天国には表情・感情はない | 屈辱を味わった僕はそれでも地獄で生きる
こんにちは@tateshina_lifeです。
今日は危険な事象はそれにつながるリスクを排除し続けた先は平和だけれど個性や感情はなくなるということについて書いてみます。
僕は中学生の頃、同級生の仲が良い友だち数人と一緒に、上級生から集団リンチのようなものを受けたことがあります。
きっかけは僕らで、軟式テニス部で皆と練習していた時に隣の野球部の敷地に向けてボールが柵を越えて飛び、結果として先輩の頭にあたったことです。
上級生は僕らの方へやってきて誰がやったのか名乗り出ろと言いましたが恐怖を感じた僕らは、もちろん誰が最終的にそのボールを打ち上げたのかは知ってはいましたが名乗り出ることも、告げることもしませんでした。
結果、その場にいた全員が共犯ということになり、野球部だけでなくサッカー部の”不良”を含めたメンバーから呼び出しがかかり、トイレでゴミのように蹴られ続けたというわけです(顔をやらずに、胸や腹、太ももあたりを狙ったところ、喧嘩慣れしていたなと今では思います)。
肉体的なダメージもありましたが、精神的には本当にキツいものがありました。自由を完全に奪われて一方的にやられ続けるわけですから自尊心はズタズタになります。
その後、学校や父兄の介入で”事”はおさまりましたが、そこで受けた屈辱感を拭い去ることはなかなかできませんでしたし、当時の自分は相手が世の中からいなくなることを真剣に望んでいました。
一方で大人になった今では何とも思いませんし、今でも同じような人間は少なからずいて危害を受けるリスクが子どもたちにもあることも認識していますが、この世から抹消・抹殺するべきだということは思いません。
僕は僕なりに当時の圧倒的な屈辱感と恐怖感を克服することで生き抜いてきました。「嘆いていてもしかたがない、自分が強くなるしかない」という現在の僕の価値観を形成する一つの大きな経験であったことは間違いありません。
社会としてはある程度の危険を起こし得るリスクを排除することが必要になります。一方でその基準をどこに設けるのかについて一定の定量的な基準は設けられてはいません。
科学的には何らかの基準を設けることは簡単にできます。
社会において達成すべき目標を定めて阻害する要素を排除していけば良いのです。ところが社会として達成すべき目標を何にするかについては意見が分かれるため簡単ではありません。
経済成長など社会として分かりやすいものとして設定すると社会から逸脱する個は排除されることになります。また、それぞれの個の幸せとして定義した場合、目標値が個別バラバラになるため社会として機能しなくなります。
社会としてリスクを排除し続けると、残るのは同じような人々です。排除された人々の代わりを務めるのはロボットになりますが、結局残った人々も社会的に優れた遺伝子を持つ同じような人々です。
個性はなくなり、リスクがなくなる社会では喜怒哀楽などの感情もなくなります。天国とはこのような社会のことを言うのでしょう。
個の幸せはそれぞれ異なるので個性や価値観同士のぶつかり合いです。ですから喧嘩もあれば孤独もある一方で、個性を発揮する自由について自覚的になり、その時間・場所を勝ち取るために生きることができます。結果として喜怒哀楽はいかんなく発揮されるでしょう。
天国にはドラマはなく地獄にはある、ということです。
僕は地獄のような世の中でそれでも個性を発揮して、時には相手とぶつかりながら感情を爆発させて生きていく地獄を選びます。
そしてここが肝心なポイントなのですが、僕のような人が一定数以上いる限り、天国は社会に訪れることはないのです。ずいぶん昔からSFが描いてきた普遍的なことです。
僕らを排除した先に天国があるのです。
歴史は繰り返す、ということです。
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