(2/3)【探究に取り組むクラスの土台をつくるマインドセット】「学校」をつくり直す(苫野一徳)
今日の学校の問題の本質
苫野さんは、今日の学校の問題の本質を次のように整理しています。
このような画一的で正解主義的な学級・学校では、子どもたちは意欲をもてず、自分たちが学級・学校の主役であると感じられません。
教師の価値を内面化してそれが正しいと信じて疑わない
違和感を感じつつも同調圧力の中で口をつぐむ
シラケ、意欲をなくしていく
たまたま周りと興味関心やペースが違うだけで「はみ出す子」≒「ダメな子」のレッテルを貼られる
表出の仕方はそれぞれですが、きっとこうしたひずみの数々が目の前を生きる子どもの「リアル」に現れているのではないでしょうか。
今こそ、本当に子どもを主役にする学級、学校をつくりたい!
そのための方向性の一つが「探求」をカリキュラムの核にすることであると苫野さんは示しています。
とはいえ、何から始めたらいいの?
とはいえ、探究学習なんてやったこともないし、一人ひとりが問いを立てて自分なりに取り組んで答えにたどり着くなんて難しいんじゃないの?
と思いますよね。以前NHKで放送された「学校のミライ」という番組では、山形県天童中部小学校の研究授業を参観した若い先生が「やったことないから、自信がない」と話していました。
それもそのはず、今の若い世代の先生は(私もですが)トップダウン型の学校スタンダードと呼ばれるマニュアルの下、統率・統一に向けた指導が当たり前になっている状態の学校現場しか知らないのです。
第5章 私たちに何ができるか?では
まずは知ること
教育行政はとことん「支援」を
対話を続ける
子どもたちの姿こそ、最大の説得力
小さく始める
教員養成の抜本改革を
教師を目指す人たちへ、そしてそれを見守る人たちへ
人は恐怖よりエロスで動く?
という項立てで論が進みます。
苫野さんの大きな視野で「学校」をつくり直すとなると、現場の教員だけでなく、教育行政、同僚との関係、校内研修の場、教員養成課程の大学、今後教師を志す高校生や大学生にまで話が及びます。
しかし、この章の中で現場の教師が子どもと実際に取り組む実践の記述は「小さく始める」の中にいくつかの例があるだけです。
具体的なアクションのイメージをもてない人も多いのではないかと感じました。小さくとはいえ、「いきなり探究なんて無理だよ」と。
しかし、苫野さんはその前の第4章で
安心安全と相互信頼の関係づくり
学びの「個別化」と「協同化」
という大きく二つの方針を示しています。
今日はこの二つの視点から、学級担任が心に留めておくべき方針について考えてみたいと思います。
方針その1「安心安全と相互信頼の関係づくり」
子どもが自立していく道のりの第一歩は、十分な安心感だという記事を以前書きました。
それは何も家庭に限ったことではなく、学校だってそうです。
教室がホッとできるような場でなければ、自分の本当の意欲は生まれてこないのです。「周りがやるからやる」「先生がうるさいからやる」は本当の意欲とは言えず、外的な要因で「やらされている」にすぎません。
さて、苫野さんの2つの視点のうちの一つ、「安心安全と相互信頼の関係づくり」について考えていきます。
そもそも、コミュニケーションの機会も限られ、遊びまで「決められたことを決められた通りに」させられている今の子どもたちに、どのように「安心安全と相互信頼の関係づくり」を進めていったらいいのでしょうか。
苫野さんは「サークル対話」と「教室リフォームプロジェクト」を例にとって説明しています。
サークル対話を通して培う安心感 ~受容・対等な関係~
クラスのみんなが輪になってみんなに向けて発言する「サークル対話」。オランダのイエナプランで行われているものです。
発言を否定することなく受容し、対等な人間同士であることを理解する機会を日ごろからつくることにつながります。
「いじめはしてはいけない」という知識で子どもの関わりをつくるのではなく、相手を尊重する習慣や体験から子どもの関わりを豊かにしていく見通しです。
プロジェクトを通して培う子ども自身の「当事者意識」
学びのオーナーは先生ではなく子どもたち。
それなら教室だって子どもたちが自分たちで居心地をよくしていくのが当然。
「それならば・・・」と、子どもたちは自分たちがくつろげる教室にするためにアイデアを積極的に出し、折り合いをつけながら実現にこぎつけていきます。必要なら再度リフォームが行われることもあります。
ここで大事なのは、子どもたちのリアリティのある生活が活動を生み、そこから折り合いのつけ方や建設的な話し合いを学ぶという見通しです。
「教室環境をよくするのは先生だけではない。ぼくたちも参加していいんだ」
「私たちのアイデアがクラスをよくすることにもなるんだ」
という実感が生まれれば、自分が世界に働きかけることの喜びや楽しさを感じ、他の場面でも意欲を出せるようになっていきます。
お客さんから当事者へシフトするために必要なのは、トップダウンの指示ではなくボトムアップの活動です。
方向性その2「学びの「個別化」と「協同化」」
子どもたち一人ひとりの興味関心、学ぶペース・自分に合った学び方や適した学習空間・・・これらはすべて異なっていて、発達段階によっても変化していきます。
ところが学校はそのほとんどを統一してきました。このことが冒頭の今日の学校の問題の本質とも重なります。
そこで、自分のペース・自分に合ったやり方・自分に合った教材で学べるようにするのです。
学ぶべき「内容」はあれど、その学び方は自分のペース・やり方で学べるなら、子どもたちは意欲的になるでしょう。
もちろん、意欲的になれない子や行き詰まる子への支援は必要です。また、子どもたちが「やりたいことだけやればいい」というのも違います。放置、放任ではなく、あくまで子どものペース・自分に合う学び方で進むだけで、何も手を出さないというわけではありません。
でも、こうした活動って今の学校でも少しくらいはありますよね。
それは音楽や体育、図工といった実技教科かもしれませんし、総合的な学習の時間の活動かもしれません。
私は算数で「一人でやりたい」「二人でやりたい」「グループでやりたい」という要望に応えてそれらを選んでいいことにしてみたことがあります。
子どもたちは最初は仲のいい子と一緒にやりたいということでしたが、徐々にその質は変わっていきました。
やり方に自信ががないので誰かに教わりたい子、問題をどんどん解いてみる子、黒板を使いたがる子・・・中には「ストップウォッチを貸して」と言ってくる子もいました。
学びの個別化と協同化に取り組むということは、こうした多様な姿を見守りながら、時に手を貸す、それこそ伴走者としての教師のスタンスを味わうことができます。教師の指示で引き揚げたのではなく、子どもたちが主体的に行動し、成長していくのを見届けられるので、なんだか頼もしく、うれしい気持ちを味わえます。
「探究」は全てを達成した先にあるゴールではなく、日ごろのちょっとした活動の中にもエッセンスがある
「探究」はまだまだ現場の教員にとっては新しく、とっつきにくさを感じやすいものですが、こうして方針について改めて考えてみると、目からウロコ、寝耳に水のような考え方ではなく、今までやってきたことの質を少し変えるだけで十分に取り組むことができます。
例えば、価値を押し付ける道徳をやめ、子どもの愚痴やぶっちゃけ話をも学びに変える。
例えば、教科書の適用問題を解く時間の学び方を多様化し、「問題を解く」「問題づくり」「説明する」といった様々な定着の方法を認める。
などです。
「困難は分割せよ」かつてデカルトは言いました。
探究という様々な要素が集まった大きな壁も、その要素を細かく分析し、手のつけやすいところから小さく取り組めば、気付いたころには「あれ、今やってることって実は探究だったかも!?」となるかもしれません。
どんなに忙しくても、教室での実践のなかで十分に実現できる小さなステップがあるはずです。
また抽象度が高くなってしまいましたが、次こそ具体アクションについて考えたいと思います。
最後まで読んでくださってありがとうございました!
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また、コメントも本当にありがたいです。あなたのコメントから私も気付きを得て、また次の学びにつなげていきます。
【次回予告】
今回の二つの方針のエッセンスについて私なりに考え、私が取り組んでみたい実現可能な具体アクションを次回の記事で書いてみたいと思います。