連載【短編小説】「あなたの色彩は、あなたの優しさ、そのものでした」第四話
登場人物
三守琥珀
わたし。二十歳の大学生。蜜柑への親友以上の感情を自覚している中、PSYさんの登場によって気持ちが揺さぶられ始める。
円谷蜜柑
わたしの親友。学年は一つ上。とにかく明るい。
橘真紅
蜜柑の高校時代の美術部の先輩。現代アーティスト。
PSY
真紅さんの知人。水彩画アーティスト。視線恐怖症。
前回のあらすじ
真紅さんと蜜柑を通じ、PSYさんからわたしのもとに、「この間のことを詫びたい」というメッセージが届く。悩んだ末に、分かりましたと返事をすると、真紅さんの提案で、PSYさんの作品が展示されている大学病院で会うことに。わたしは蜜柑を連れ、PSYさんと再会。そして初めて、PSYさんの作品を観る。観賞後、トイレを済ませ、蜜柑のもとに戻ろうと思っていた矢先、男の子の泣き声を耳にし、気になって廊下の奥へと向かうと、そこには群青色の背中があった。
「――なに、してるんですか?」
若干、声を震わせながら、恐る恐る見知った背中に問いかける。
群青色の大きな背中は、わたしの声にぴくりと反応を示し、泣きじゃくる男の子の前で、しゃがみこんでいた姿勢のまま、後ろを振り返った。
――やはり、PSYさんだった。
PSYさんは、わたしの方に顔を向けた後、再び男の子の方に向き直った。左手で男の子の左手首をつかむと、これから注射でもするかのように、袖がまくられ、むき出しになっていた細くて白い腕の腹を、右手の人差し指と中指で、ハンドクリームでも塗り込むように上下に撫でさすった。男の子がひっく、と声を漏らすと、次第に潮が引いて行くように男の子の泣き声が静まっていき、不思議なことに、間もなく泣き止んだ。そして、男の子の目の下の涙の跡を親指で拭った後、PSYさんは何故か、「あ、ごめん」と謝った。
立ち止まっていた足を進め、一歩、二歩と、慎重に距離を詰める。PSYさんはわたしのことなど気にするそぶりも見せず、男の子の手首を握ったまま、じっと何かを待つように押し黙っていた。泣き止み、しばらく放心状態だった男の子が、すっと頭を動かし、PSYさんの顔を見つめたように見えた。すると、PSYさんはひとつ頷き、よし、と男の子にか、あるいは自分に向けてのようにつぶやくと、ゆっくりと立ち上がった。
からだを斜めにして、PSYさんのからだに隠れていた男の子の目元をちらりと見ると、少しだけ黒く汚れていた。さっきのごめんは、自分の指先に付着していた絵の具が移ってしまったことを謝ったのかもしれない。
PSYさんがこちらを振り返る。
「もう画は、観終わったんですか?」
「――あ、はい。一応。あまり上手くは言えないんですけど、素敵な画だなと思いました。クジラの表情も良いですし、何より色彩が良いなと思いました。――ごめんなさい。良いな、くらいしか言えなくて」
PSYさんはわたしの肩の辺りに視線を送ったまま、
「琥珀さんの感情に、何か触れるものはありましたか?」
――感情?
「僕はある人から、人の感情には色があると教わりました。人には喜怒哀楽と言う基本感情がありますが、それぞれ固有の色を持っているようですね。喜は、同音異義のように黄色の系統。怒は、血走る血管や顔が赤くなるのと同じように赤系統。この二つは暖色ですね。それから哀は、ちょうど今、僕が着ている青や紫。楽はまるで虹のように、さまざまな明るい色が組み合わさっているようなイメージがあります。もちろん、今僕が挙げた色は、あくまでも一般例に過ぎません。それぞれの感情に、補色ではなく、色相環の正反対の色を重ねる人もいるでしょう。以上は、ある人から聞いた話ですが、琥珀さんは僕の画を見て、どのような気持ちになりましたか?」
問われるまま、思い返し、あの時感じた感情を探る。
――あれ、おかしい。何の感情も浮かんでこない。そんなまさかと思うのだけれど、あの時、わたしが感じたことは、美しいという美的感覚だけだった。
「僕たちが画を描く時と言うのは、往々にしてイメージした色が手元にない場合があります。そもそも、その色の絵の具が欠けていたり、イメージした色が文字通り、多彩などの場合です。そんな時、僕たちはどうするか。異なる色を混ぜて新たな色、それまでこの世には存在しなかった色を生み出す必要が生じます。そう言う意味では僕たちは、色と共にある存在と言えるのかもしれません」
――突然PSYさんは、何を語りだしたのだろうか。感情の色? 色と共にある存在? わたしにはまるでチンプンカンプンだった。
「僕はあなたを一目見た時、直感的に何かが足りないと思いました。それは元から欠けていたのか、後に失ったのか。僕には知る由もありませんが、僕にはあなたの一部が、無色に見えるんです」
――今、分かった。
これだ。初めて会った時に感じたものは。
まるで、わたしの心の中を見透かしたようなまなざし。それはPSYさん個人と言うより、画家としての視線を通して見通されたものなのかもしれない。色を使う存在にしか見えない、わたしの中の欠損。いや、欠色。ただそれは、わたしだけのものではないはずだった。十年前、あのブラックアウトを経験した人は皆、同様に抱え持たざるを得なくなったもののはずだ。わたしひとりが特別なんじゃない。特別じゃないからこそ、あえて口にする必要もない。だって、ありふれているんだもの。そんなことを語って何になるのか。同情を引く? そんなの馬鹿みたいだ。知らない人は知らないままで良い。知っている人同士でも、お互い見て見ぬふりをすればいい。そうやってやり過ごすことが、日常を生きるためには必要だったのだから…。
「――そうやって涙を流しても、やはり色がないんですね。話には聞いていましたが、当事者に会うのは初めてです。あの人はまさか、このために僕を…」
わたしは自分の感情とは関係なく、涙を流していた。悲しみなど、微塵も胸中にはないのに、小雨に打たれているかのように、頬を雫が伝った。こんな顔、こんな姿、誰にも見られたくない。
「――お姉ちゃん。お姉ちゃんは、なんで泣いてるの?」
いつの間にか、さっきまで泣きじゃくっていた男の子が、わたしのそばに立っていた。すっかり涙が渇き、澄み切った瞳でわたしを見つめる。まるであの、クジラの瞳のようだった。弟の太陽をほうふつとさせる。わたしは涙を否定するように首を振る。
「泣いてなんかいないよ、お姉ちゃんは。太陽の前で泣くわけないじゃない。――むしろ、太陽の方でしょ。あの時、ずっと泣いていたのは。明かりが何一つなくなって、何も見えなくなって、ただ、掴んでいた手が、お互いの手だと信じるしかなくて。不思議だよね。姉弟なのに、光を失ってしまうと、お互いのことも分からなくなっちゃうなんて」
「お姉ちゃん?」
だらりと、ぶら下げていたわたしの右手に、小さくて柔らかな手が触れる。少し冷たい。その手はわたしの四本の指先を握り、そっと束ねた。まるで太陽のようだと思うけれど、今の私が太陽の手を間違えるはずはない。その手は、紛れもなく男の子の手だ。わたしは涙で瞳を潤ませたまま、
「なあに?」
と問いかけた。
「悲しいときはね、あのお兄さんに頼ると良いよ。お兄さんに腕をさすってもらうと、すぅって、悲しみが引いて行くから」
瞬きをすると、ぽたりと涙が床に落ちた。
わたしは顔を上げ、PSYさんを見つめた。その瞳は、変わらずにわたしの方に向けられてはいたけれど、決してわたしのことを直視することはない。いや、直視したらどうなるのだろう。直視したらすべてが見えてしまうから、見ないようにしているのだろうか。
再び男の子を見下ろし、
「うん。ありがとう。もしもの時は、お姉ちゃんも頼ってみるね。あの人に」
「うんっ」
大きく頷いてそう答えた男の子は、指切りの小指を切るように、ぱっとわたしの手を離した。そのまま元気よく走り出すと、あっという間にどこかへ行ってしまった。
PSYさんに視線を戻すと、わたしは今、どうしても尋ねなければいけないことを、はっきりと言葉にして伝えた。
「――PSYさん。あなたって、何者なんですか?」
つづく
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