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英語力ゼロのPRプランナーが、会社を辞めて海外の大学院に行くまでの話。

はじめまして。
PRプランナーの佐藤佑紀と申します。

2014年4月に新卒でPR会社に入社し、2023年2月末に退職するまでの約9年間、PRプランニングやコミュニケーションの企画立案を担当していました。そして現在、個人事業主としてPR関係の仕事を探しながら、2024年9月の海外大学院入学に向けて準備を進めています。

退職してから1年弱が経ちましたが、嬉しいことに、現在もたくさんの方から「無事にやってる?」「今、何してるの?」と現状を気にかけてご連絡頂きます。そこで、2024年のスタートをきっかけに、しっかりと現状を整理するためにも、将来自分がいまの気持ちに立ち戻るためにも、備忘録的かつ自己紹介的に文字に起こしておこうと思いました。(※自分語りが苦手なタイプなので、真っ赤な顔で執筆しています)


|感謝しかない、9年間の会社員時代

ひたすらにPRに打ちこんだ9年間では、国内外のアワードを受賞したり、30歳以下のクリエイターを対象にした「ヤングライオンズ・コンペティション2022(以下、ヤングカンヌ)」のPR部門で優勝し、日本代表として世界大会に出場するなど、嬉しいことがたくさんありました。

特に、ヤングカンヌの日本代表になれた時、自分のことのように喜んでくれた上司や同僚が周りにいてくれたことは一生忘れません。※ヤングカンヌまわりの企画内容などはACCさん主催のイベント等や、PRX Studio Qのnoteで執筆させて頂きました。(PRXQのnoteはPRに携わる人はもちろん、コミュニケーションに携わる方は必見です!)

IPRA Golden World Awards 2019のグランプリを受賞した時も心から祝福してもらいました。すべての経験が、大切な上司や同僚の存在がなければ、味わうことのできなかった貴重なものです。

何より、“元”同僚となった今でも、最高の仲間として付き合いが続いています。何度振り返ってみても、これ以上ない最高の9年間だったと思います。ではなぜ大好きな会社を卒業することにしたのかーーー。

|偏見とステレオタイプに触れた大学時代

ヒトコトで言えば、「海外の大学院に行こう」と思ったからです…が、ヒトコトでは唐突すぎるので、この決断の根っこにある原体験を説明すべく、時計の針を大学時代に戻させてください。

わたしは大学で今も恩師と仰ぐ福田充先生に出会い、先生やゼミ生たちと毎日のようにカルチャー、メディア、社会問題について議論する日々を過ごしていました。卒論を書き始めた2013年頃は、特定の国に対してヘイトスピーチを伴う排外的なデモ活動が多発していた時期でした。

わたしはこれに強い関心を抱き、「インターネットメディアにおける情報消費行動と差別意識の関係性」を卒論のテーマとし、アンケートデータをもとに多変量解析を加え、分析することにしました。

当時、若者にとって重要な情報源となっていたのは、2ちゃんねるまとめサイトでした。2012年に発表された、調査リリースによれば、男性10代・20代、女性20代の3割以上が2ちゃんねるまとめサイトのヘビーユーザーであることが分かっていました。

この調査結果を受け、特にこのプラットフォームでニュースを閲覧する人々の動機・意識・行動を探ることで、インターネット上における差別意識の本質に迫れると考えました。

サイトに記載されていた問い合わせ先を手掛かりに、まとめサイトの管理人に片っ端から連絡しました。交渉の末、いくつかのまとめサイトの管理人にご協力頂き、「メディア利用と韓国イメージに関するアンケート調査」のURLを掲載して頂くことで、455票の有効回答を得ることができました。アンケートに設けた自由記述欄には362件の回答が寄せられました。

結果として、そのほぼ全てが特定の民族に向けた憎悪や悪意に満ちたコメントであり、それは総量にしてA4用紙30枚以上、40,000文字を超えました。この結果は、当時大学生だったわたしの想像を遥かに超えるもので、このことは、わたしにとって、社会にはびこる偏見とステレオタイプに触れた原体験になりました。

|PRの力で社会問題にアプローチしたい

卒論執筆と並行して、就職活動も進めていました。「ジャーナリストを目指すか」「広くコミュニケーションにかかわる仕事にチャレンジしてみるか」と悩んでいましたが、卒論執筆を進める中で、ユナイテッド・カラーズ・オブ・ベネトンで、80年代から90年代にかけてクリエイティブ・ディレクターを務めていたオリビエーロ・トスカーニ氏の広告と出会いました。

彼の、深刻な社会問題に対し、クリエイティブの力で真っ向から切り込む表現方法に興味を持った私は、彼の著書の翻訳版があることを知り、すぐに手に取りました。(※アフィリエイトリンクじゃありません。)

人種差別、戦争、エイズ―およそ企業広告とは縁遠い題材をとりあげ、センセーショナルな話題をよんできたベネトンのカメラマン、オリビエーロ・トスカーニ。つねに非難と称賛の嵐を呼んできたトスカーニが、はじめて自らの広告哲学を語る。

「広告は私たちに微笑みかける死体」紹介文より

一気に読み進めました。中でもインスパイアされたのは、第4章「偏見世界へのミニツアー」での記述でした。彼らのセンセーショナルな広告ビジュアルは、世界中で(現在でいうところの)炎上を巻き起こし、トスカーニ氏は、オーナーであるルチアーノ・ベネトン氏と“表現に込めた意図・背景・思想を解説するための記者会見ツアー”を敢行することになります。

彼らは、世界各地の記者クラブ的な場所で記者会見をおこなうのですが、制作意図が伝わり賞賛されることもあれば、逆に差別主義者の烙印を押され批判の声にさらされることもあったそうです。わたしはこの状況に直面したトスカーニ氏の以下の考え方に強く影響を受けました。

“個人的には引き起こされた議論の強烈さ、激しさこそが、すでに我々のキャンペーンの強さの証だと考えている”

「広告は私たちに微笑みかける死体」第4章より

この考え方に触れ、「この現象の巻き起こし方って…、いわゆる“PRの力“ってヤツなんじゃないか?」という思いが芽生え、その瞬間から、”PRの力で社会問題にアプローチしたい”、いつかトスカーニ氏のように”社会全体に問題提起を投げかけるようなコミュニケーション”を仕掛けたいと思うようになりました。(※このような原点があるので、多少の”議論“も”炎上“として扱われてしまいがちな昨今の状況には息苦しさを感じるところがあります。)

この想いを面接で伝え続けた結果、希望通り、PRを生業とする会社に入社することが叶い、最高の仲間たちと出会うことができました。

|「ワガママですみません、勉強してきます。」

入社してからしばらくは、笑えないくらい失敗の連続でしたが、辛抱強く育てていただき、当時の上司・先輩たちが今では笑いごとにしてくれています。笑 

時は経ち、人並みに仕事ができるようになるにつれ、ますますPRの自由さに惚れ込んでいきました。担当したプロジェクトではいくつかの国内外のアワードも頂き、2021年にはまさに、社会課題を題材にしたコミュニケーションアイデアコンペである、ヤングカンヌのPR部門で優勝することもでき、目指した道の上を着実に歩む日々を送れていたと思います。

最近では、ジェンダー平等、サステナビリティ、働き方改革に関連するプロジェクトなど、興味深いプロジェクトを数多く担当させて頂きました。これまたどれもがやりがいに溢れたプロジェクトでした。

一方で、社会全体・業界全体に目を移した時、炎上 / ブランド毀損リスクを恐れ、「社会問題や論争的なテーマから距離を置こう。」「企業としてのスタンスを強く表明するのは控えておこう」という姿勢が当然のごとくあるように思います(この判断を否定するつもりはありません)。

結果として、社会問題にアプローチするプロジェクトの予算は限られてしまったり、もう一歩踏み込めないものになってしまい、“ボランティア”、“賞取りプロジェクト” と同業者から揶揄されるようなことも少なくない気がしています。

一方、ユナイテッド・カラーズ・オブ・ベネトンの事例に目を向ければ、トスカーニ氏は、広告・キャンペーンを効果的に活用し、人種差別、エイズ、戦争などの問題に取り組み、意識を高め、最終的にベネトンのビジネスを押し上げたというファクトがあります。

わたしはこれを”ジャーナリズム型クリエイティビティ“と捉えています。PRプランナーとしてのキャリアを積むに連れて、自分の原点となった、企業の利益と社会正義の相互関係を実現する”ジャーナリズム型クリエイティビティ“の可能性をアカデミックに探求したいという気持ちが強くなり、そのためには、PRプランナーとしてこのままキャリアを進めるよりも、MBAなどを取得するよりも、社会正義そのものについて学問的な視点を持ちたいと考えるに至りました。

そして、人種、性別、性的指向、経済的地位、障がいなどに関する幅広いトピックを対象に、社会における正義、平等、公平を研究する“Social Justice Studies”という学問の存在を知りました。

とりわけ、国民の5人に1人が移民であり、1971年には世界で初めて多文化主義政策が導入されたカナダは “Social Justice Studies”の分野の先進国であることが分かり、ここに何かヒントがあるのではないかと思い、(英語が全く話せないのに)カナダでこの学問を専攻することに決めました。

この決断に対して、上司・同僚からは、とても心配してもらいました。「英語が喋れないのにどうするんだ?」「家族がいるのに資金面は大丈夫なのか?」など、自分のことのように心配してもらいました(正直、涙が出るほど嬉しかったです)。

が、最後は「どうなるか想像もつかないんですが、ワガママですみません、もっかい勉強してきます。」ということで、背中を押してもらい、大学院に提出する推薦状を快く執筆頂くほどに、いまだに力強く後押ししてもらっています。

|現在、そしてこれから。

大前提、英語が話せなければ大学院に出願すらできない…ということで、英語力ほぼゼロの脳ミソを叩き直すため、語学留学のため、最終出社日の1週間後にフィリピン・セブに向かいました。毎日7時起床 ⇒ 12時間英語学習 ⇒ メシを食いながら英語のYouTube ⇒ ベッドの上で英語のYouTube という英語漬け生活を3ヵ月間過ごし、英語アレルギーを解消しました。

帰国後も、海外PR事例やカンヌライオンズのセミナー動画などを英語で視聴しながら情報収集&学習し続けた結果、TOEICのスコアは400点台(中学卒業レベル)⇒ 800点台に。大学院出願に必要な、IELTSというテストでも無事、大学院の出願ラインであるスコア6.5を取得することに成功。約半年かけて、なんとか大学院出願に必要な英語力を手に入れました!(授業についていくために引き続き勉強中ですが)

秋口からは、志望理由や履歴書などを英語で執筆したり、その他諸々の準備をしたり、10月に生まれた第一子の子育てに励んだり、などしていたら、あっという間に2023年が終わりました。

なんとか2023年内に、カナダの大学院に出願を完了しました。結果は2024年3月頃に出る予定ですが、もし受かっていれば秋の授業開始に合わせ、家族とともに2024年8月頃には日本を離れる予定です。

大学院への出願は無事ひと段落し、時間はあるのですが、こんな状況ということもあり、定職につくことも現実的ではないかなぁ…と思っており、2024年1月からは個人事業主として、PRのお手伝いを始めたいと思っています。

人手が足りないなどあれば、なんでもやりたいと思いますので、お気軽にお声がけください!

最後、営業みたいになってしましたが、結局のところ、海外大学院での学びを経て、ひとまわりも、ふたまわりも大きくなってPRの世界に帰ってくることが大きな目標です。

もちろん家族の事情も含めての決断でしたが、自分自身の目標と今の気持ちを忘れないために、長々と書かせてもらいました!(どこも受からなかったらとっても恥ずかしい。)

引き続きご指導・ご鞭撻のほどよろしくお願いします!

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