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鄭成功と有田焼の深い関係
本年は鄭成功生誕400年の年です。
鄭成功と言えば日本人と中国人の間に平戸で生まれた混血児で、近松門左衛門が書いた浄瑠璃「国性爺合戦」は教科書にも載る有名な人物です。
嘗ては、平戸は国際貿易港として日本の玄関口であったことはあまり知られていません。
古代より東南アジア、とりわけ中国との海上交流の起点でありました。
遣唐使が辿った港市であり倭寇等の拠点でもありました。
空海や最澄の足跡も残っています
明治伊万里 殖産興業の先覚者 高柳快堂の画業
色絵南画早春雪渓図大花瓶
陶画:高柳快堂作 製造:香蘭社製 年代:明治十四年 サイズ:高七十㎝
有田焼の色絵の技術は十七世紀、中国明末に平戸生まれの鄭成功を介して伝わりました。
当初は景徳鎮の代替品として製造されましたが、徐々に我国独自の様式に変わっていきました。
南画も中国より伝播し、日本の池大雅や田能村竹田により新境地を生み出されていきます。
高柳快堂の画風は竹田やその子直入の系譜に連なって
和魂洋才 明治伊万里の粋 その2
目当ての明治中期に輸出された精磁会社製の品物は簡単には見つからなかった。
それではと、レンタカーを駆使して、郊外のセーラムの市街地や海岸沿の別荘地帯であるマーブルヘッドまで出かけた。セーラムは大森貝塚を発見したエドワード・モースの日本滞在中に集めたモースコレクションがあるピーボディーミュージアムがある。セイラム魔女博物館などもあり、静かな良い街である。
マーブルヘッドは大西洋に面した白砂青松の風光
和魂洋才 明治伊万里の粋 その1
今から37年前、ボストンに降り立った私は早速市内のアンティークショップを探し回った。
19世紀末(明治中期)この街に輸入食器を一手に販売するフレンチ商会「89,91&93.FRANKLIN ST. BOSTON」
はあり、一族の三男、アーサーフレンチが有田に来て洋食器開発を指導し、全米での販売代理店にもなった。(後に詳述する)だからと言って100年以上経ったこの街の何処かにあるという保証はない
士魂洋才 明治伊万里の粋
その三高柳快堂という人に何故か魅かれる。
佐賀は久保田の出身だ。
南画家として中央にも名前が聞こえた人物であり、縁戚の本野盛享は従兄弟であり、読売新聞の創業者の一人である。
その息子の一郎は外務大臣として知られている。
自身の息子、豊三郎は読売新聞3代目の社長だった。
どの様な関係で有田にくだり、香蘭社の仕事を担い、或いは製陶業の子弟の育成にも関わったのかは定かではない。
ただ、近年里帰りした
士魂洋才 明治伊万里の粋 その2
深海平左衛門喜三の総領、墨之助のこと。
「色絵龍に珊瑚双耳付飾瓶」深海墨之助作 明治初期
海内一の名工、深海喜三平左衛門の二人の息子、墨之助、竹治も揃って名工であった。
墨之助は自分の技量は既に中国磁器を凌駕していると思うが、実際渡航して確かめたいと、密航は御禁制だったので周囲のものは大反対した。
慶応三年と思われるが、彼は振り切って密かに長崎に向かった。
それを察した竹馬の友であり、明治
和魂洋才 明治伊万里の粋 その1
今から37年前、ボストンに降り立った私は早速市内のアンティークショップを探し回った。
19世紀末(明治中期)この街に輸入食器を一手に販売するフレンチ商会「89,91&93.FRANKLIN ST. BOSTON」
はあり、一族の三男、アーサーフレンチが有田に来て洋食器開発を指導し、全米での販売代理店にもなった。(後に詳述する)だからと言って100年以上経ったこの街の何処かにあるという保証はない