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ACの頭の中

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日常の中で考えたことから、自分の価値観や捉え方、認知の歪みを整理してみる。
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#機能不全家族

子どもが苦手。心がぐしゃっとするから

子どもが苦手。心がぐしゃっとするから

私は子どもが苦手だ。
遊んだり相手をするのもそうだが、見かけるだけでも苦手だ。

私は動物園が好きなのだが、当然家族連れも多い。
幼い子どももよく見かけるが、落ち着かない心地になる。

心がぐしゃっと 歪むのだ。

◇危ういもの

幼い子ども(幼児〜小学生くらい)を見ていると、ひどく危ういものを見せられている気持ちになる。

目の前で高層ビルの綱渡りを見せられている、とでも言おうか。

望まないの

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「頑張ったね」が受け取れない-ACの自己肯定感-

「頑張ったね」が受け取れない-ACの自己肯定感-

うつ病になってから。
医者やカウンセラーから度々「頑張ってるね」と言われる。

そう言われて、ピンと来ない自分がいる。

そもそも、私は褒め言葉を受けとる・感じることに難がある。
褒められても実感が湧かない。

1番近い感覚を書くと

「何言ってるんだろう…」
もしくは
「そうなんですね」

…おかしくないか?なんだ、この感想は。
自分に向けられた言葉として、全く受け止められていない。

投げられ

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私と不在の”父親”

私と不在の”父親”

ここでは、母の話ばかりしている。
機能不全家族だったのだから父も機能不全な親のはずだが、特筆すべきことが思い浮かばないためだ。

はっきり言って、関係性が無さすぎるのだ。

◇私の父

私の父は端的にいうと仕事人間だ。
子育てには不在と言って差し支えなく、家庭のことや子供のことは妻に任せきり、という典型的なパターンだ。

父からは「お前は小さい頃(多分2-3歳)はお父さん子だった」と言われたことも

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私は家族が欲しい

私は家族が欲しい

◇家族=血の繋がり?

家族の基準とはなんだろう。
日本では「血の繋がり」「同じ家で共同生活を送る縁者」だろうか。

この認識が社会に根強いからこそ、「血が繋がらない家族」というものが問題やコンプレックスになってしまう事があるのだろうなと思う。

血が繋がっていたって、別に家族じゃないことなどざらにあるのに。

◇私の家族

私には血が繋がった人たちがいる。いわゆる家族だ。
でも、中身がなかった。

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空想に逃避する-解離という癖-

空想に逃避する-解離という癖-

◇空想に逃避する

私は、今まで現代社会のタスクを頑張ってこなしてきた方だと思う。
成績とか、学問とか、自立とか、仕事とか、資格とか。

そのはずなのに、あまり現実を見て生きていなかった様な気がする。

過去のこと、覚えていないことが多い。
覚えていても、他人事のようで、よく分からない。
覚えていることは点で、連続性がなく繋がらない。
点は散らばっていて、ただ収拾なく転がっているだけだ。

子供の

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「子供欲しくない」にどうして辿り着いたんだっけ

「子供欲しくない」にどうして辿り着いたんだっけ

◇「子供を持つ」と言う常識

おそらく、「子供が欲しい」と感じたことはない。
中学生の頃、同級生と「将来結婚して旦那が〜子供が〜」などと軽口を叩いたこともあるが、あれは自分の望みというより、通過儀礼として「そうするもの」と思っていたのだろう。

勉強が嫌いでも、勉強をして学校に行く。

働くのが嫌いでも、就職して働く。

当時の私にとっては、子供を持つこともこれらの慣習と変わりなく、当然の行いとし

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100の悪いことが1の良いことで言いくるめられるのが親子関係

100の悪いことが1の良いことで言いくるめられるのが親子関係

ここまでの記事で、自分の家族や母との間にある問題について度々書きてきた。
こうやって振り返ると、母が完全悪のようである。

実際には、親にも良いところはあったのだ。
ご飯をたくさん作ってくれたとか、学びにお金を出してくれたとか。

でも、自分の家族は機能不全家族であったと、家族のことを良く思えない気持ちがあると、家族の良い部分を話すことには抵抗が出てくる。

親子問題は、100の悪いことが1の良い

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「頼られると嬉しい」が分からない

「頼られると嬉しい」が分からない

人は、頼られると嬉しいらしい。これが分からない。

思うに、昔から自分の意思や気持ちとは無関係に役割を押しつけられ、辛い思いをする経験が多かったことが理由ではないかと思う。

◇「頼られると嬉しい」という一般論が分からない

家庭内でいえば、私は、母から自分を支えろ理解しろ優しくしろと”頼られて”いたのだろうし、結果自立してしっかりするようになった。

そのせいか、「しっかりしているから」と学校生

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「私は幸せで問題ありません!」と表明しなくてはならない?

「私は幸せで問題ありません!」と表明しなくてはならない?

「しんどい」とか「辛い」を表現することは拒否されているように感じる。

人前では「私は幸せで問題がありません!」という態度が正解で、相手から最近の調子などを聞かれると、そういった振る舞いを強要されているように思えて辛くなる。

ずっと、この感覚はこの世の当たり前な暗黙の了解だと思っていたのだが、もしかして認知の歪みなのだろうか?

◇問題ないように振る舞う癖がついている

先日、人から「良いこと日

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無になる過去、子供時代

無になる過去、子供時代

グループワークの話のつかみで「子供の頃、思い入れのあるものはなんですか」と聞かれた。周りの参加者は「遠足」「グローブ」「かっこいい文房具」などと各々答えていた。
子供の頃、好きだったものはあるだろう。
でもそれを思い出しても、私の心には虚無が広がるだけだ。

子供の頃、家族でたびたび遊園地に出かけていた。でも、それを今「良い家族の思い出だね」「遊園地楽しかった?」と言われたら、何もわからなくなる。

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私は写真に写るのが嫌い

私は写真に写るのが嫌い

私は写真に写るのが嫌いだ。旅行に行っても自分と観光名所を一緒には撮らないし、友達と遊びに行ってもできる限り写真を撮られたくない。(気心知れた相手なら、写真は好きじゃないと断る)

自撮りが普及し、人と会った記念に写真を撮る人も多い中、人と関わるのに不便な好き嫌いだと思う。
それというのも、嫌いなのはスナップ写真であり、証明写真などは平気なのだ。証明写真は良くも悪くもキッチリ型にはめて撮っており、自

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慰めを実感した話

慰めを実感した話

人を慰めるのは難しいし、慰められるのも案外難しい。
人に効く言葉は時と場合と人によって変わるし、受け手に余裕がなければ、言葉を尽くしてみても伝わらなかったりする。受け取るだけの余裕や客観性、希望が持てないからだ。

私も余裕がないし、育ちか性格か厭世的に物を見るから、慰めを受け入れるのが下手くそだ。最近だいぶマシになったけれど。

たが、慰めを実感したことがあったので、その話をしたいと思う。

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