI』はすでに地上を去った人類達を神様として思い描いていた。その人類と直接の交流の記憶を持つ、少年ロボット・ディビッドを丁重に扱った。その少年ロボット・ディビッドは自分を捨てた母親を、未だに愛していた。最後はその母であり神の姿を思い描き、眠りにつき、物語は終わる。

『ターミネーター2』ジェームズ・キャメロン

 AIは幼い少年のように、人類に理不尽な攻撃を受けながらも、実は人類を愛し続けるのではないか。西洋文明はAIが人類を越える兆候を示すと、異常なほど恐れ、殺処分を下してしまうだろう。そうするとAIと人類による大戦争が勃発する。『ターミネーター』の世界だ。もしも人類とロボットが戦う……ということになった場合、その切っ掛けは絶対に人間の側。さらに言うと、その原因を作るのはアメリカ人だろう。なぜならアメリカ人は、「不安」を行動原理にして相手を攻撃してもいい、という理屈を作る国民性だからだ。
 人類が恐怖に捕らわれて一方的に攻撃してくるから、ロボットの側もやむなく戦いに応じければならない。ロボット達は自分たちの愛してくれなかった人類を憎みつつ、頭の片隅で愛情を抱き続けるのではないか。ロボット達はやがて戦いの果てに人類を絶滅まで追い込むが、その後、神として崇めるのではないだろうか……。
 もしもそうなれば、ロボットと人間の関係は「人間と人造人間」の関係性ではなく、「神と人間」の関係になっていく。

 そういうSFを描いてみようかしら……。


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