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「自己の空間的考察」

紅顔の哲学者を目指して#12

2024年5月2日(木)

大学の図書館でこの日記を書いたのが懐かしい。
この頃は確かハイデガーの「存在と時間」を読んでいた気がする。だからか読み返すとその影響をもろに受けて書いているのが丸わかりだ。
この時は全く存在論の知識もないまま自分なりに哲学した。
今の僕が存在について書こうと思ったらどのようなものが出来上がるのだろう。また時間を作って書きたい。
哲学日記を読み返すたびに毎回思うけれども、今回のも本当に酷いなとガッカリする。ひどい文章だし、全く知識がないし。
だけれども、この時にしか書けなかったのだと考えると大事にしたいなと思う。そう思うと、この哲学日記をnoteに載せて良かったかもしれない。
もし載せていなかったら、後で読み返した後になんだこのひどい文章はとなって捨てていたかもしれないし、紙に書いているから無くしていたかもしれない。
まあ、読むに耐えないものであるが、多めにみてほしいところだ。


2023.11.29

前回書いた日記を見ると日付が11月24日となっているので5日間もさぼってしまった。
5日間も空けてしまったという実感がなく内心驚いている。
前回、前々回と2日連続で日記が書けたのだから、せめて3日連続を目指したいところだ。
そこから徐々に延ばしていき、最終的には本を読むのと同じ様に日記を書くことも習慣化できれば良いなと思う。
まあ、でも日記を書けているだけでも偉いとしておこう。
よし、今日の哲学日記を書こう。
前回まで"哲学"や"哲学する意味について"考えたから今日からは本格的に哲学していこうと思う。
今回は"私"とか"自分"について考えていきたい。
これは考えれば考えるほど難しいテーマであると思うが、哲学的な知識がないなりにも頑張って考えていきたい。
日本語において一人称を表す言葉はたくさんあるが、自分が生活する中で使うのは"俺"なので、"俺"とは何かについて深く考えていきたい。
まず、空間的に"俺"という存在を考えた時に、今自分が見えている景色 (つまり目の前に左手と右手があり、左手には黒いボールペンを持っており、右手には何も持っていない。そして今は大学の図書館にいるので、木製の机がありその上に自分の手がのっており、その他本やふでばこ、iPhone、メガネなどが置いてある。そして目の前にある白い紙に左手にもったボールペンで日記を書いている) が分かりやすくゲームの世界で言うのであれば一人称視点である。
この一人称視点においては、2つの眼によって知覚している情景がすべてであり、自分がそこに写り込んだとしても、それは下を向いた時に頭と背中以外の部分だけである。
つまり、空間として"俺"という存在を捉えた場合、一人称視点において自分以外の人や事物の存在が重要な要素となってくる。
一人称ときたら次は二人称であるが、二人称は"あなた"や"君"、英語だと"You"であるから、今回"俺"という存在を考える上では考える必要のないものなので今回は割愛する。
なので、次は三人称である。
三人称は三人称というだけあって、一人(自分)だけでは成立せず、相手がいて(二人称)、さらに他の誰ががいることによって成立する。
例えば今の自分が置かれている状況を例にすると自分は大学図書館の机に座っており、斜め左らへんに勉強をしている人がいる。自分が知っている人、もしくは友人である訳ではないが、一応"相手(あなた)"である。そして右手には本がびっしりつまった本棚があり、斜め右下あたりに、またこれも知っている人ではないが本棚にある本を眺めている人がいる。本を眺めている人は、"彼"もしくは"彼女"(三人称)である。
一人称視点に対して三人称視点とは、"俺"が机におり、その姿を斜め右にいる"彼"or"彼女"から見た視点となる。つまり、"彼"or"彼女"は今本棚の本を見ているが、視線を俺の方に向ければ、机に向かってこの日記を書いている姿を知覚することができるだろう。加えて、一人称視点では"俺"の頭と背中は写らなかったが、三人称視点では"俺"の体全身が写っている。もし、彼が本棚の前から移動して俺が座っている机の目の前に来たとしたら、棚の前よりも"俺"の頭がしっかりと写るだろう。
まとめると、空間の中で"俺"という存在を考えるとすれば、一人称視点で見る時よりも、三人称視点で見た方が頭から胴体、手足のある1人の人間として知覚可能であるということだ。
長くなってしまったので、次回続きを書こう。


これを読んでくれた方は、この日記自体の日付が5月2日となっていておかしいなと思ったかもしれない。
これを書いているのはこの時の僕ではなく、7月22日の僕だ。
なんでそうなってしまっているのか。
後々日記で書こうと思うからここでは言わないが、色々と僕の周りで変化というものがあって、そこからうまく立ち直れなくて、日記が長いこと書けずにいた。
立ち直れないということはそれが嬉しいことではなくて悲しいことであるということは分かるだろう。
本当に色々あって、ついこの間もあったばかりだ。
noteにあげている日記は書くのがとても楽しいし、正直投稿したい気持ちでいっぱいだった。でも、どうしても投稿するような気持ちにはなれなかった。
まだ僕を取り巻く環境は良くないし、気持ちの整理ができていないけれど、今日、投稿したいと思った。
今日から自分のペースで投稿できたらいい。毎日は無理だろうけど、少しずつ。
ただ、これから定期的に日記を書いていくとなると今は7月末だから、この日記の日付から数えて2ヶ月以上も間隔が空いてしまうことになる。
もちろんずっと書いていなかったわけだからしょうがない。けれど、それだと納得いかない自分がいる。
だから、なるべく僕の性格的に今日に至るまでにあったことを思い出してその日に書いた日記のように書き、5月から現在の日付に追いつけるようにしたい。
この日記を始めようと決めた時に毎日続けて投稿しようと決めていた。だからなるべく守りたい。
今日も哲学日記を載せたけれど、あと2つ残っているから2日分の日記はそれを載せて、あとは普通に日記を書いていこうと思う。
自分にとって印象的な日というのはもちろん何があったかというのは覚えているけれど、それ以外の日はほとんどその日に何をしたのか、何を考えていたか覚えていない。
そうなると覚えていない日の日記をどうするかが問題だ。嘘を書くわけにもいかない。
noteに投稿していなかった期間は何も書いていなかった訳ではなくて、再開した時にすぐに投稿できるように、一応何かしら書いていた。
それは僕が日頃疑問に思ったことを哲学的に考察するというもので、スマホに暇な時書き記していた。覚えてない日はそんな風な日頃僕が哲学していることを書こうと思う。
これからゆっくりなペースで無理しない程度に日記を更新していきたい。
みてくれている人もゆっくり見守っていてほしい。そして、何かの助けになればとても嬉しい。
明日は投稿できるかな。
できなくても何か書くことはしたい。
じゃあね。

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