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(1/3)【子どもが主役になって、自分のペースで学ぶ「探究型の学び」をカリキュラムの軸に】「学校」をつくり直す(苫野一徳)

RADWINPSの「正解」が刺さる

あぁ 答えがある問いばかりを
教わってきたよ そのせいだろうか
ぼくたちが知りたかったのは
いつも正解など大人も知らない

RADWINPS「正解」より

「旅立ちの日に」や「手紙 ~拝啓 十五の君へ~」が卒業式の合唱の定番として君臨してきた昨今、RADWINPSの「正解」がここ数年で彗星のごとく割り込んできたように感じます。
もうすぐ卒業という時期、この曲を聞いて出勤した日は数知れず・・・
そして、なんだか教師は責められているような序盤、中盤から一転、最後の教師の語りかけのパートで私たち教師は救われるわけです。
野田洋次郎の思いやりというか、粋な計らいというか、そんなものを感じずにはいられません。
教師を悪者にしないでくれてありがとうございます。笑


さて、こうした教師都合の正解主義的な学びから、新しく子どもたち主体の「探求型の学び」へと転換していこうという流れが盛り上がってきています。
「探求」という言葉を、教育関係者や本質的な子育てを意識されている方は聞いたことがあるのではないでしょうか。

今回は「探求」にどのような価値があるのか、「探求」に取り組むことで教師のスタンスはどのように変化するのかについて考えてみました。

・「探究型の学び」という言葉を聞いたことはあれど、その中身はあまり気にしてこなかった人
・大人の押しつけがましさに疑問をもっている人
・子どもの受け身な姿勢やシラケた雰囲気が気になる人
・私と同じように、RADWINPSの「正解」がぶっ刺さる人

はぜひ読んでみてください。


著者・苫野一徳ってどんな人?

苫野一徳(とまのいっとく)さんは気鋭の哲学者・教育学者です。
熊本大学教育学部准教授で、軽井沢風越学園の創立にも関わっています。
オンラインサロンの運営もしています。


社会の構造と共に「求められる力」は変化するのに、教育システムは変化していない

一斉授業のシステムについて考えると、時は明治時代にまでさかのぼります。
富国強兵・殖産興業政策の流れの中では、大量の子どもたちに一度に教育を行うために、子どもたちを同質化・均質化してみんなに同じことを同じように教えるのが効率的でした。これは国民教育と呼ばれる段階です。
上の人の言うことを確実に遂行すれば、国が豊かになる、という神話です。

ところが、現代の変化の大きい先行きの見えない不確実な時代にあって、もうそういう神話は信じられなくなってきました。
「勉強して、いい大学に入って、いい会社に就職すれば幸せ」という価値観はまだ根強く残っているものの、本気で信じている人がどれだけいるでしょうか。

現代において、本当の意味で自由に生きるために必要な力とは「探求する力」であり、その力を育てられるような力を育てるための学びが、「探究(プロジェクト)型の学び」であると苫野さんは述べています。

探究する力とは

  • 自分なりの問いを立て、

  • 自分なりの方法で、

  • 自分なりの答えにたどり着く

力のことです。

「言われたことを言われたとおりに遂行する能力」は、工業化が進み、生産ラインのマニュアルに沿った業務をミスなく確実に行う仕事が多数を占めていた時代においては非常に価値がありました。
しかし今や、実際に社会に出て就職するにあたって採用担当者が重視する能力は「自ら課題を見つけ、それを解決する力」です。上の言うことを聞くのは組織の中では大事ですが、それだけでは不十分、ということですね。

時代は移り、一斉授業から個別最適な学びへとシフトしつつあります。
しかし、その内実は「教師が指示してそのやり方を子どもにやらせる」というだけになってしまっている授業も実際にはあります。(ただ個別に分断されているだけ)


探究型の学びはスムーズでなくていい

探究型の学びの大まかな流れは以下の通りです。

1 探究テーマの発見・選択、およびそのテーマに浸りきる・・・「テーマ」

2 探究テーマに関する自分なりの「問い」を立てる・・・「問い」

3 「問い」を解くための方法を考え出し、実行する・・・「方法」

4 探究の成果を持ち寄り、交換し、学び合う・・・「発表」


教師の指示で学びが進むのではなく、子どもの興味関心、子どものペースを最優先にして学びが進んでいきます。

当然子どもは未熟ですから、テーマ選定からまとめまでスムーズにいくわけではありません。でも、それでいいんです。

子どもたちが自分でスムーズに学習を進めていけるようになるには、そこに至るまでに数々の失敗を経験し、「もっとこうしたほうがよかった」「このやり方の方が自分には合っている」という気づきを得て「学び方を学ぶ」必要があります。

正しいかどうかよりも、行きつ戻りつ進む学びを味わえること、それだけのタフな学びに長い時間をかけて取り組むことの方が大事です。



そんな時に教師はどんなスタンスで指導したらいいの?

「教師は学びを支援するために、子どもたちの問いに対する明確な答えや解決のための見通しをもたなければいけないのではないか」
という声が聞こえてきそうです。

これが、今までの学校の現状を端的に示している視点なのではないかと私は思います。

教師が後ろ手にもっている「正解」を子どもたちは探り、答え合わせをする。
教師の価値観に合う行動や成果が評価される。

学校はそうした「もう答えが決まっている問いについて考える場」になってしまっているからこそ、子どもたちはシラケ、意欲をなくしてしまうのではないでしょうか。

そうして考えると、探究型の学習において正解を判断するのはリアルを生きる子どもたちであるというよさに、もっと奥行きを感じます。
教科書や教師、前時代的な価値観が正解を導くのではなく、自分の頭で問いを立て、計画を立てて実行し、そこから学んだことをまとめるというリアルな学びの過程は、
・子どもの素朴な疑問を問いにしていいという安心感
・自分なりに計画を立て、検証が可能かどうか構想する見通しをもつ力
・失敗から学ぶ力
・次の問いを見つける力
・友達と話し合ったり、時にぶつかったりしてそれを解決する人間関係調整力
・多面的、多角的にものごとをみつめる力

・・・
と、様々な要素が絡み合って子どもが成長していくチャンスになり得ます。

教師は子どもの十人十色の問いに対する明確な答えをもつ必要はなく、子どもの興味関心に興味をもち、どんな状況かを聞いて回ったり、おもしろがったりする「身近な聞き手」に徹します。

ときに困っている子には「どうしたの」と声をかけて支援しますが、ここで「こうしなさい」と教師側の押しつけがましい指導をしてしまってはせっかくの探求的な学習が台無しです。せっかく子どもが丹精込めて大切に大切に育ててきたものを大人が奪い取る行為です。

苫野さんは「教師は共同探究者」と書いていますが、スタンスについてはかなり注意深くやらないといけないと感じます。何せ私たちは教えたがりの集まりですから。そこを自覚しないと探求型の学びの主役が教師になってしまいます。

まとめ:子どもが主役、教師が脇役の学校を実現するヒントが「探求」にはある

今回は「探求」を切り口に子どものペースを尊重する学びの価値と教師のスタンスについて考えてみました。

35人、40人の児童生徒が一クラスに集まって学ぶ状態では、ただでさえ一人ひとりに十分な支援をすることは難しいですが、「探求」というシステムで子どものペースを尊重しながらの学びであれば、遅れているからといって尻を叩くような指導をしたり「みんなと同じ」を求めたりする必要もなくなります。

かといって、子どもを放置したり好き勝手させたりするのとは違いますから、そのあたりは子どもとの関わりの中で十分に注意する必要がありますね。

次回はこうした「探求」をクラスの子どもと担任が「共通の文化レベル」にしていくためにどんな方針をもとに子どもたちとかかわればよいか、まとめてみたいと思います。


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