和魂洋才 明治伊万里の粋 その1

今から37年前、ボストンに降り立った私は早速市内のアンティークショップを探し回った。
19世紀末(明治中期)この街に輸入食器を一手に販売するフレンチ商会「89,91&93.FRANKLIN  ST. BOSTON」

はあり、一族の三男、アーサーフレンチが有田に来て洋食器開発を指導し、全米での販売代理店にもなった。(後に詳述する)だからと言って100年以上経ったこの街の何処かにあるという保証はない。
 物語を明治元年に遡ろう。この前年、慶応3年パリの万国博覧会に参加した佐賀藩は有田焼を一万両も買付て出品した。参加した小出仙之助によれば、販売はうまくいかず売れ残った焼き物の始末に困ったが、それでも何がしかの手応えはあったのか、或いは欧州各国の名窯の進化を目の当たりにして、改良改善すれば市場は大きく参入する可能性を感じたのかもしれない。
この時代の陶磁器は生活文化の象徴であり、大衆にとっても憧れの品々であった。フランス、イギリス、ドイツ、イタリア、ハンガリー等では陶磁器は官営であった事がそのことを物語っている。
文政11年、有田を灰燼と化した大火から40年しか経っていなかったが、万博のための買い上げもあり、蘇っていたのだろう。
有田の有志は貿易許可の鑑札を一手独占していた「肥碟山信甫」(ひちょうざんしんぽ)の銘款で、一世を風靡していた田代紋左衛門率いる田代商会以外に10名の許可を鍋島藩本庁に命懸けで願い出た。
首尾よく認可されて、早速この中の何人かは長崎出島のバザールに出店し、俄に陶磁器の輸出に機運が高まっていつた。
http://www.gallerykaden.com/

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