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スーパーポジティブマンが社交不安障害と鬱病になった話。


はじめまして。
私は現在22歳、大学4回生で
もう4月からは社会人になります。

これから綴っていくものは、私の人生において最大の暗黒時代であり、
正直、できれば経験しない人生でありたかったなぁとも思います。

でも、現実問題、私と同じように
苦しくて、今にも息ができなくなるような、暗闇の中にいる方もいると思います。

精神疾患はどんな人でもなり得る恐ろしいものでした…。

でもこの記事の内容から
誰か1人でも
勇気づけられることができたなら…。
そんな想いで、

今回、私のありのままを話そうと思います。
下記からは、私の素直な気持ちを表現したいので、話し言葉に変わります。
どうぞ、長い物語になりますが、
誰かに届きますよう…。


大学3回生 突然の過呼吸

私は、その日、大学の授業で
グループワークのプレゼンをする日だった。
私が1人、教室のみんなの前で話す日。

自分が元々人前に立つことに苦手意識があるのは知ってた。でも、今までなんだかんだ乗り越えてきた。

今回も

「まぁ、どうにかなるやろ。」

ポジティブシンキングだった私は、そんな事を考えていた。

(話が逸れてしまうが、私は本当にポジティブ人間だった。何か悪いことが起きても、寝たら忘れるタイプだったし、
落ち込んでも、落ち込んでる時間無駄やな〜なんて思って、楽しいことをして気持ちを切り替えるノウハウを持っていた。
自分がそんなんだから、病んでいる人の相談に乗るのは得意だったし、
周りからも、メンヘラホイホイ(笑)なんて言われるほどに、病んでいる人の心に寄り添うのはわりと得意だった。
今思えば、自分のココロに余裕があったから、病んでいる人の話を、うんうんって優しく包み込んで聞けてたんだろうなぁと。)

そんな私がその日

いざ、プレゼンを始めた。

…あれ、なんかおかしい。

声が震えて、全身に寒気が走る。

「このような企画を立てt…」


あ…。息が吸えない。

30秒ほど話したその時

私は遂に、声が出なくなった。

そして、呼吸がどんどんできなくなる。
いわゆる、過呼吸。

人前に立ったまま黙り込んで、息ができなくなった私は
恥ずかしさのあまり、咄嗟にそのまま教室を飛び出し、
トイレへ逃げ込んだ。

トイレで泣き崩れた。

とても、怖かった。

その日はなんとか、死ぬ気で家に辿り着いて
その日に起きた自分の異変を、スマホで検索した。

すると【社交不安障害】というワードが沢山出てきた。

症状を見てみると、その日の件は勿論のこと、
自分の人生を振り返ってみると、
思い当たる節だらけだった。

小学校の国語の授業で、音読の順番が回ってくるのが怖くて、手が震えと吃りに恥ずかしさを覚えていたこと。

中学校の時は、赤面症を、クラスメイトに笑われて、恥ずかしい思いをしたこと。

高校の軽音部では、ステージに立つと緊張で手が震え、動悸と汗が止まらず、練習の成果を全く出せなかったこと。

ステージが終わった後は、顔が真っ赤すぎて、周りから心配されるほどだったこと。

また、その頃から電車に乗るのが怖かった。
人の目が怖いのはもちろん、自分の目線が、人を嫌な気持ちにさせるんじゃないかって。

心臓バクバクさせながら
必死に下を向いて通学していた。


そんなこんなで、私は自分が社交不安障害である可能性が高いと自覚した。

それはいいものの、これからどうしよう。

授業はそれ以来行けなくなった。
不登校ってやつ。

電車もろくに乗れなくなった。

外に出ることができなくなり、日常生活もままならなくなった私は

心療内科にいく決断をした。

初めての心療内科、正直、抵抗があった。

「ただの甘えなのでは…?私みたいなやつが行っていいのかな…」

でも、もう、頼れる所が病院しかなかったから。

実際、病院に着くと
最初にすごい量の問診票を書かされた。びっくり。

そして、いざ、先生と対面。

先生から出た言葉は予想通り。

「社交不安障害だね。」

そこからは投薬治療が始まった。

不安を少し和らげる薬と、緊張する場面の前に飲むと効果がある頓服の薬。

その薬で治療を進めつつ
大学4回生になってからは、なんとかゼミに行く努力をした。

それでもやっぱり、プレゼンのある日はゼミを休んでしまう日々を過ごしていた。

そんなこんなで、
ここから私は毎日不安を抱えたまま過ごした。
毎日夜は布団で泣いていた。
過呼吸になったあの日を、何度も夢でみたし、何度もフラッシュバックした。


ここで更に自分に襲いかかった試練があった。
それは、“就職活動”だ。

就活には、自己分析をして、自己PRを考えて
面接を受けて…というお決まりの過程がある。

社交不安障害になって毎日不安のまま過ごしていた私は、自己分析もままならず
自分の軸が全く見えない状況に陥った。

また、面接という試練は、社交不安障害の私にとって強敵だった。

面接の前には緊張が止まらず、手が震えだし、汗をかき、動悸が止まらなくなる。表情筋もうまく動かせなかった。

「また過呼吸になったらどうしよう…」

そんな不安を常に頭に抱えながら
死ぬ気で、吃りながらも、面接を受けていた。

就活は、社交不安障害になってしまった私の心を簡単にボロボロにした。

案の定、たくさんの企業を受けたけど
面接で脱落することが多かった。

辛うじて、コロナ禍の影響でオンライン面接のみだった企業に、内定をもらった。
不幸中の幸いだった。

このように、社交不安障害は私をかなり苦しめてくれた。

今思えば、この社交不安障害というやつが、私の人生の暗黒時代の
全ての始まりだったのかもしれない。


浮き彫りになる、家庭問題

ここで、私にとって大きな負担となったのが
家族だった。

私は実家暮らしで、父、母、姉との4人暮らしだった。

うちの家族は、小さい頃から仲が良くなかった。いや、うん、悪かった。

最年少の私が、物心ついた頃から鮮明に覚えている記憶は、本当に家の中に居る時の辛さだけだった。

姉は自由奔放で、自分の意思が強かった。
だから、父とよく喧嘩になった。

父は怒りっぽくて、怒り出すと物に当たったり
酷い時は姉や私を叩いたりもした。

母は、子供に手を出す父を止めようと喧嘩の仲介に入るが

父から放たれる言葉はいつもこう。

「お前の教育が悪いからこうなるんだ!!」

「俺が仕事行ってお金稼いできてるんだぞ、誰のおかげでお前らが生活できていると思ってんだ!!」

本当に、一言でいうと、
うちの家庭環境は最悪だった。

幼かった私はそれを、近くで見ることしかできず
止めることもできず
喧嘩が始まった時の暴力的な父が怖かったし、
父に罵声を浴びせられた母は、
トイレにこもって1時間泣くことがほとんど日常になりつつあった。

それからだと思う。
私は、できるだけ家族みんなに愛想を振るように生きることにした。
いや、生きることにしたというより
そうせざるを得なかったから、自然とそう生きるようになったんだと思う。

父には大人しくて可愛い娘を振る舞い、

母が落ち込んだ時には話を聞いて慰め、

姉とも姉妹として仲良く接するように努めた。

私は家族一人一人と信頼関係を築いて
なんとか平和な家庭にならないかなぁって
考えて工夫もしてみたけど

やっぱ父、母、姉の3人は
歯止めなく毎日喧嘩をし、毎日怒鳴り声や泣き声を聞きながら
私は1人、立ち尽くすことしかできなかった。

また別のノートで詳しく話す予定だが、これは機能不全家族に値するらしく
私はアダルトチャイルドになってしまったらしい。

そんなこんなで、

私はこの家族が大の苦手になった。
上っ面で社交辞令的に当たり障りなく接してきたけど
幼かった私には、あまりにもキツいトラウマとなった。

だから、私は大事なことを親に相談することはなかった。

今回の、社交不安障害の件も
1人でこっそり病院に行って、
薬も親にバレないように飲んでいた。

その生活すらも、辛かった。

私は、早く一人暮らしをしたいと思った。逃げたかった。この環境から。

だから、学生のうちにアルバイトでお金貯めて
社会人になった瞬間に家を出る計画を立てた。


大学4回生 夏、心身の異変

なんとか就活という難関を乗り越えた私は

社交不安障害の治療を続けつつも

計画していた、
学生の間にバイトでお金貯めて、社会人ですぐに家を出る
という計画を成功させるために

アルバイトのシフトを大量に入れた。

元々勤務していたバイト先に加え、
4回生の夏には2ヶ月間の短期アルバイトを始めた。

時には1日に2つのバイト先をハシゴしたり
14連勤をしたりと
なかなかハードな日々を過ごした。

これも一人暮らしのため…。そう言い聞かせながら、必死で働いていた。

9月の、そんなバイト詰め込みまくり真っ只中の時のことである。

自分の身体が鈍いことに気づく。

その日もバイトがあったが
コロナ禍であったため、一応バイトに行く前に熱を測ってみた。

すると

“37.5度”

体温計が教えてくれた数字はこれだった。

正直この時は

「まじかぁ…コロナかかったかなぁ…」

と、コロナの可能性を心配をした。

その日はバイトを休み、
病院へ行ってPCR検査を受けた。

結果は陰性。

めっっちゃ安心した。

まぁ、バイト詰めすぎたかな、少し寝て休もう。
そう思い、ずっと布団でダラダラしていた。

けど、次の日体温計が示す数字は

“37.6度”

え、下がらんやん。

それから1週間、私はこの微熱を出し続けた。

念の為、バイトは2週間の休みを取った。

熱が一向に下がらない為、もう一度PCRを受けに行ったけど

これまた陰性。

じゃあこの熱はなに!?!?

ってなった。

親の薦めもあって、内科で血液検査や尿検査やら、、、

色んな検査を受けたけど

なーんも異常なし。

なにこれ!?


色々考えた末、

思い当たる節はあった。

最近、
バイトに息切れしながら行って
帰ってきてそのまま倒れるように寝て

バイトが休みの日も何のやる気も起きなくて
部屋がどんどん散らかり、足の踏み場もなくなっていった。
ご飯もあまり食べなくなった。

社交不安障害に既になっていた私は、

二次障害として、
鬱病になる可能性があることを知っていた。

心療内科に通うことに抵抗もなくなっていた私は
すぐに別の心療内科の予約を取って、診察を受けた。

先生は

「んー、抑うつ状態で、自律神経失調症ですかねぇ。今も(社交不安の治療で)抗不安剤飲んでるだろうし、ちょっと様子みましょう。」

と言った。

私は、
自律神経失調症?そんなん誰でもなるなる〜!熱下がれ〜!
って謎のポジティブマンを発揮していた。

しかし、そのまま熱は下がることなく、
むしろ悪化していった。

今まで大好きだった音楽やカメラ、ゲーム実況をみることなどの趣味にも
全く関心がなくなった。
いや、むしろ受け付けなかった。

音楽聴きたくない。YouTube開きたくない。

そして1番怖かったのが、衝動的に頭によぎる

「死にたい」

という気持ち。

死にたい気持ちに襲われて、そわそわして
じっとしていられなくて

こわくてこわくて

そのまま手首をカッターで切ったこともあった。

どうやったら死ねるのか、検索したこともあった。

自分がいつ死ぬか分からない状況だった。

身体もおかしくて
毎日、一日中息が苦しくて
動悸と目眩が酷くて
震えている自分がいた。

食欲もない。

夜眠りについても、途中で何度も目が覚めて、全然まともに寝れない。

その後の診察で、私は正式に

【鬱病】の診断をくらった。

ここから、私は更に地獄のような生活を送ることになる。

地獄の3ヶ月間

鬱病になった私は、事情を説明し、
バイトの長期的な休暇をもらうことにした。

また、学校にも行けなくなったため
学校の支援センターに相談し
授業の欠席配慮申請をすることになった。

軽音部で組んでいたバンドも、心苦しいながら中断という選択をし

家に引きこもりの生活が始まった。

しかし、先程も記述したが、うちの家庭環境は劣悪。
家に引きこもっても、全くゆっくり休めなかった。
むしろ、悪化した。

親には、学校にもバイトにも行けなくなったため、
流石に自分が鬱病のことを伝えた。

しかし親は理解してくれなかった。

私にとって家庭問題は常についてくるものだった。

そのうち、鬱は悪化するばかりで

「死にたい」衝動に駆られることが圧倒的に多くなった。

私が死んだら家族みんな、逆にお葬式とかで
団結してくれるんじゃないか?
私が死んだら解決するんじゃね?
私が死んだら、家族みんな、私を追い込んでいたことに気づいてくれるのでは?

私は完全に頭がおかしくなっていた。

だから、ベランダから飛び降りる妄想をずっとしていた。

ベランダから飛び降りたくて、ベランダの扉に泣きながらすがりついていたこともあった。

死にたくてたまらなかった。

毎日泣きじゃくった。

そんな日々を9月、10月となんとか死ぬ気で生き長らえ、

11月に入ったころ
私は更にここで追い打ちを掛けられることになる。

それは、“卒論” だ。

卒論を書かなければ、大学を卒業できない。

必死に勝ち取った内定先に就職することもできなくなる。

でも、私は
文字を読んでも全く頭に入ってこないほどのボロボロの心身状態だった。

ぜったい卒論書けない、ムリだ。

私は休学という選択肢を考え、
勇気を振り絞り親に相談してみた。

すると、親から帰ってきた言葉はこれである。

「今年卒業できへんなら、退学させるぞ」
「どんだけ学費かけてやってると思ってるねん」


私は固まってしまった。
思考停止。

え、退学…?ここにきて…?

というか、鬱病の人に言うていい言葉じゃなくない…?

私はその言葉がショックすぎて
急激に体調が悪化した。

何も食べられなくなったし、涙が止まらなくなった。
眠れなくなった。
頭には死にたい死にたい死にたいという言葉だけが流れてくる。

しかし、ここで、鬱ながら私の悪い癖が出る。

家族に愛想を振るようになって
良い子ちゃんを演じていた私は
ここにきても良い子ちゃんを演じようとし始めたのだ。

自分でも頭おかしいと思う。

4日間ほど寝込んでから
私は卒論に手をつける努力を始めた。

しかし家にいると、もはや家族の顔や声すらもトラウマになってこわかったため

学校の図書館に朝から晩まで籠って
なんとか拙い文章を打ち始めた。

しかし、もうあまりにも限界を超えていた。
限界何回超えてるんだって感じだった。

正直、家族のいる空間で息が出来なくなるほど
家族への拒否反応が出ていた。


そこで私は、家出をすることにした。

「4日間ほど、家を出ます」

というメモ紙を残して。


家出の4日間で 人生大逆転!?

キャリーバッグを引き、家を出た私は
あらゆる友人に頼りながら
また、時にはビジネスホテルに泊まりながら

なんとか生活を保った。

朝から晩まで学校で卒論を書き進め、

宿だけはなんとか確保しつつ

4日間を凌いだわけであるが

その4日間は、私の価値観を劇的に変える大切な日々となった。

さぁ、この4日間、何があったのか。

私の心を動かしたのは、私が大学4年間、大変お世話になったある大切な友人の言葉である。

私の大切な友人は、私にこう言い放った。

「あなたは優しい人すぎる。親にちゃんと、自分の意見をぶつけてみな。
そんなん、学費の話とか出してくるのセコいやん?こっち学生やし、産んだのは君の親やん。お金と娘どっち大事なん?って感じ。」

私はこの言葉を突きつけられて
ハッと気づいた。

私は今まで、家族のためにとか
親のためにとか
そんなんで愛想振りまいていたし

親も同じ人間やし完璧な人間じゃないもんな〜
って自分に言い聞かせて
親を毛嫌いしない努力をしていたし
自分も嫌われない努力をしていたことに気づいた。

無意識のうちに、私は家族に囚われすぎて
奴隷のようになってしまっていたのだ。

その事に気付かされた私は

家に帰ってすぐ
母と話し合いを持ちかけた。

私は泣きながら、こう伝えた。

「私はおかんにも、自分の病気のことを理解して欲しいし、
一緒に病院、来て欲しい。
卒論の件はごめん。やっぱムリかもしれない。
でも、私にとってこの4年間は
とても大切な時間だったし、大きな学びもあった。
一生ものの友人もできた。
学費払ってくれて感謝してる。
期待には添えない形になってしまって、申し訳ない。
けどどうしても今私は、休まなきゃ、
死にたいって思ってしまう、脳の病気なんよ。」


母は泣きながら、こう返答した。

「あんたが家出したのは、
あぁ、私が退学させるぞとか脅したからやろうなぁって分かってた。
何も考えずに、そんな言葉放ってしまってごめん。
いいよ、ゆっくり休み。どうにかなるよきっと。」


私と母は互いに号泣しながら、
気持ちを伝えあった。

人生で初めて、母とちゃんと本音で話した日だった。

初めて、言いたいことを言えた日だった。

それからは、母と一緒に病院いったりして
何故か急激に仲良くなった。

心がスーッと軽くなるのが分かった。

あぁ、私の鬱の元凶って、ここだったのかも。

今まで鬱になった原因もよく分からないまま苦しんでいたけど

昔からの家族へのトラウマが潜んでいて
それが、色んなことが重なって
鬱病として心身に出てきてしまったんだろうなぁと。


それから私は驚くほど急激に回復した。

3ヶ月で10キロ減っちゃうぐらいには食欲もなかったけど
少しずつ食べられるようになった。

音楽を聴けるようになった。
カメラを持って外に出かけることができるようになった。

ゼミに出席できるようになった。

そして遂に12月、バイトに復帰できた。

ほんの一瞬の出来事で驚くほど全快してしまったよう。

逆にこわいわ!!!
ってなったけど

いま、とても幸せで
生きててよかったって
そう思えるんです。


最後に 鬱病で苦しんでいる人に伝えたいこと。

長かった私の物語もこれで最後になります。

今、鬱で苦しんでいる人は
こんな長い文章、読み切れないほどに
しんどくて、苦しくて、死にたくって
たまらないかもしれないです。

でも、もし、誰か1人にでも届いていたなら
わたしは、それが1番幸せです。

私は運良く、最短の3ヶ月で鬱病を完治しました。
まだ油断はできないので、治療は暫く続ける予定です。

鬱病を乗り越えた私が思った、大事なことを伝えさせてください。


鬱を経験すると、小さな幸せに気づけるようになる

例えば、周りに支えてくれていた友人がいたこと。
その友人がどれだけ大事な存在かということ。

今の自分の趣味が、どれだけ自分を豊かにしてくれていたかということ。

自分のことだけでなくても

道端に咲いた1輪の花が、美しく強く生きていること。

夢に向かって走り出している人がいること。

私達のような、見えないところで悩んでいる人も、強く美しく生きていること。

人それぞれでいいんだ。 



そりゃ鬱になんてなりたくなかったし
二度となりたくないけど

これもまた、わたしの人生にとって、大切な
かけがえのない3ヶ月だったんだなぁって
強く思うんです。

今は、とても前向きになれていて

私にできることはなにか、日々考えながら
過ごしています。

その一環として

このブログが誰かのココロに届けば
私にもなにか世の中に貢献できるのでは?
誰かの役に立てるのではないか?
という想いでした。


最後に、どこかで鬱病で苦しんでいるかもしれないあなたに、1番伝えたいことがあります。

鬱病にかかった人は、
多少なりとも人に迷惑をかけなくては生きていけない状況に追い込まれると思います。

病院代や薬代は高いのに、働けないからお金がなくなる。

誰かとの予定を断らざるを得なくなる。

勤務先にも迷惑をかけるかも。

でも、今は
人に迷惑かけまくってください。
頼りまくって、甘えまくってください。

そして、元気になったその時に
たくさんの感謝を伝えて、恩返ししていきましょう。
元気になってから、いくらでも返していけますから。

今は人に迷惑をかけることを、気にしないでください、絶対。

あなたはれっきとした病人です。

休む勇気をもって、しっかり休みましょう!
無理を続ければ、余計空回りするだけです。

人生、急がば回れ!です!


もしかしたら暗闇に陥っているかもしれない皆様に、
どうか、少しでも
幸せなひとときが訪れますように。


長い文章、ありがとうございました!

《プロフィール》
普段はフォトグラファーをしております!
ちょくちょく挿入されてた写真は
私が父から譲り受けたフィルムカメラで撮ったものです。
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Twitter: @tatsu_madofilm

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