母の実家2

有田の窯元は気位が高かったが、自身の窯に通う職人には大変な心配りをしたものだったようである。窯焼の女房は「世話焼」と言われたものだ。
職人の家族構成を把握し、冠婚葬祭から幼子の成長にも気を配り、言わば細やかな子育て支援のようなことまでしたそうだ。
母の実家の松尾窯は、江戸時代から陶磁器生産は免許制で誰でもなれるものではなかったのだが、鑑札持ちの窯の一つであり、門構えの屋敷はそれを物語っていた。
母が言うには、窯元が贅沢していたとされるものでもないが、決して青物の魚を口にしたことはなかった、と言う。
家族は職人が全員帰るまでは食事を摂らなかったとも。成るだけ、プライバシーは秘めていたものだ。また、職人の帰宅を監視する意味もあったらしい。何故なら、この窯の技術が外に漏れることを恐れ、製品の持ち出しに目を光らせたのである。
有田の主要な窯場は競争が激しく、工場を外から覗かれるのを嫌い、「トンバイ塀」という窯の廃材を利用した背丈以上の遮蔽壁を屋敷の周りに築いていた。
今ではこの路地に面したトンバイ塀は観光資源になる程風情がある。
塀の向こうに物語がある。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?