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心のアルバムを巡って

この冬、スタッフをしている屋久島のカフェに薪ストーブがやってきたので嬉しい。…と思っていたら立春を過ぎた頃から春めいてきて緋寒桜が咲き、昼間は暖かくなり。2月下旬になると島の南部では桜が満開に。

3月の今は、三寒四温のような暖かい日と肌寒い日を繰り返していて、島の春がどんどんひろがってきている。冬から春への移り変わりが早い。

南部の緋寒桜が満開だった頃

春が早くもやって来た中で、先月のことを書いてみる。(書いているうちに3月に突入) この2月というのは、子どもの頃の自分と出逢い直すようなタイミングだった。

きっかけのひとつは、カフェのオーナーご家族が毎年娘さんの誕生日にネット注文、編集してプレゼントしているというフォトブック。

娘さんが誕生日を迎えるたび、最新巻を作ってプレゼントしているというそのフォトブックは、沢山の写真に温かなメッセージ、心豊かな暮らしが伝わってくる素敵すぎる作品で、大感動してしまった。

保育園に通っている娘ちゃんは「わたしの写真見て!ここ読んでみてよ。」とせがんできて可愛かった。そうしているうちに、実家にある自分のアルバムの存在と子どもの頃のことを思い出したのだった。

薪ストーブで焼き林檎

子どもの頃のことを思い出すと、実際のところ幸せは存在していたのだけど、心が重たさと影を纏い、幸せの軸から滑り落ちていることがあった。

幼い心で、歪んだメガネを通して現実だとしているものをみていた。要は必要以上に悲観的な見方をしていたり。親が撮影し保存してくれた分厚いアルバムが十数冊あったくらい、愛情が注がれていた世界のなかで。

子どもの私にとっては致し方なかったとも言えるけど、受けとめ切れないように思えた現実を静かに見つめられるようになるまで、今まで沢山の感情との出会い直し、解放が必要だった。

ほんとうはあれこれ試行錯誤しなくても、自分自身と繋がっていられていいわけで。でもどんなプロセスが起きていたとしても、そこには祝福がある。今はそう思う。

ありのままの素直な気持ちや感性で育つ人、大人になってから機会を重ねて鎧から解放されていく人。私はどちらかというと後者の側面があるけど、できれば素のまま、安心の世界で生きる人が増えたらと願う。

先日、子育てに奮闘する友人と話しながら『私という存在は揺るぎなく愛されているという自信』という「存在性に対する自信」は、本当に大切だねという話題になった。

子どもの頃に揺るぎなく愛されている自信を育んだかどうかはとても大きいと、大人になっていっそう感じる。10代20代の頃は、いや30代前半まで?見せかけじゃない本当の自信を探していた。

自信ついてきたかも、自分軸ができてきたかも、と感じてきたところでがっかり事件→復活を繰り返す。探してどうするんだよと、書いていて笑ってしまうのだけど、当の本人は混乱しながら生きていた。

けれど、子どもの頃をどう過ごしたとしても、大人になってから内なる気づきや生命力を養い育むことは可能だ。期間はかかったけれど、ようやくそれらを体現できて来ているように思う。我ながらようやったなーとそこは褒め褒めしてあげたい。

あるとき、幸せを生きるためには覚悟が必要だなと思ったときがあったのだけど、癒しを終えるのにもまた覚悟というか、ちょっとした決意は必要なのかもしれないと最近感じている。まあ、諦めずに何とかやってきたわけだけど、冬がすぎたら春を迎えるしかない。今年は新章への移り変わりのタイミングだ。

湯泊の夕陽

以前ある方から『自由とは、沢山の選択肢から好きなものを選べるということでなく、ひとつしかない自分自身の答えに気づいていること』というメッセージを頂いたことがある。

沢山の旅と出会いを通して、自分自身の声を聴いていた。それらの声と繋がることで段々と自由になっていった。自由であることと、未知の可能性を生きることはこれからも大切にしていく。今迄のアルバムをそっと閉じて。シンプルな想いで、身軽な旅路を歩いていきたい。

千尋の滝の桜

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