明伊万里物語の材料 その一

鍋島藩の国際感覚は長崎の警護役を黒田藩と一年交代で受け持たされた事で培われた。
明治を語る上で遡らなければならない幕末のアジアにおける大事件は先ずは阿片戦争(1840〜1842)における眠れる獅子、清国の敗北であろう。西洋列強の帝国主義の脅威は否が応でも高まった。日本への脅威は国防論が沸き起こり、国体の変革を求める尊皇攘夷運動へと展開していく。
佐賀藩がこの事件より以前にいつ早く緊迫した国際情勢を身につまされ、当事者として災難を被ったのはフェートン号事件(1808)であった。
長崎奉行や鍋島の家老らが切腹し、幕府は1825年、異国船打払令を出した。
この事件後、どこの藩よりも脅威に慄き、対策を講じる事になる鍋島直正《天保元年(1830)に第十代藩主に襲封》は臥薪嘗胆の決意があったに違いない。国防意識に目覚め、必要な措置として打ち出したのは藩内の質素倹約は固より、藩内の殖産興業であった。
とりわけ、有田焼は佐賀藩の財源として端倪すべからざる特産品であり、17世紀の半ばからオランダ貿易では多大なる成果を収めたのは周知の通りである。国内でも伊万里から舟積みされたものは大阪で積み替えられ、東西廻船の重要物資として全国津々浦々に流通していった。
有田には「皿山代官」が置かれ厳しく管理統制された。因みに初代代官は「葉隠」を口述した山本常朝の父親、神右衛門重澄であり、爾来明治四年の廃藩置県まで続いた。本途物成(年貢)とは異なる小物成でも、藩主の機密費(懸硯方)としての有田焼の存在は莫大であった。
陶磁器の運上銀は伊万里、有田郷からの年貢米の約二・五倍に上った。藩全体の年貢米換金総額十万両に対して陶磁器による歳入は八万両だった、とする説もある。
狂瀾怒濤の幕末が迫り来る中、存亡の危機を迎える災害が有田皿山に降り罹ったのが文政11年(1828)の大火である。この火災に火に油を注いだのが西日本全体に大きな被害をもたらした大型台風で「シーボルト台風」と後に呼称される。
シーボルトが帰国にあたり持ち出そうとした日本地図が、長崎港で座礁した係る船から見つかり、二度と来日出来ない処分が下され、追放された事件にもなったからである。灰燼と帰した皿山は蓄積した技術や人材、資料も喪われ、産地の能力は大打撃を蒙り極端に低下した。
天保12年(1841)、有田皿山の復旧には下火になっていた貿易を再開した久富家の功績が大きい。
出島や上海に進出した「佐嘉商会」は久富与治平昌常の六男、与平昌起が小城藩主から与えられた帆船大木丸が運搬に活躍した。
積荷はグラバーと開発した高島炭鉱の石炭や有田焼であった。直接海外市場に打って出た嚆矢である。その後、久富家から有田焼の貿易を譲り受けた田代紋左衛門は明治元年、有田の窯元9人が藩庁に申し出、貿易鑑札が増やされるまで独占していた。佐嘉商会は田代商会が引き続き「肥碟山信甫」(ひちょうざんしんぽ)の銘款がある有田焼は上海経由で欧米各地へ輸出され、その盛名は一世を風靡した。
風雲急を告げる慶應三年(1867)、パリの万国博覧会は開催され、欧州の市場における有田焼の真価が問われる事になった。
文政の大火から40年が経ち、瀬戸や美濃など国内市場に他産地の占有率が高まる中で貿易に活路を見出してはいたが、国内競争のために増産に重きを置き、品質は低下していた。元禄、享保年間の盛期の風格を感じることは出来ない。
パリ万博に出品されたものがどの様なものであったかは、全貌は把握できていない。恐らく久富や田代が上海経由で出荷されていたものの延長線上にあったのではなかろうか。武者絵や風俗を描いた、異国情緒を煽るようなものである。今でもこの時代の様式のものがアンティーク市場に出回っている。先頃、フランスの国立製陶所である名門セーブルの資料館に保管されていた有田焼の中に当時有田随一の名工と謳われた年木庵 深海平左衛門喜三の銘款がある本窯彩の器が里帰りしている。この釉下彩は深海が苦心の末、発明した当時には珍しい装飾技法であった。藩の資料には一万両の有田焼を買い付けたと記されているので、思いがけぬ特需に全山沸き返ったことであろう。
江戸盛期の古伊万里、柿右衛門、鍋島の様式美は一言で言えば材料が吟味され、意匠が考慮され、細工や運筆に意が注がれている。まさしく格調や品格が備わっていた。中国の景徳鎮の倣製から、我が国固有の染織や日本画の意匠を踏襲し、進化していく過程で格段に品質の向上が見られた。しかし、時に市場の価格競争や社会情勢により「悪貨は良貨を駆逐する」ように有為転変に晒されてきた。
パリ万博に幕府の要請のもとに参加した佐賀藩は何はともあれ、人材の育成に多大なる影響を及ぼした。この万博を契機に国際感覚が養われ、直接情報収集能力が高まっていった。団長の佐野常民が赤十字社を創設したり、伝統文化を守るために結成した竜池会、或いは博物館建設を提唱した事などは海外から日本を観察した経験がこれらの卓見を生んだ。「考古利今」の考え方が貫かれている。
用意周到にも慶応元年(1865)にはトーマスグラバーの計らいで石丸虎五郎、馬渡八郎をイギリスに留学させていて、パリ万博に呼び寄せ手伝わせている。
同行した、長崎に創設した英語塾「致遠館」の優等生、小出千之助の書簡によれば会期中に有田焼は五分の一しか売れず、残りは安価で売却した、とある。ただし異国の文化に関心や興味は高まりジャポニスムが流行しだした事は収穫だった。
明治元年に貿易鑑札が増やされ、輸出品の開発競争が製品の向上につながったことは想像に難くない。洋食器のフラットな皿、紅茶セットの取っ手が付いた碗皿、ティーポットやシュガー、ミルク入れ、或いはスープやソース用のチューリンやグレービーなど、江戸期にはなかった品々が見様見真似で製作されている。
明治三年には長崎に滞在していたドイツ人化学者ゴッドフリード・ワグネルを最後の代官、百武作十の斡旋で有田に招聘した。彼がもたらした窯材では藍色を発色する顔料の「呉須」に代わる「酸化コバルト」や多彩な釉下彩であり、グラデーションが容易な西洋絵具などであり、表現の幅が広がる事になった。ただ藍色は希釈が難しく、「呉須」のような滋味豊かな色彩を得るまでには相当時間を要することになる。有田焼の時代考証をする際、派手な色彩の青はほぼ「酸化コバルト」の使用であり、明治以降と特定する事が出来る。
燃料の薪に代わる石炭を使用する石炭窯の試作を行なっている。これは彼の在任半年間では実用化していない。明治四年の廃藩置県で彼は惜しまれながら有田を去ったのである。
明治新政府は不平等条約解消の交渉と
輸出拡大は殖産興業の悲願であり、外貨獲得源でもあり、万国博覧会が貿易振興の檜舞台と化した。花形は有田焼の巨器や自然美に特化した繊細緻密な運筆と多彩な描画に圧倒されたに違いない。ジャポニスムから印象派、アールヌーボー
明治六年(1873)、ウイーン万国博覧会は
佐賀藩の人財育成はものづくりから営業まで多士済々の人物を排出している。
情報収集は久米邦武
有田の陶工は深海兄弟
碍子の開発
明治十一年(1878)パリ万博に八代深川栄左衛門の参加
工芸品の改善を図った納富介次郎
窯業技術の近代化
川原忠次郎
輸出会社を創設した松尾儀助
万国博覧会に関わる執行弘道
公的支援大隈、佐野、品川
欧州に代理店を創設した深川忠次
明治伊万里の様式美はきや

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