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鄭成功と有田焼の深い関係

本年は鄭成功生誕400年の年です。
鄭成功と言えば日本人と中国人の間に平戸で生まれた混血児で、近松門左衛門が書いた浄瑠璃「国性爺合戦」は教科書にも載る有名な人物です。
嘗ては、平戸は国際貿易港として日本の玄関口であったことはあまり知られていません。
古代より東南アジア、とりわけ中国との海上交流の起点でありました。
遣唐使が辿った港市であり倭寇等の拠点でもありました。
空海や最澄の足跡も残っています。
栄西が茶の木をもたらし、この地で栽培し、やがて全国に広まりました。
我が国にお茶の文化が広まる起点でした。
この様な土地柄に7歳まで育った幼名福松は父鄭芝龍の抗清復明の勢力に加担し、やがて旗頭となります。
軍事費の大きな捻出は貿易によるものでしたが、清国によって封鎖され困難になりました。
とりわけ、陶磁器は東南アジア諸国に輸出する重要な産品でもありました。
景徳鎮や福建省の諸窯の製品は生産が止まってしまい、取り扱いが不可能になりました。そこで目につけたのが、長崎との交易の中で知り得た肥前地区の陶磁器でした。
しかし、当時は磁器原料が発見されたばかりで製品の稚拙さは否めず、中国先進地の加飾の為の原料や量産技術の導入が必要だったのです。
やがて、長崎に亡命してくる中国人の中には陶磁器製造に明るい人材がいたのではないでしようか。
それ等の人の参入により飛躍的に製品の向上が見られる様になったのです。
鄭芝龍、鄭成功、鄭経、鄭 克塽の鄭氏四代に亘って大量の肥前磁器発展期を賄つた流通と技術革新がありました。
鄭氏一族の肥前磁器に関わったことは明らかです。
磁器の創始は朝鮮陶工李参平に負うところが大きいですが、赤絵の始まりは鄭成功が送り込んだ中国人陶工の有田地区や吉田地区の窯場に見られる痕跡が真実なのです。
赤絵の黎明期を再確認すべきです。
陶磁器業界も通説を後世に伝えるのではなく、歴史の真実を伝えるのは今しかないと云う使命を肝に命ずべきであります。
鄭成功の生誕がなければ、肥前磁器の発展はなかったのかも知れません。
彼を顕彰して陶磁史に明記されねばなりません。




鄭成功は鄭氏一族の一員として、本年で生誕400年を迎える著名な人物です。彼は日本人と中国人の混血児として、日本の教科書にも載っている「国性爺合戦」で知られています。しかし、彼が生まれた平戸は、国際貿易港としての役割や東南アジアとの交流の起点など、あまり知られていない歴史的な場所でもあります。この記事では、鄭成功と平戸についての興味深い事実を紹介します。また、彼が肥前磁器の発展に与えた影響や、赤絵の始まりについても触れます。鄭成功の生誕のおかげで、肥前磁器の歴史は大きく変わった可能性があります。この貴重な歴史的な出来事を、私たちがしっかりと知ることが重要です。

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