#パウロ
人からではなく、神から
ガラテヤ1:11-17
パウロは、人間から、人間の福音を受けたのではありませんでした。これだけでも、かなり特殊なことであったことでしょう。人の口が伝えるままに、伝聞の宗教を信じてしまうことが、世間では多いのです。人を信用することは美徳なのかもしれないのですが、殊神の事柄については、大きな誤りとなりかねず、危険が伴います。
パウロは、「イエス・キリストの啓示を通して」福音を受けた、と言って
勝利は約束されている
コリント一15:50-58
動かされることはない。あなたの足元は盤石だ。主の僕として自分が、いまここでどうするとよいかを頭に思いながらも、それを実践することについては、ためらいを覚える必要はないのだよ。パウロが言っていることを現代風にアレンジすると、このようなメッセージとなるのではないでしょうか。それが可能なのは、勝利が与えられているからです。
私たちは、救いという方法により、すでにこの
神の霊がもたらす救いに与る
コリント二3:4-11
パウロは手紙を書いています。それは神が書いたとも見られます。神は手紙をどう書くのでしょうか。神は例によって、人の心にそれを書くのだ、とパウロは考えているようです。パウロが何かよいことを書いたとしても、それはこの神のなした業に過ぎません。なぜならこの手紙は、パウロの肉の心を書いたのではないからです。
もし人間の生の力でのみ書かれたものであったのなら、その手紙の言葉は
教会の当事者は誰なのか
コリント一3:1-9
パウロにとって、コリント教会というところが特別であったことからかもしれません。自ら切り拓いたとされますから、その不都合な面に細かく口を出してしまうのも、やむを得ないだろうと思われます。社交辞令を送るわけにはゆかないのです。あんたらはまだ子どもだ。そうぶつけます。子どもじみた教え方しかできない、と吐き捨てたいのでしょう。
ここでは「肉の人」のままだと暴言も見せています
信仰による義について
ローマ4:13-25
パウロは、アブラハムの例を引きます。ローマに住む人々への手紙ですが、ユダヤ文化を前提としています。アブラハムの子孫は世界の相続人になるという約束がありました。アブラムが主を信じ、それがその義と認められたというのです。人間のしたこと、つまり律法に従ったからそうなった、とするのなら、なんと空しいことか。パウロが言います。
確かに律法は、人間がそれに従えないことを思い知ら
かつてと対比して知る希望
ローマ5:1-11
パウロ神学などと言うと、パウロ本人は苦笑いをするかもしれません。もしそれがあるなら、やはりこのローマ書を挙げることが近道でしょう。中でも5章から6章は、人の救いという的に迫る要点が詰まっているようにも見え、見逃すことができない箇所だといえます。信仰による義そのものは、それまでに触れられ、アブラハムのことも書かれていましたが。
信仰によって義とされると、どういうことにな