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宇宙開発の政治史を記述した先駆的研究The Heavens and the Earth(1985)の紹介

1957年にソ連が打ち上げた人工衛星スプートニク1号はその後の国際政治の展開に大きな影響を及ぼす出来事でした。アメリカ国内ではソ連に宇宙開発で追い抜かれたという危機感が高まり、宇宙関連技術に関する研究と教育への関心が高まるきっかけとなりました。当時の大統領だったアイゼンハワー(Dwight David Eisenhower)も、この世論の高まりを受け、宇宙開発を推進しますが、同時に宇宙開発の軍事利用に歯止めをかける必要があると考え、軍隊とは別の連邦政府の機関として1958年の国家航空宇宙局(National Aeronautics and Space Administration, NASA)を設置しています。マクドゥーガルが1985年に刊行した『天空と地上:宇宙時代の政治史』は、この時期中心に冷戦時代のアメリカの宇宙開発政策の展開を捉えた先駆的な研究です。

McDougall, W. A. (1985). Heavens and the Earth: A Political History of the Space Age. Basic Books.

冷戦時代の宇宙開発の歴史を理解するためには、宇宙ロケットの開発が弾道ミサイルの開発と歴史的に密接な関係にあったことを確認しておかなければなりません。​それらは完全に同一ではなかったものの、共通の技術基盤の上に成立しており、政府の政策でもそのことは常に意識されていました。

第二次世界大戦の転換点となった1944年のノルマンディー上陸作戦が始まってから間もなく、ドイツ軍はイギリス本土に対して弾道ミサイルV2を使用した長距離打撃を開始しました。それまでの航空機とは異なり、弾道ミサイルは迎撃が不可能な速度で目標に到達できたので、深刻な防空上の脅威となりました。アメリカは、西ドイツを軍事占領する過程で、この新しい兵器を取得し、その技術を詳細に調査し始めましたが、同時期に東ドイツを軍事占領したソ連もこの兵器について調査を行っていました。1945年にアメリカ軍が初めて核兵器を日本に対して使用したことにより、弾道ミサイルの潜在力は急速に高まっていました。

この技術開発で先行したのがソ連であった理由として、著者は第二次世界大戦が終結した直後に始まった軍事予算の大規模な削減を挙げています。トルーマン政権は、戦時中の軍事予算の拡大によってインフレーションが進んでいることに経済的観点から懸念を抱いていました。そのため、1940年代後半に軍事部門におけるロケット関連の開発予算は大幅に縮小せざるを得なくなりました。しかし、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、アメリカ国内のソ連をはじめとする共産主義陣営に対する認識は急激に悪化し、弾道ミサイルの研究開発を推進するキャンペーンが政府、軍部、議会、財界、社会を巻き込む形で展開されるようになりました。

1951年、アメリカ空軍は大陸間弾道ミサイルの研究開発プロジェクト「アトラス」を立ち上げる予算を獲得しました。しかし、この研究開発の実現可能性には否定的な見方が少なくなかったため、その計画を擁護するために空軍の研究開発部門の責任者だったトレバー・ガードナーは、ハロルド・タルボット空軍長官に5年で運用可能なミサイルを完成させてみせると約束しなければなりませんでした(p. 107)。1953年に政権を発足させたアイゼンハワーは、アメリカ軍における研究開発プロジェクトを引き継ぎましたが、安全保障の必要と経済対策の必要を両立させるため、国防予算の圧縮に強い関心を持っていました。しかし、ソ連で人工衛星スプートニクの打ち上げが行われたことによって、アイゼンハワー政権は国防予算を大幅に増加させるように求める圧力に直面することになりました。

著者は、1957年10月4日のスプートニクに関する当時のアメリカの報道を調査する過程で、脅威の誇張に繋がる混乱があったと評価しており、それは真珠湾以来のパニックであったと表現しています(p. 142)。このパニックは民衆のロケット関連の無知から生じる知的な混乱の結果であると同時に、軍部や財界において装備の開発を推進したい強硬派の意図的な印象操作の結果でもあり、さらに単純に政権を批判したい社会活動家の運動の結果でもあり、これらが混然一体となっていました。ソ連が自らの科学的な勝利を内外に宣伝する中で、アメリカの国内ではアメリカ軍の内部対立、開発予算の不足、科学的教育の遅れ、ホワイトハウスに蔓延する想像力の欠如、無気力な消費主義などが次々と問題として提起されました。著名な評論家であったウォルター・リップマンは、ソ連が進歩し続ければ、世界の勢力関係は根本的に変わると予想し、変革の必要性を訴えていました(p. 143)。

このような世論の動向を踏まえ、アイゼンハワー政権はアメリカの宇宙政策を策定することになりました。まず、航空工学の研究開発を監督してきた連邦政府の機関である国家航空宇宙諮問委員会(National Advisory Committee for Aeronautics, NACA)が中心として、1958年1月に産官学軍が一体となった包括的な宇宙開発計画を策定しました(p. 165)。さらに同年4月に国家航空宇宙法(National Aeronautics and Space Act)の法案を議会に提出し、この民間部門を中心にした宇宙開発を推進することに取り組んでいます(p. 172)。軍人に対する文民統制を強調する下院の委員会と、軍事利用の可能性を拡大することに熱心な上院の委員会では論調は異なっていましたが、いずれも宇宙開発をめぐる軍事部門と民間部門の分業体制のあり方が争点となりました。NASAが軍事利用に有用な宇宙関連技術を開発することを防ぎつつ、国防総省が宇宙開発のあり方を完全に統制することを防止する制度が模索されました(Ibid.)。

当時のアイゼンハワーは偵察衛星の研究開発を極めて重大なものだと考えていましたが、宇宙開発の軍事管理を小さく抑制すべきと主張し、下院と歩調を合わせる立場をとりました(p. 174)。最終的に議会の見解は、宇宙の軍事化を最小限にとどめるべきという方向に収斂し、1958年10月1日にNASAは業務を開始しました。アイゼンハワー政権が宇宙開発の軍事管理を制限した理由は、米ソ間で核ミサイルの整備を禁止する軍備管理体制を構築する狙いがあったためでした。アイゼンハワーは客観的な検証が可能な形態で核ミサイル実験を禁止する軍備管理体制の技術的可能性も検討しました(p. 192)。しかし、ソ連の核ミサイルの状況を検証するには、偵察衛星の打ち上げが不可欠であることから、軍備管理によってミサイルの打ち上げ全般を禁止してしまうと、検証が技術的に不可能になるという矛盾に直面することになりました(Ibid.)。アイゼンハワーの思惑とは裏腹に、アメリカはソ連と長距離ミサイルで対峙する態勢をとらざるを得ない状況となりました。

宇宙の軍事化を抑制しようとしたアイゼンハワーの姿勢が、国内の強硬派から批判の的となりました。ジョン・F・ケネディも、こうした批判を加えた一人であり、彼はアイゼンハワーが予算の面で拒否権を行使した月面探査プロジェクトを大統領として推進しました。アメリカ空軍は1957年までに大陸間弾道ミサイルであるアトラスを18基配備し、キューバ危機までに126基が完成していましたが、発射の前に液体燃料を注入する手間がかかることから、固体燃料を使用するミニットマンに置き換えられていきました。

弾頭の核出力、投射する弾頭の重量、命中精度、撃破確率(K値)を考慮すると、アメリカはソ連に対して1961年までに大陸間弾道ミサイルでリードを確保し、1962年末にはソ連が72発であるのに対して、194発と数的に優勢であったと著者は評価しています(p. 251)。ソ連もこの劣勢を認識せざるを得ず、フルシチョフは回顧録でスプートニクの打ち上げに成功したものの、国防上の問題が解決されたわけではなかったと記述しました。著者は誘導装置の問題についても言及しており、核弾頭が広範な被害をもたらすにもかかわらず、精密誘導が依然として必要とされていたと指摘しています(Ibid.)。

国防予算の膨張を抑制したいと考えていたアイゼンハワー政権がソ連との軍備競争を回避しようとしたことは理解できることです。著者はアイゼンハワー政権の下でNASAが設置されたことに対して、国防総省が反発したことも述べています。宇宙に関する国家の政策、戦略を研究する上で、この著作は基礎的な研究成果の一つであり、今でも参照される価値があると思います。

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