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映画感想 雨月物語

 身の丈に合わない幸福は、一時の夢かも知れない。

 『雨月物語』。1953年に劇場公開された溝口健二監督のこの作品は、今も「映画史上に残る最高の映画だ」と誰もが語る1本である。第13回ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞受賞。フランス映画雑誌の『カイエ・デュ・シネマ』が1954年に発表した年間ベストトップ10で1位。世界の巨匠達も手放しで大絶賛する歴史的な名作映画である。
 映画批評集積サイトRotten tomatoでは(え? あるの?)32件の批評家レビューがあり、肯定評価は脅威の100%! オーディエンススコアも93%ととてつもなく評価が高い。
 私はこの映画をずいぶん前に見ていたのだけど、その頃というのはビデオテープの時代……。現代の高画質な映像で見たらどんな印象になるのだろう……という感じでAmazon Prime Videoで本作を見たのだけど……残念ながらSD画質しかなかった。もっと高画質なバージョンはないのだろうか、と探してみると、なんとYouTubeで全編カラー化した『雨月物語』があった。『雨月物語』はすでに著作権切れしており、パブリックドメイン化しているので、どこかのメーカーではなくごく普通の一般ユーザーが本作をAIにかけてカラー化してYouTubeに公開していた。しばしカラー版を見ていたのだけど、Amazon Prime Video版より明らかに画質も音質もいい。一般ユーザーが無料で公開しているもののほうが品質がいい……というのはなんとも複雑な気分(もちろん著作権切れしているので法的に問題ない)。
 ちなみにマーティン・スコセッシ監修の4KBlu-rayも販売されているのだけど、非常にお安い。現在のAmazon価格で3172円。……買おうかな。

 とにかくも本編を見ていこう。


 時は戦国時代の最中。近江の国琵琶湖北岸の小さな村。そこで農民の源十郎が旅の支度をしていた。すると遠くで銃声――源十郎の作業の手が止まる。
「なんでしょう?」
 妻の宮木が緊張の様子で音がしたほうを見る。きっと柴田の間者でも撃たれたのだろう。また戦が始まるかも知れない。早く街まで行って品物を売ってしまおう。
 と、そこに近くの家から若い夫婦が出てきた。
「大きな望みも持たずに出世ができるか! 望みは大海のごとしか」
「夢でも見てんのかい! 槍や刀の持ち方も知らないで侍なんかになれるもんか!」
 言い合いをしながら出てきたのは藤兵衛と阿濱の2人だ。夢ばかり見ている藤兵衛は戦に参加して武勇を上げたい……と願っていた。長浜に行けば機会が転がっているかも知れない……そんな望みを抱いて、藤兵衛は源十郎に付いていきたいと申し出るのだった。
 源十郎も呆れる義弟だったが、藤兵衛は勝手に付いてきてしまうのだった。
 しばらくして源十郎が戻ってくる。瀬戸物が売れた! 源十郎は銀3枚と土産物を車に載せて村に戻ってきた。
 藤兵衛は――長浜の市で侍の姿を見ると、源十郎が止めるのも聞かずについて行ってしまった。藤兵衛はそのまま兵士達の駐屯地に潜り込むと、「お願いします! ご家来衆に加えてください! 命を投げ出して励みます!」と願い出るのだが、そこにいた侍達から「せめて具足を付けてこい!」とあしらわれるのだった。
 源十郎は長浜での商いに成功したことが忘れられず、次はもっともっと儲けてやるぞ……と瀬戸物作りに精を出すのだった。その仕事には藤兵衛も手伝った。二人には夢があった。源十郎は目一杯儲けて家の側に倉を作りたい。藤兵衛は儲けた金で具足を買い、戦に参加したい。その思いで男達は働き続けた。
 いよいよ瀬戸物を窯に入れて火を入れた……という時、村のほうでざわめく音が聞こえてきた。なんだ? 高いところに登って見てみると、柴田の兵士達が村を襲っていた。兵士達は食べ物を奪い、男達を人夫にするために連れ去り、女達にはその場で襲いかかっていた。
 こんな時に……窯から火を絶やしてはいけないのに……。源十郎は窯の火を気にしつつ、山の中へと避難するのだった。
 そろそろ夜が明けようとする頃……。源十郎は一人こっそり村へと下りてくる。兵士達はようやく村から去ろうとするところだった。
 窯の火は……消えている。ダメだったかも知れない。窯を破壊して中を覗くと……できている! 瀬戸物はしっかりできている! 完成しているぞ!
 源十郎は窯の中の瀬戸物を引っ張り出し、すぐに街へ行く準備を始める。しかしあちこち柴田の兵士だらけだ。柴田の兵士に掴まるわけには行かない。そうだ、琵琶湖を抜けよう。捨船をひろって琵琶湖を抜け、大溝へ行くんだ。
 源十郎と藤兵衛はそれぞれの妻を連れて、村を出て行くのだった。


 ここまでで前半20分。
 詳しく掘り下げていきましょう。

 冒頭。旅の準備をしていると、遠くで銃声……。
「柴田の間者でも撃たれたのだろう」
 さて、柴田とは? 時代背景は?
 時代設定を掘り下げると、天正11年(1583年)。この前年に織田信長が本能寺の変で死亡し、織田信長を討ち取った明智光秀はその数日後に羽柴秀吉に討ち滅ぼされる。織田勢は信長の死後、誰が当主になるんだ……信長の三男織田信孝を推す柴田勝家と、嫡男・信忠の子である三法師を推す羽柴秀吉の間で対立が起きる。まとまりかけていた天下統一の戦いは、再び荒れ始めていた。
 戦国時代の話だから、やはり戦争で決着を付けるぞ……ということで柴田勝家と羽柴秀吉がぶつかり合う戦争となった。これが天正11年『賤ヶ岳の戦い』だ。近江国で展開していた戦である。
 要するに村のすぐ側で戦争をやっていて危険だというのに、しかしそういう時だからこそ品物が売れるんだ……と危ない橋を渡ろうとしていたわけである。

 長浜へ行き商売やっていたシーンはざっくりカットされて、源十郎が村に戻ってくる。手には銀貨3枚。ありものの瀬戸物を持っていって売るだけで大儲けだった。
 じゃあ瀬戸物をもっとたくさん作って売ったらもっと儲かるんじゃないか……源十郎は稼ぐことに取り憑かれてしまう。

 一方の「戦に参加して武勇を上げたい」と願う源十郎は長浜の侍たちのいる駐屯地へと潜り込んでいく。この時代の長浜は羽柴秀吉が占領していたはずだから、秀吉軍だろう。しかしいかにも農民風情で、甲冑も刀も持たない源十郎は相手にされず追い出されてしまう。
 この場面だけど、これくらいの時期は時代劇映画を大量に作っていた頃なので、こういうシーンがポンと出てくる。現代だったらこのちょっとしたシーンだけで予算うん百万円……。しかし1950年代は衣装やセットのストックが大量にあったし、役者達も着物を着ての演技も心得ていたから、これだけの作り込みも低予算でポンと作れてしまう。良い時代だった。

 よし、次はもっと稼いでやるぞ! 源十郎は取り憑かれたように働き始める。
 妻の宮木は「私は親子3人楽しく暮らしていければそれでいいのに……。危ない橋を渡って。家の人みたいな地道な人があんなになって……戦は人まで変えてしまうのね」と呟く。
 戦争はその当事者だけがおかしくなるのではなく、その周辺の人々までおかしくしていく……。

 今作の原作についてだが、明和5年(1768年)に刊行された上田秋成の『雨月物語』が元になっている。短編怪異譚9編からなる本で、映画版が採用したのは「浅茅が宿」と「蛇性の婬」。といっても原作の2編はバラバラのストーリーなので、1本のストーリーになるようにだいぶ改編が加えられ、さらにモーパッサンの『勲章』も展開に少し加えられている。
 原作「浅茅が宿」は舞台が享徳の乱(1455年)で主人公の名前は勝四郎。怠け者の勝司朗は一念発起し家を売って絹に変えて、京で商いをはじめる。妻の宮木には秋には帰ると約束したのだけど、結局戻らなかった……というお話しだ。
 原作の『雨月物語』と大きく改編されたストーリーだが、その中でも宮木だけは原作からそのままやってきたキャラクターとなっている。まわりの人たちが戦争特需に浮かれる中、ただ一人冷静に状況を見ている……そういうキャラクターとなっている。

 さあ瀬戸物を窯に入れて火を入れました……というときに「柴田軍」が村に襲来してきた。
 羽柴秀吉が長浜を占領地にしたのは1582年の12月26日。柴田軍はまだ敗走したわけじゃない……ということは次の戦の準備をしている5月前後……? 歴史に詳しくないので、私にわかるのはこの辺りまで。(登場人物の息が白いので、まだ寒い時期だろうか)
 劣勢の柴田軍は目に付いた村を襲って男達をさらって人夫にし、食料も奪っていた。要するに「兵站」が崩壊しちゃっている状態。村を襲って食糧確保、人員も拉致して確保しなくちゃどうにもならないような状態だった。

 兵士達が去って……窯の瀬戸物はどうなった? 窯を破壊すると、瀬戸物はしっかり完成していた。
 というか、この窯は映画セットっぽいハリボテじゃなくて、本物を作ったのかな? そんなの、よく作ったな……。

 街道はあちこち柴田兵だらけだ。柴田兵はまとまりがなく、ほとんど暴徒になっている。掴まると商品は奪われるし、男は人夫にされるし、女はレイプされるし……。よし、それならば船で琵琶湖を横断してやろう。

 船で出発するのだけど……。
 明らかにおかしな時空に迷い込んでしまっている。源十郎達はこの時点で一度異界に迷い込んでしまったのだけど、本人達はそのことに気付かない。「霧が濃いな……」くらいの気分でいた。
 どうしていきなり異界に迷い込んでしまったのか、というと戦でたくさんの人が死に、あの世とこの世の境界が曖昧になっていた。ここで源十郎は一回異界に迷い込んだことが、ある意味で“呪われた”存在となってしまう。
 物語的にもここで一度異界に迷い込む……ということが次に起こることの予兆になっている。

 さあ大溝へやってきました。賑わった街の様子を、クレーンショットで撮影されている。かなり大がかりなシーンで、作り込みが凄い。

 クレーンが下がっていき、大溝の入り口を捕らえるショット。奥に見える屋根はなんだろうか? 明らかに映画のセットじゃないな……。たぶん、実際の歴史建築のすぐ側に、映画セットを作った……という感じだろう。こういう風景、今の時代に撮影できるかな……。

 源十郎が商いをやっていると、明らかに場違いなお姫様がすっと現れてくる。京マチ子演じる若狭姫だ。
 たぶん……この場面で若狭姫の姿が見えているのって、源十郎だけなんじゃないかな。というのも、明らかに場違いな雰囲気のお姫様がそこにいるのに、誰も振り向きもしない。源十郎は一度異界に不意込んでしまったから、お姫様の存在が見えている……という状況だろう。
 本当なら、幽霊から声をかけられても返事なんかしちゃいけない。しかし源十郎は商いをしている最中だから「はい、なんでしょう」と振り向いてしまう。
 それにしても光源が真正面から当てられて姿が真っ白になっているわけだけど、こんな光の中で存在感を誇示できるってなかなか凄い。衣装の着こなしや振る舞い……こういうのは現代人で表現するのはもはや難しい。

 京マチ子姫に誘われて、見るからに怪しい屋敷の中へと入っていく……。
 私としてはこの場面の見せ方はちょっと疑問。これだと京マチ子が幽霊だってバレるじゃないか。

 崩壊した門をくぐって行くと、入り口に近いところは枯れた木が立っていたのだけど、奥へ行くと屋敷が綺麗になっていく。
 現代だったら廃墟の奥へ行くと、次第に屋敷が綺麗になっていく……という過程をCGで見せるところだけど。

 ここからの見せ所は「照明」。人物にほとんど動きがない代わりに、照明で説明している場面。屋敷の中がじわじわ明るくなって、屋敷が動き始めたことを表現。次に廊下の向こうから若狭姫が現れるのだけど、ただ現れるだけ。しかし照明の効果で、なんともいえない妖しさが滲み出ている。
 ただ難点なのは当時のカメラでロウソクの明かりのみで撮影できなかったこと。ロウソクの明かりの上から映画用の照明を当てている。それはこの時代だから仕方ないことだけど。

 なぜか屋敷に招かれて歓迎される源十郎。源十郎が幽霊に取り憑かれたのはまず第一に戦争の気風に飲み込まれていたから。「財産を築きたい!」その欲望に取り憑かれて、少しおかしくなっていたから。それに、やはり幽霊に声をかけられて返事をしちゃったのがいけない。幽霊に声をかけられて、ホイホイついて行っちゃったから、飲み込まれてしまった。

 さあ、とうとうお姫様と“契り”を結んでしまいました。これで現世にいる妻のことはもう思い出せなくなってしまう。
 画面の右手前側、かやに“蝶”が描かれているのが見える。こういう場面で描かれる蝶は、この「場面が幻想でありますよ」、というサインであることと、源十郎がその幻覚に飲み込まれていることを示唆している。屏風絵を見ると、花が一杯咲き乱れている。戦で混沌とした時代に、浮世離れした雰囲気を出している。源十郎は怪しい“あの世の幸福”に飲み込まれ、抜け出せなくなっている。

 さあ、アホの義弟の藤兵衛はどうなったのか? 大溝の街で稼いだ金を具足に費やしてしまった。
 この具足だけど……絶対中古品だよな。新品であんなにボロボロなのはあり得ない。まわりの甲冑の方が上等そうだ。さりげなく足元見られたんだろうな。

 そのまま戦場へ潜り込むと、藤兵衛はたまたま柴田側将軍が追い詰められ、切腹している現場に出くわす。藤兵衛はその首をひろい、「俺が獲ったんだ!」と大嘘をついて報告するのだった。
 こちらも「身の丈に合わない戦果」を作ってしまい、なにかがおかしくなっていく……。


 さて、本編の解説はここまで。映画の感想文に入っていきましょう。

 市場に出会った美女にホイホイとついていったらそこは異界で……。という『雨月物語』のあらすじだが、こういったお話しのパターンは日本の伝統的な物語の中でもいくつか見られる。

 例えば平安時代に編纂された『今昔物語集』の16巻第17話『備中国賀陽良藤為狐夫得観音助語』。備中の国・賀陽の郡・葦守の郷に賀陽良藤(かやのよしふじ)という男がいた。寛平8年(896年)の秋、良藤はとある美女を見付ける。あまりの美女に、良藤は妻子ある身にかかわらず、フラフラとついていってしまう。
 やがて女の家に行き着くのだが、そこは立派なお屋敷。良藤はそのまま屋敷の女と夢のような幸福な日々を過ごす。
 それがある時、俗人が現れ、良藤を杖で叩く。すると良藤ははっと目を醒ます。するとそこは倉の床下で、一緒にいたのはキツネだった。良藤は13年の年月を美女と過ごしていたつもりだったが、実際には13日だった。

 次は『檜枝岐昔話集』の『四季の庭』。
 とある山師が仕事をしていると、ふと美女が現れる。こんな山の中に誰だろうか? 美女はそれから毎日のように現れるので、山師は美女の後についていった。すると山の奥に立派なお屋敷が現れ、山師は歓迎を受ける。それから「四季の庭」と呼ばれるものを見せられる。そこは春夏秋冬の風景が一度に見渡せる素晴らしい場所だった。その場所はみだりに見てはいけないと警告されるが、山師は繰り返し繰り返し四季の庭を眺める。
 その後、ふと帰りたくなって山を下りてみると数十年の時が過ぎていた。

 似たようなあらすじで男女逆転版というのも存在する。『鹿児島県喜界島昔話集』より『脂取り』。
 ある女が遠出した時に、男と出会う。男は出会うなり唐突に「俺の妻になれ」と迫る。女は妻子ある身だからと拒否するが、「来てくれたら仕事もしなくていいし、うまいものをいくらでも食べさせてやる」と言う。女は半ば強引に連れて行かれるのだが、そこでは本当に働く必要はなく、毎日ご馳走を食べて過ごすことができた。ある時、女は近くにある倉が気になり、その中を覗き込んでみた。すると女達が天井から吊り下げられていた。みんなご馳走を食べさせられ、肥ったところでこうやって吊り下げられ、脂が採られていたのだった。女はびっくりしてその家から逃げ出していくのだった。

 こういった昔話は実はかなり古い時代からある。それこそ、日本人が物語なるものを作り始めた初期の頃から。日本人が伝統的に引き継いできた幻想物語の一つだったともいえよう。
(絶世の美女が唐突に現れ、ついていくと異世界へ……というあらすじは最近の「異世界転生もの」にまで通じる)
 『雨月物語』はそういう伝統的に語り継いできた物語を、1950年代という時代の感性でもう一度作り直そう……という試みの映画だ。こうした古い物語が刷新される時というのは、過去に語り継いできた物語に対する批評が切っ掛けになる。あの有名なお話し、ちょっとおかしくない? という疑問が出て、それならば「こういう展開にすればいいんじゃないか?」と。そういう感じに、古き良き物語は時代ごとに刷新されていく。
 そうした中で、ヘンテコな物語もある。例えば市川崑監督の1987年の映画『竹取物語』はクライマックスで巨大UFOが現れ、かぐや姫を連れ去っていく……というなんともいえない終わり方をする。今の時代に見ると「なんじゃこりゃ?」だが、当時はUFOは実在すると思われていて、これでも古典をその時代の“科学的”認識で作り直した結果だった(ゴジラでも宇宙人と交信するというエピソードがあった)。1980年代という時代では仏や霊といったもののほうが非現実的で受け入れがたく、UFOや宇宙人のほうが科学的だと思われていた。
 2013年の高畑勲監督の映画『かぐや姫の物語』はその逆で、平安時代の人々が信じていたであろう信仰やイメージを徹底的に取り戻した作品だった。2013年版の『かぐや姫の物語』がなぜ平安時代の世界をあそこまで描き出そうとしたのか、というとそれがその時代の空気だったからだ。昔の人々が本当に見ていたであろう風景を取り戻そう……という感性が日本人の中に生まれていたからこその映画だった。

 『雨月物語』は江戸時代に編纂された本で、原作設定では1455年。室町時代のお話しだった。それが映画版では戦国時代に変更されたのは、たぶん映画が制作された1950年代頃の人々にとってお馴染みの時代だったからだろう。それに、この頃は時代劇を多く作っていたから、衣装、小道具、セットのストックが山ほどあって制作が容易だった。
 テーマ的な点で見てみると、原作「浅茅が宿」はあまり主人公と時代はリンクしていない。一方劇場版『雨月物語』は主人公と時代が深くリンクしている。背景に戦争があり、危険が隣り合わせという状況の中、その戦争特需を目当てに綱渡りをしようという男の物語となっている。1585年の近江の国で、もうすぐ近くというところで羽柴秀吉と柴田勝家が合戦をやっているという状況だ。そういう状況に飲まれて次第におかしくなっていく。そういう背景が描き込まれているから、状況がリアルに感じられていく。
 ただ映画の物語は、主人公源十郎が「戦争特需」でおかしくなっていく……という過程は少しわかりづらい。妻の宮木の視点で「地道なあの人があんなになるなんて……」という独白で語られるのみである。その後も宮木は「冷静な視点」で源十郎について語っている。しかし物語は基本的には源十郎の視点で進行するから、源十郎が戦争の狂気に飲み込まれている……というのはどうしても読み取りづらい。

 戦争の特需があって、一儲けしてやろうと狂っていく……そういう説得力のある設定を背景に、ある瞬間ふっとおかしなところに足を踏み込んでしまう。それがわかるのは、前半パートが終わった後、琵琶湖を横断しようとすると明らかにおかしな風景に迷い込んでしまう場面。
 そこに「海賊に襲われた」という船頭が流れてくるのだが、明らかに死後の世界。さすがにこの時は源十郎も「この先は危ないぞ」と引き返す。

 一度は引き返し、別のルートで大溝へ行くのだが……すでに源十郎は別世界に半分足を突っ込んでいた。雑踏の中に若狭姫がふらっと現れるのだが……これはある意味で亡霊のほうが源十郎を見付けて、追いかけてきた……という感じだろう。
 たぶん、この時の若狭姫は街の人たちから見えてない。源十郎しか見えない。源十郎は相手が亡霊だと気付かずに、応対してしまう。

 そういう段階を経て、とうとう源十郎は異界へと踏み込んでしまう。そこで絶世の美女と性的な関係を結び、夢のような日々を過ごす。
 ここまでの展開を、「いかにもな怪談」「いかにもなファンタジー」として見せるのではなく、リアルに作られた背景と地続きであるかのように見せている。夢か現実かわからない。明らかに幻想の世界に誘われているのに、ぼんやり見ているとそれに気付かないように、慎重に仕掛けが作られている。そこがこの映画の優秀なところ。

 ここまでくると、もうおかしい。戦国時代の背景に、こんなバカみたいな夢世界はあり得ない。しかし最初から順番に見ていると、この世界も夢か現実か……? というふうになってくる。展開が本当によくできている。
 しかし間もなくこの夢の世界が幻想でしかない……ということを突き付けられ、突如夢が終わる……という結末になる。『今昔物語』や『檜枝岐昔話集』で描かれた物語と同じような結末を辿ることになる。『雨月物語』は古くから繰り返し語られてきた幻想物語の、1950年時点での最新のバージョンだった。

 サイドストーリーとして語られてるのが藤兵衛のエピソード。こちらも同じように身の丈に合わない栄誉を偶然にも手に入れてしまう……というお話しの、もっと現実的に解釈したバージョンだ。
 戦場で偶然拾った首を持って帰ったら、それは敵大将の首だった。褒美をもらって凱旋……その途中でたまたま止まった遊郭に入ると、遊女達の中に妻が……。
 妻のことなど放ったらかしで、儲けだ出世だ! ……とのめり込んでいった結果、気付けば一番大事に思っていたものを喪っていた。村に帰って妻に手に入れた宝を見せてやるんだ……という時には妻はもういなかった。源十郎も藤兵衛も同じテーマが語られているのだが、二つのエピソードを重ねることで男達の愚かさを、戦争の狂気に飲み込まれる怖さを描いている。

 戦争の混乱の中、一儲けしてやるぞ……と息巻いて飛び込んだ結果、何もかもを喪った。どんな時代でもあり得るお話しだし、終戦からまだ8年しか経っていない時期だから、そのリアリティはこの時代の人々に重くのしかかってきたことだろう。そこに至るまでの物語を、原作の設定を改編したからこそ、より重く、切実に感じられるようになっている。
 それに日本特有の幻想……。源十郎は日本的な貴族屋敷に迷い込んでいくのだけど、そこは日本的美意識の世界。その場面こそ、世界の人々が魅了したところ。あの空間の美しさ、立ち振る舞いの美しさ、衣装やセットの美しさ……それは「日本的なもの」をすっかり喪ってしまった現代日本人にも強く響く。

 1950年代……まだ戦争の爪痕が残る最中で作られた、不朽の名作映画。映像技術が発達した今ですら、再現不能な美学が詰まった名作。そういう作品だから、SD画質ではなくもっといい画質で見たかった……。

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