第3章 一人称エコノミー ポスト.インターネット宣言

初めに.「告白」

私はメタバースという言葉が生まれる前から、人類は仮想空間-マトリックス、つまり一人称世界に閉じこもることで世界は平和になる、という構想を考えていた。
第1章ではこの構想の全体像を社会.政治.経済.家族.テクノロジーに分けて、さらっと紹介する。
第2章では経済に絞って、もう少し具体的にこの構想を説明していく。
最後に、まだ未完の構想であることは強調しておこう。

第1章.「全体像」

一人称世界とは新しい時空を創造することで、共同体を止揚することを目的とするが、それは抽象的な理念だ。つまり国家と企業、および家族の解体を目的とする。家族にまで及ぶ必要性の是非はわからないが。

「社会の止揚」
学校やインターネット、会社、国会、そして国家の外部(外国)という空間はそもそも共にあることを前提に作られてはいないだろうか?
サピエンス前史では人のみが共同体=宗教を作ることができたから生態系の頂点に立つことができたと書かれている。なぜ人は社会を作るのか?男と女は性器で結び付けられているし、分業などの必要性から人は社会を作ったのかもしれない。そして社会を作ったところまではいいのかもしれない。柄谷的な交換様式AやCが優位で、自由と公平が担保されているのなら。
カール.シュミットは、経済や道徳や美学が生産/消費、善/悪、美/醜で捉えられているのなら、政治的なものの概念とは、友と敵の区別にある、と言う。
捕食.被食、加害.被害の関係の、本当の意味での起源.意味はおそらく神しか知らない。
しかし、国家がある限り人は戦争をする気はするし、国家を廃絶しても紛争的なものへ至るだけな気がする。学校や職場ではいじめやハラスメントが絶えない。そして、毒親もいる。つまり文明という概念自体が善と悪の二項対立を生み出しつけるシステムな気がする。ルソーによれば自然にはそもそも善と悪が存在せず、健康で誠実なエコシステムを我々に提供するものである、と。皆が一人になれば当然争いは生じようがない。そこまで極論を言わなくても、人と人が過度に依存しすぎない自立した社会の方が、人は人と誠実に向き合うことができる気がする。つまり人はつるみだすと気が大きくなって、いじめ.戦争をする。私が言いたいことはこれである。ドゥルーズや千葉雅也が抽象的にリゾームとか「非意味的切断」とか言ってることは抽象的にはこういうことだと思う。

「国家の止揚」
一人称エコノミーでは格差や人種.ジェンダーという社会問題は、限界費用ゼロ化と、社会の分断によって、共に解決されるので、民主主義は分裂し、政治家は猫になる。国家間の均衡は、一人称エコノミーのみの存続により、戦争、紛争、および、学校や職場に伴ういじめやハラスメントも消える。

「企業の止揚」
分業によって結び付けられた社会を超えるには自給自足の精神を取り戻すことだ。資本主義という重商主義的な貨幣愛によって、ブルシットジョブ-くそどうでもいい仕事は増え続ける。基礎インフラと農林水産業、および仮想空間技術へ資本を集中させることだ。「純粋機械化経済」では企業という組織は消える。そして、そこで実現する「定常経済」では資本家と労働者間の格差から、一人一人のウェルビーイングの実現へと移行するだろう。

「家族の止揚」
反出生主義的な人口の再生産としての性愛の問題は、仮想空間-メタバース上では止揚される。この問題の是非、正解は私には知り得ないが、一つ言えることがあるとすれば、人類が例え絶滅したとしても、再度人類的なものが、他の生命が姿を変え、進化する可能性を排除することはできないのだとすれば、反出生主義とは単なるガス抜きに終わること、これである。

「AI全体主義の止揚」
そしてこの構想は「人工知能民主主義」的なものの脆弱性を補完するものでもある。AIの責任問題は有名だが、全体性-三人称性を計算可能にしてリスクを低減させるのではなく、部分性-一人称性という責任が生じようがない時空を作り出せば、トロッコ問題は生じようがない。一人称世界における責任とは、他者から応答される責任という観念ではなく、自己を見つめる自我による自分自身への負い目から生じる責任の観念である。自然に一人放り出された世界を思い浮かべればよい。

第二章.「一人称エコノミーの誕生 ポスト.インターネット宣言」

1.プロシューマーと一人称エコノミー
人と人は断絶され、機械が空間.メディアを占める世界は「シンギュラリティ」や「限界費用ゼロ社会」や「FREE」や「純粋機械化経済」や「ユビキタス」や「計算機自然」と色々な論者によって呼ばれている。ドリーンやロボティクスが5Gによって自然へのセンサーと機械同士の情報の連携としての、物流.ロジスティクスの自動化によって、都市の公共圏としての必要性は消えつつある。スマートフォンとはデータの提供やメディア広告、金融取引、ソフト.ハードウェア開発を行うことが可能な生産手段であり、それらは相互に繋がり、知的財産としてのソースはオープンソース化.外部化されることによって、生産手段のハード.ソフトが並行して、民主化している。それはメーカーズと呼ばれている思想だが、商品かつ生産手段としての財.サービスのイノベーションと大衆化が進んだ社会では万人が消費者かつ生産者、「プロシューマー」へと変換し、企業という組織単位でのプロジェクトは消える。「循環経済」を全産業で前提にされた製造法と、シェアリング.エコノミーを機械が人と人を中継することで、財.サービスをマッチングさせ、循環させることで、環境負荷を軽減させる必要がある。プラットフォームはいずれ、第一次.二次産業にもAI×データによる包摂を為し、生産手段と富、および利益は上位1%に集中する。落合陽一はvc層とbi層に社会は分断することを予測する。それに抗う方法論がメーカーズであり、ラディカルマーケットであり、プロシューマーであり、オープンソースの倫理である。

2.生態系のレジリエンスと遺伝子のコード化、及びマッチングによる最適化
ここで、都市やインターネットというプラットフォームの下、共同体や社会による協働.分業の経済パラダイムという前提が崩れ去り、限りなく一人称的な世界へ近づいていくことが分かる。近親相姦のタブー化と交換による社会的円環の誕生は資源.エネルギーという環境要因の豊かさが整うとパラダイムが変わり、人口減少へ向かうことは先進国の状況を見れば分かる。遺伝子を量子化.コード化によって、オープンソースに共有し、体外受精を図ることで、機械が介在しつつも一人称的に人は、繋がり、増殖することができる。
それは人工知能のフレーム問題や身体性の欠落、及び自律性の無さ、故障.及びセキュリティに関する脆弱性を補完するために、主観的には一人称でありながら、種の存続を図ることにある。
それは人類に閉じたステークホルダーでない、自然界のエコシステムを含めて絶滅を阻止し、環境に対する包容力を高めるためでもある。
人類が例え、反出生主義が成功して絶滅したとして、再度、人類的な種が進化によって生まれてくる可能性もあるし、現状の自然界の生態がいつ進化するのかは分からない。その各々の個体の数から生態系の均衡が変化し、それを持続可能なバランスへ、エコシステムを定常化させる必要があるのだ。
マス目状の無限的空間性を持つ部屋では人と人の間に存在する脅威はユビキタス的断絶によって消滅したが、自然界と人工物の複雑性に対して、我々は一人称でありながら、考えなければならない。「セキュア=無関心」から「全体性」へと向き合うこと。あらゆる万物がマス目状にセキュアに、ユビキタス的に最適化させることができれば情報論的「全体性」は人類から消え失せる。それはあらゆる万物=緑起とその計算式が再帰的に織り込まれ、自然の計算速度を超越した新しい自然としてコンピュテーショナルにダイバーシティが担保された世界、落合陽一のいう「計算機自然」に近い世界観なのかもしれない。これは各々の主体にとっては主観的には、マス目状の部屋にいるような、人と繋がりすぎることで疎外感を感じるような逆説があると思っている。
そして、協働や友愛といった共同体成立から分断へ向かっていくとしても、その世界は必ずしも、0=分断と1=共生の片方による極論になる必要はない。つまり、マッチングアプリ的な共同体の組み合わせの再編成による最適化という選択肢もあるのだ。
それにプロジェクト単位でギグワーカーとして、協働をなせばいい。

3.来るべき最終消費財 ポスト.インターネット宣言
そして最後に、一人称エコノミーにおける財.サービスの倫理について述べたい。只今は、物質的なモノ消費から仮想的なコト消費へ移行へ移行していると言われる。一人称で、尚且つ持続可能な発展、定常経済の概念を可能にして、ブルシットジョブを消し去るには、商品のあるべき姿として、最終的には「マトリックス」のようなものになってくると思っている。計画経済として製造される財.サービスを変えるには、消費者に訴えるか、プラットフォーマーになる.買収されるか、国家による規制を行うか、などになってくる。「マトリックス」の製造論は、オープンソースに生産手段が共有され、プロシューマーとして、設計に関する自己改良のインターフェースが用意され、それは人為=共同体を繋ぐインターネットというハッカーの土壌を生む余地を無くし、あくまで機械 to 人間 の関係、落合陽一における現象 to 現象 のあり方であるのが好ましい。
しかし、イノベーションが起こり、自然が飛躍し続けている世界において「マトリックス」はあまりには静的.スタティックである。それは消費財であり、生産材ではない性格でもある。しかし、「マトリックス」とは「プラットフォーム」ではなかったか。ここで「オープンソースの倫理」を重ねて考えることで、マトリックスにおけるコンテンツのイノベーションの余地を考えることができる。繋がっていない、あるいは繋がっているユーザー同士のコードの改良と共有による財の無限の多様性と脱構築。そのシミュレーション世界におけるイノベーションのプロトタイプが、デジタル.ファブリケーション等によって物質的自然の世界へ波及するこもあるだろう。デジタルとアナログの相互フィードバックループ。生きている意味を仮想空間で求めるサピエンスは土木工学的なテクノロジーのシミュレーションをプロシューマートしてオープンに共有することが人類の遺産になる。そこに評価経済的なシステムを有限な自然.エネルギーの分配問題において適応するという発想もありうる。

番外編.「アルゴリズムと美を巡る試論 複製技術時代における芸術-マトリックスは可能か?」

メタバースはユートピアか?を以下では問うていこうと思う。

カントは美を無関心な対象から満足を得ることができる対象と「判断力批判」で言ったらしい。「とらわれなく自由に、あるものに好意をいだき、そのものを 許容すること(freie Gunst, freies Gönnen)」
「「無関心」において初めて対象が純粋な対象として立ち現れる ということ(in-den-Vorschein-kommen)、そしてそのように立ち現れることこそが、伝統的 に「美」と呼ばれてきたものであるということ、ハイデガーの主張はまさにこの点にある」と「ハイデガー芸術論の射程 ―「対をなすもの」の問題系から―」という論文には書いてある。
ハイデガーやカントは美を無関心性に求めた。カントの目的なき目的性などの言葉は有名である。
ところで、カントは認識のアプリオリ-前提なもののカテゴリーを色々と考え、つまり考える要素とは何か、を考え、そして、考えても辿りつかない物自体を発見したのであった。カントの発見は基本的にはヒューム的な経験論ではなく、合理論でもない、と言われる。しかしともかく現代で言えばアルゴリズムのようなものを想定したのは確かである。
カントは美を無関心性に求めた。それは対象の方から、我々へ語りかけてくるようなイメージなのだろう。一方、カントは認識にアルゴリズムを求めた。

私が言いたいことを分かりやすくいうと、美とはあるニューロンAを強制的に発火させれば、それでOK、なのか、を問うている。認識がアルゴリズムであるのなら、この隠喩は正しいことになる気がする。しかし、カントは美をアルゴリズムから外れた外部から「やってくる」ものだと考えた。

大地と身体 故郷へ

ともかく、私の言いたいことは、マトリックスで一人称的に閉じこもるという極論ではなく、人と人は依存しすぎない自立した、親的に振る舞うことで対立は緩和されるのではないか、という直感である。
そして、メタバースとアルゴリズムがユニバースを超える時、そこには大地や身体という故郷が呪われた部分として、カウンターを、「美」の不在、故郷喪失という形で行うのではないか、というのがこの構想への反省であり、もう一つの言いたいことである。

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