「死」と死後の世界 〈死は存在しない〉パートⅡ💫 矢作直樹著「魂と肉体のゆくえ」を読みながらヌーソロジーも絡めつつ💫💫💫
10月の或日の事だった。
朝をFBを見ると知人からメッセージが。
「N君が亡くなったって。脳梗塞で今日が告別式」
ぼくは驚いた。N君は同い年。その3日くらい前にどでかい鍋で屋外で大量の落花生を茹でている姿を見ていたからだ。
「えっ!!」
驚きとともに少しの間ショックを受けた。残された奥さんと小さな子ども。彼に取り付けてもらってメンテは彼に頼もうと思ってた我が家のエアコン。
「おーい!まじか〜!!」
ぼくももうそんな年齢なんだな。平均寿命は上がってるとはいえ、ぼくもいつ肉体が終わるかはわからない。ある日突然そんな日はくるかもしれない。周りから訃報もこれから増えてくるかな。しみじみとそんな事を思った。
ぼくは死生観が少し(?)変わってて若い頃からあまり死を深く悲しむということがない。会えなくなるというのは寂しく感じたりするが。親父の葬儀の折、姉がぼくの妻に「TERUTERU5って変わってるのよ、あまり悲しまないのよ」とボソッと言ってたことも覚えている。亡くなった人を想えば涙は出る。親父の告別式で集まってくれた方々の前で挨拶した時は人目を憚らず大泣きした。感情が爆発した。
しかし、ぼくは「死」はそこで終わりではないと思っていたし、ここ数年で確実に「生」と「死」は地続きだと確信している。
今年の2月にこのような記事を書いた。
(こちらの記事では量子真空間、ゼロポイントフィールドという考えを紹介しているが、その在り方についてはぼくは現在保留中です🙏)
この時よりさらに死と生に対する思索は進み、「死」は終わりではないという感覚もさらに深まっている。
友人の死を悼みつつ、また「死」について書こうと思ったのだった。
矢作直樹著「魂と肉体のゆくえ」
彼のことはnoteの記事や他のSNSで知った。
東大医師の死生観、同じく死後の世界は存在していると説いている。
以下要約引用
いまぼくが勉強しているヌーソロジーやシュタイナーでも肉体がある時は魂、そこから抜けると霊というのは一致している。
ヌーソロジーの場合は人間の意識階層の奇数側が霊的世界の霊体の意識階層、偶数側が物質世界における魂と肉体の自我意識の階層となる。
奇数側は視覚において《見る》事はできないが、
空間認識を変えることで、感じて思索して描像さることは出来る。
再び矢作さんの著作より
《「命を永続するもの」として見ているからです。我々のからだは永続する霊魂と、今生でまとう肉体でできていると考えています。》
肉体が死を迎えても霊魂は永続するとあるが
これが上の奇数側の世界。ヌーソロジーでは持続空間とか純粋持続、本当の奥行きと呼ぶ。
そこに境はなく時間は空間化されもはや流れない。
《肉体が死んでも魂は生き続けます。ではその魂は何処に行くのか、懐かしい家であるその場所はどこにあるかといえば、じつは、いまのこの世界と同じ場所にあるようです。その世界は目の前にあるというより私たちのいる世界と重なっていると言い換えてもいいと思います。》
そして、ここが最も矢作氏の言葉で重要なところだと思うのだが、いまのこの世界と同じ場所にあるという。
そう、ぼくらが今いる世界が霊の世界なのだ。
見えてる世界は何度も書いてきたように、視覚でしかなく、そこに出現している物も動植物も人間も宇宙空間も霊的世界側の精神活動が素粒子となって出現してきたものなのだ。
素粒子が原子、陽子、そして物質となっていってぼくらが肉体をまとって生きている世界がカタチ作られる。
その本質は霊だから、ぼくらは生きながらにして死後の世界、霊の世界で生きていると言えるのだ。
ぼくはここ最近この感覚で生きている。
死は存在しない。
肉体が滅びようとも霊として存在していく。
これを事実としてぼくは生きている。
美しい景色
美味しい食べ物
気持ちの良い温泉に入りながら
《見えてる世界はあちらの反映
見えてる世界も霊の世界
今ここが霊の世界》
他の人が見たもの、美しい景色、面白いもの、感動したこと、喜びや悲しみに共感しつつ
勿論仕事場であくせく人にまみれて働きながら
家族や友人と生活をともにしながら
ぼくらは死にながらにして
この生を享受し
やがてくる
肉体との別れの日まで
生と死の意味を噛み締めながら
命を
魂を
味わい尽くすのだ。
ご一読ありがとうございました。
参考ブログ
参考文献
こちらの本はサクッと読めちゃうので大変おすすめ💫
以上です💫💫💫
ナマステ✨
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