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コーヒーと本 Vol.41 - 鈴木志郎康 詩集

現代詩文庫 22
鈴木志郎康 詩集 (1969) 思潮社

久しぶりにぶっ飛んでいる詩集を今回の「コーヒーと本」コーナーで紹介します。

それは、鈴木志郎康(すずきしろうやす)さんの詩集

記事を書きながらネット上のニュースも確認していたら、ちょうど鈴木志郎康さんの名前がタイトルの記事が。今月の8日にお亡くなりになられたことを知りました。

このネット記事の写真ではやわらかそうなおじいちゃんですが、この方の詩集は、もう一度繰り返しますがぶっ飛んでいます。

「ぶっ飛んでいる」ぐらいの語彙力しかないぼくです。彼の言葉をどれだけ理解できたのか、できていないのかわかりません。

でも今現在読み進めている思潮社の現代詩文庫の中で、今のところ一番挑戦的であり尖っています。

この詩集を読んだあとはプアプア(度々詩に出てくる登場物)に頭の一部が支配されてしまうぐらい強烈な詩集です。

そしてここまで「男根」という言葉が出てくる詩集は後にも先にもないのではないでしょうか。
途中で読むのを止めたくなる気持ちがなかったと言えば嘘になるぐらい、読むことにある程度の忍耐力が求められる詩集でもあります。

彼自身の言葉を借りるならば「猥雑な思念」を言葉にせずにはいられなかったということになります。そしてその言葉は他者が紙面上で述べることはまずなかろうものが多く含まれています。だからこそ、彼の両親はこの詩集が出版されることに反対していました。

父母はこの私の詩集出版に反対して、詩よりも健全な家庭をつくることに意を用いよ、といった。私は詩は健全であると反論した。

世間体を考えればご両親の言葉は当然だとも思えます。それぐらいの内容の詩集です。でも彼は世間体を気にする以上に、それが自分の役目であるかのように猥雑な思念を言葉にしました。

興味深いのは、そんな前衛的な詩集とは対極にあるようなNHKに彼は勤めていた(16年勤務して後に退職)ことです。しかしながら、彼の詩論・自伝を読んでみれば、彼は実はものすごく誠実でものすごく臆病なぼくらと同じ人間ということがわかります。

あるときはサラリーマンをしながら、詩を書くことでバランスを取っていたのでしょう。彼の言葉を借りれば、詩を書くことで従属からの脱出を試みていた。

それではそんな鈴木志郎康さんの詩集から気になった箇所をまとめてみます。太字になっている箇所は個人的に特に気になった言葉です。「コーヒー」という単語が出てくる箇所も太字になっています。

決着(一部抜粋)

ある時ある国ある男はコーヒーを飲みながら不安であった
生きもののからだには手を触れまいと決意した
つまり人間のからだには手を触れまいと決意した
つまり女のからだには手を触れまいと決意した
・・・
海に落ちた女の声は柔らかくコーヒーを飲んでいた彼の心を包んだ

法外に無茶に興奮している処女プアプア(一部抜粋)

夢にあるのですか 夢は武器ですか
何を撃つのですか
殺せますか
言葉で
私を

番外私小説的プキアプキア家庭的大惨事(一部抜粋)

今じゃ詩は死を呼ばないんだなあ

白色の巨大紙(一部抜粋)

私はコーヒーを注文する
コーヒー店の内部だ
男である私、しかし私でありながら常に私よりもずっとハンサムになって行く男である夢中の私
おまえである少女、処女のまなざしでコーヒーを運んでくる
男は、今しがた私である別の女と朝方まで相手の肉体に耽っていて、今しがた日の出の後に、疲れた精神と肉体を休めるために、コーヒー店に来たのだ

詩論・自伝

浴室にて、鰐が(一部抜粋)

私はまだ言葉に乗って虚空に至る勇気がない。実際、小説(永遠に向って述べたてる嘘)を描くには大変な勇気が必要だと思う。これは「小説だから」何を書いても「よい」という、いや何でも書くという堅い決意に立たなくてはならないし、言葉ひとつひとつに対しても、更に言葉が形成する想像に対して殆んど狂信に近い信頼を持たなくてはなるまい。そうして虚空に向って出発し、最早決して戻ってくることはないのだ。しかし、人間は全然何も知らないということもない。知っていることを足場にして想像に身をまかせる。それと同時に想像を言葉に換えて行く。こんなことはわかり切ったことだ。では何故言葉に換えるかとなると、他人に伝えるためだ。すると想像に身をまかせるから、言葉に換えるところまで来ると、その想像の主体は変らなくても、明らかに極面が変ってしまうことになる。言葉を持ち出すと途端に他人に直面することになってしまう。しかしこの境界は余りきっぱりとはしていないようだ。実際には言葉を持ち出して他人と直面しているのに、当人は他人に直面しているということに全く気付いていないで過せることもある。そして更に他人に対する仕方というのも人々によってかなりの違いがあり、作家にとって実にこの他人の認識の仕方が言葉の質を決定しているともいえる。
 私は殆んどいつも言葉によって他人の中に踏み出すことを夢見ている。しかし私の知っていることの内容の貧しさが先ず気持をくじけさせる。次いで私にとっては殆んど全く見知らぬ存在であって、その前に出たら、鼻先きであしらわれてしまうか、或いは殴り殺されてしまうかするに違いないと思い込んでいる他人が私から勇気を奪い去るばかりか、私を恐怖の中に投げ込むのである。そうして私は黙り、単純な私個人の想像の中に安住して終ってしまう。
・・・
 私はもう慣れてしまったけれど、殆んど毎日びくびくして生活している。勤め先で仕事にとりかかりながら、自分が今大きな過ちを行っていて、大失敗を犯して取り返しのつかない事態に直面させられるのではないかと、ふと思うことがある。それは、こうした自分の考えを書きとめているときなどには、絶え間なく私につきまとっている。それは正に他人の前に立たされ、その他人が私について何事か決定しようと、おそらくそれは審判を下そうとしているのだ。私が彼に忠実に順応しているかどうかを見張っているように思える。これは私が他人に対しているという認識であり、その他人に対していつか反逆を企てようという考えが常に頭の片隅にあることの裏返しなのだろう。
 だが、いかに反逆的な心根が私にあったところで、私は余りにも受身である。確かに普段の日常生活では私は順応することに心掛けている。私は自分の反逆する心を解放して、それを私の行動の指針とすることはない。実はこのことこそ審判を受けて断罪されなくてはならないことなのだろう。こうしたことは私の何回目かの同じ結論なのだ。それでも私は自分の日頃の行いを改めようとはせずに、順応についての見張りの目の下で、びくびくしながら生きながらえている。
 私は私の使う言葉によって、一挙にこの従属から脱出してしまいたいと考えるのだ。浴室にて、鰐が私を喰ったという想像の後に続いてくる言葉、それは私が小説として書こうとした言葉なのだが、それではたして私の順応的な立場を一挙に他の立場に移し変えることが可能であったろうか。とてもそれは考えられない。その言葉によって、私はいくらか私自身を暴くことになったとしても、私を従属させているもの、私が順応しているものは無傷であり、結果は同じだ。つまり、自らを擁立し、解放しようとするならば、言葉を自分に向けたのでは役に立たないのだ。相手を傷つけ、順応の壁を破るために言葉を使うのでなくてはならないのだ。それは順応しているものたちを侮蔑し、挑戦し、否定し去らなくてはならない筈だ。彼らが後生大事に守っているもの、これをきわだたせ、否定し去らなくてはならない筈ではないか。それは私自身が絶え間なく身を置いている日常生活の中に拡散しているものであるだけに、きわだたせることは非常に困難なものであり、又きわだたせる作業は恐らくいやおうなしに、私自身を何らかの立場へと導くことは必定であるから、勇気も必要だろう。
 

作品論・詩人論

鈴木志郎康と「それから」の代助 飯島耕一(一部抜粋)

 このあいだ池袋で上井草行のバスに乗り、買ったばかりの毎日の夕刊を眺めていると中野好夫が「夏目漱石」(”文明開化”への批判と疎外感)という文章を書いていた。そこでぼくは次のような漱石のことばにちょっとした衝撃を受けた。新聞の夕刊の記事などにこの種の衝撃をうけることはめったにない。そこには次のような活字が並んでいた。「日本は西洋から借金でもしなければ到底立ち行かない国だ。それでゐて一等国を以て任じてゐる。・・・あらゆる方面に向って、奥行を削って、一等国丈の間口を張っちまった。・・・目の廻る程こき使はれるから、揃って神経衰弱になっちまふ。・・・日本国中何所を見渡したって、輝いてる断面は一寸四方も無いぢゃ無いか。悉く暗黒だ」。
 「借金」というところには中野氏の註がつけられていて「もちろん文化的借金である」とある。ぼくがうむと唸ったのはもちろん最終節である。はじめのほうは今となれば誰でも言うことだし書くことだ。しかし(引用は「それから」の代助のセリフだが)次のようなところ、「日本国中何所を見渡したって、輝いている断面は一寸四方もないぢゃないか。悉く暗黒だ」と言う個所にはくりかえすが人を唸らせるものがある。・・・
 さきほど引用した(中野好夫がさきに引用していた)部分は前から三分の一ほどのところで、中野氏が点線で省略したところは次のようになっている。「あらゆる方面に向って、奥行を削って、一等国丈の間口を張っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。其影響はみんな我々個人の上に反射しているから見給え。斯う西洋の影響を受けている国民は、頭に余裕がないから、碌な仕事は出来ない。悉く切り詰めた教育で、さうして目の廻る程こき使はれるから、揃って神経衰弱になっちまふ。話をして見給え大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日の、只今の事より外に、何も考へてやしない。」
 こう彼は三千代の夫である平岡に話すのだ。
 と平岡がどう答えるかも一つの見ものである。
 「そいつは面白い。大いに面白い。僕見た様に局部に当って。現実と悪闘しているものは、そんな事を考へる余地がない。日本が貧弱だって、弱虫だって、働らいているうちは、忘れてゐるからね。世の中が堕落したって世の中の堕落に気が付かないで、其中に活動するだからね。君の様な暇人から見れば、日本の貧乏や、僕等の堕落が気になるかもしれないが、それはこの社会に用のない傍観者にして始めて口にすべき事だ。つまり自分の顔を鏡で見る余裕があるから、さうなるんだ。忙しい時は、自分の顔の事なんか、誰だって忘れているぢゃないか
 「それから」を終りまで読んで、また立ち戻るのは、やはりさきほどの「日本国中何所を・・・」という代助のことばだ。そしてそれが今も実感として胸に来る。この時代から六十年たって、代助のこのことばをつよく否定する材料をぼくは自分の心のうちに容易に見出すことができない。代助はこの小説の最後で否応なしにあれほど嫌っていた世の中へ出て行くことになる。「『門野さん。僕は一寸職業を探して来る』と云ふうや否や、鳥打帽を被って、傘も指さずに日盛りの表へ飛び出した。・・・代助は車のなかで、『ああ動く。世の中が動く』と傍の人に聞える様に云った」。
・・・
この詩集(『罐製同棲又は・・・』)以降に彼の書いたものでは「浴室にて鰐が」が面白かった。だがもう一度「凶区」のあの読みにくいタイプオフの活字で読みかえす気にはなれないので、この文庫ができてからもう一度読んでみることにする。人にもう一度読ませるということは大へんなことなのだ。
ぼくには大江健三郎の小説も開高健の小説も二度どころか一度目も最後まで読みきることができない。まず大抵の現代の同時代の小説家は読めない。漱石からみると、ずいぶん衰弱している。しかし「浴室にて鰐が」はもう一度読んでもいい、そういった稀れな散文である
・・・
河原温はメキシコに去り、長谷川(龍生)も田村(隆一)もほとんど沈黙している。鈴木志郎康は現実への憂欝と焦燥と嫌悪に今しばらく堪える義務がある。まったくのところ、詩は誰かがやらねばならず、誰かがやってみればいいのである。

のてのてに絡まれて十三年 木葉井悦子(一部抜粋)

・・・
夜は六時頃彼は局を出て、広島駅のウエシマコーヒーショップまで歩いて、そこでメモをしたり、日記を書いたり、東京に向けて手紙を書いたりして、そこから又歩いて市の繁華街にある紙屋町本通りで本屋を三、四軒歩きまわってバスに乗って八時前後に家に帰ってくるといった具合で、私の方は八時をめざして四品乃至五品の料理をつくり帰ると同時に一番おいしい状態で食事が出来るように、あらゆる気を配っている。
・・・
 カッコいい男は自分自身の肉体について本当によく知っていて、トータルに自分の魅力を他人に売りつける方法を知っているが、自分のいる位置については知らない。カッコ悪い鈴木志郎康は腕だけボキンとつき出したり、顔だけぬーうとあらわれたり、全身がお尻になったかと思えるへっぴりごしで立ちあがったり、足だけべったり床にへばりついていたり、彼の肉体はいつもばらばらに一コ一コとして押し売りしてくる。彼は自分の肉体について諦めているのか、それとも知らないのか、それとも見ないことにしているのか。彼の最もいやらしいところは自分の姿を知らないのに自分自身の位置を正確に知っていることだ。

この裏表紙の個人写真から異様な雰囲気を感じることができるかもしれません。

と、こんな感じで個人的に気になった箇所だけをピックアップしてきました。これだけ読むと何がぶっ飛んでいるのかわからないと思います。

この詩集を読んだ人にしかわからないものが確かに存在しています。

なんとなく詩によってはバロウズのカットアップっぽいところがあって(でも寸断されてぶったぎられている訳ではなくて、首の皮一枚でつながっている感じがある)、それもすごく新鮮でした。

今現在の「前衛」の言葉による表現活動がどのようなものになっているのかは知りませんが、1960年代にこのような言葉による詩集が出されていたことに驚きです。この詩集のインパクトを超えるものが現在に置いてどれほどあるんだろう。

そして改めて、こんな詩集を出版していた思潮社。すごいです。このような詩集を評価するって勇気のいることだと思う。

ぜひ興味本位で良いのでこの詩集、読んでみてください。そうしないと、ぶっ飛んだ感を共有できないのです。


<今日の誕生日> 9月24日 Peter Salisbury (1971 - )この日生まれたイギリス出身のドラマー。The Verveのメンバー。



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