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ネットの闇に咲く仇花‐謎の女(?)パコ崎ミャ子さん、(無謀にも!)フランス料理を食べに行くの巻。味蕾のマイノリティにも発言の自由を!

いやぁ、ネット社会には人を魅了してやまない愛すべき化け物たちがいっぱいですね。まるで魅惑のサーカス小屋、バーナム・ミュージアムです。誰なんですか、この人は!?? そもそもこんな40歳女性、実在します??? 
 


「彼女」のハンドルネームはパコ崎ミャ子さん、フォロワー数3400人越え、人気食べログレヴュアーのおひとりです。30歳からはじめられた食べログレヴューは十年目で40歳。レヴュー数は十年間で200件と少ないものの、それは「彼女」のレヴューのひとつひとつが入魂のポストモダン文学作品として彫琢され磨きあげられているからでしょう。「彼女」は誰が「彼女」に学歴を訊ねるわでけもないのにまるで枕詞のようにご自身が東大院卒であることを吹聴してやまない自称もの書きである。見方によっては東京大学は堂々たる闇の組織ですから、それは「彼女」の悪役(ヒール)宣言かもしれません。



また、「彼女」のプロフィール写真は十年間にわたって韓国系モデルのヨンアさんのそれをテヘベロでちゃっかり無断借用。ハンドルネームのパコ崎ミャ子。まさかとはおもいますが、パコ崎にはPaCO2(動脈血ガス分圧)が、ミャコには脈動が潜んでいるかしらん???(寝たきり老人で肺機能が衰え酸素療法を受けている患者でもなければおよそおもいつかないハンドルネームですね。)あるいはパコ崎は、謎の擬態語パコパコに由来するのでしょうか? (いつぞやはご自身がハードなマゾヒストであることを公言しておられましたね。)そしてミャ子はグラビアアイドル~タレントのみゃこさんからお取りになったものかしらん。


グラビア・アイドルのみゃこさん。
「あのね、おばさん、カラコンの話題も、
あたしのブログから盗ってるでしょ。
プンスカ。」


そんなパコ崎ミャ子さんにはお嬢さんがおひとり、来年小学生という設定です。パコ崎ミャ子さんはスポーツジムで二段回し蹴りの高さも出て、ベンチプレスも90キロに届く、ということになってはいます。(ジム通いの設定もまたヨンアがモデルかしらん?)好きな色は黒、醤油の色。愛車はマツダのスポーツカー、RX7 spirit R黒「醤油号」。(あ、この名前はぼくが勝手につけました。)なお、以下では「彼女」のことを、いかにも東大院卒女史、略して「いかトー女史」とお呼びしましょう。


画像を無断借用されて傍迷惑なヨンアさん




「彼女」はインターネット上の存在です。実在しているやらしていないやら、誰にもさっぱりわからない。話題も文章展開もきわめて老人くさい。浅草の尾張屋で天丼を召しあがれば、「尾の張りを粋に浅草本多髷♡」 とかなんとかヘボ川柳詠んじゃって悦に入る。広尾の某店でポテトフライを頬張っては、「水清月宿&水清無魚~♡」とフライドポテトに不似合いきわまりない讃辞の言葉を囀る。



「彼女」の文章はいつも躁っぽくはしゃいでいて。一人称はほぼ省略され、ときどき「私」が用いられ、たまに「オイラ」「アタイ」が使われます。句点さながらに♡マークが頻繁につけまくられる。文末処理は「ありんす♡」「ごじゃる」「ヤンす♡」「・・・ナリ」「ズら。」「・・・のダす♡」「だそうでしゅ。」「思っているでオじゃルまる♡」「マジな話でナンじゃラホイ?」・・・。 



いま40歳と言えば1984年あたりの生まれでしょ。ざっと深田恭子、宇多田ヒカル、小倉優子、倖田來未あたりの世代ですよ。ところがいかトー女史が幸福そうに召しあがる料理は以下のとおり。おそらく「彼女」のおいしさの基準になっているだろうとおもわれるのが麻布十番の定食屋ふじや食堂の、〆め鯖、ポテトサラダ、さんまの塩焼き、ぎんたら味噌焼き、イカの煮付け、カボチャ煮、キムチオムレツ、しめじアスパラ炒め。準じて「彼女」が惜しみない絶讃を捧げるのが びっくりドンキーのハンバーグ、たいめいけんの醤油ラーメン、なにを血迷われておられるかしらん、ゴーゴーカレ-が続く。他にはスキヤキ、トンカツ、エビフライ。鮨屋に趣味などあるはずもなく、ただトロを喰いまくり鮟肝をはさみ鰹のタタキをつまむだけ。あるいは海老マヨ軍艦だのツナサラダ軍艦だのマグロユッケ軍艦だの怪しげな鮨に満面の笑みを浮かべ、エビ汁を2杯がぶ飲みして店を去る。たまにまともな鮨屋に入ってあれこれつまんでみたところで結局レヴューの〆は「この店のガリは世界で一番おいしい」。焼肉屋に入ればタン塩のどか喰い。その他、「彼女」が愛してやまないのがウナギ、ごはんにシシャモ、セブンイレブンのおでん、チャーハン、ラーメン、五目タンメン、餃子、春巻、小海老のチリソースケチャップ味炒めが続く。イタリアレストランのピアット・スズキに入っても「彼女」が絶讃するのはペペロンチーノ(スパゲッティのニンニク風味オリーヴオイル仕上げ)である。なるほど、それもおもしろい逆張り趣向だとはおもうものの、しかし、読者は「彼女」の非標準的な味覚に由来するのではないかと疑うばかり。いやぁ、これでグルメを自称されても、ねぇ。



はやいはなしがパコ崎ミャ子さんはなんといっても醤油味が大好き、醤油、醤油、醤油がなくては日も夜も明けない。準じて脂肪のまったり感、そして油脂の舌触り、これが彼女をよろこばせる味覚の基本です。他にはウースターソース味、砂糖~味醂の甘み、ケチャップ~チリソース味、しいて言えば鮨屋でガリを絶讃してらっしゃいますから、酸味にもいちおう反応できるのでしょう。ざっとこれが「彼女」をよろこばせる味覚のすべてです。なんて老けた舌でしょう!?? これで40歳って言われても、ねぇ。


「彼女」はインド料理の感受性もなければ、四川料理にも興味なし。ヴェトナム料理に無関心、タイ料理を素通りし、近年華やかな韓国料理に目を向けることもない。夏になったら沖縄料理を食べたくなるなんてことも一切なし。しかも「彼女」がプリンとモンブランとマカロンとガトー・ショコラこそ召し上がるとは言え、それ以外のガーリーなスウィーツに無関心なことも不思議です。ナタデココ、ティラミス、ベルギー・ワッフル、生キャラメル、タピオカ、パンケーキ、フラペチーノ、パンナコッタ、エッグタルト、アサイーボウルに「彼女」は鼻もひっかけない。「彼女」は多感な時期にいったいなにを召し上がっていたでしょうか? 



また、食べログレヴュアーを十年も続けていれば、社交のあるレヴュアー主催の食事会に誘われることも一度や二度ではないでしょう。ところが「彼女」は他のレヴュアーと食事をした気配も一切ありません。もしや「彼女」には姿を見せられない理由があるかしらん???



しかも、「彼女」のレヴューには店の外装、内装、料理、料理人、給仕の写真が一切ない。もちろんそんなものはなくたってかまわないとはいえ、しかし「彼女」の場合、ほんとうに実食しておられるのかどうか、疑わしいときがままある。



その上「彼女」の履歴はつねに小解体され、建て増し増設が繰り返されています。たとえば、「彼女」の過去のレヴューでは「彼女」のフランス滞在は短期留学と観光で1年間になっているのだけれど、しかし、いつのまにか3年に延びています。また、かつて「彼女」はフランス文学ご専攻だったはずが、しかし、いつのまにかベルギーで研修医を2年やったなどという履歴が追加されています。なるほど、ハンドルネームに「動脈血ガス分圧」と「脈動」が潜んでいる可能性をもってすれば、「彼女」が「医学をちょっとかじっ」ていても不思議はないかもしれないし、かつまたじっさい東大医学部は交換留学が可能ではあるとはいえ。しかし、まさかフランス文学科の院生がベルギーで医学を「ちょっとかじ」れるものかしらん? しかも、「彼女」のパリでのおもいではバゲットがおいしかった話ししかなく、ベルギー2年滞在はフライドポテトが懐かしいという話題だけ。さらにはサザビーでアートオークションの仕事をやっていた時期もあるとさえ言いだす始末。「彼女」は「インドに30回ほど行った(デリーを拠点におもに北部インドを)」と豪語するけれど、しかし不思議なことに「彼女」にインド料理の感受性はまったくない。それどころか「彼女」が絶讃するのは呆れたことにGOGOカレーなのだ。品位を欠いたボロいトンカツにあろうことか醤油ととんかつソースで個性をつけた油脂過多のカレーをかけたあの気色の悪いあれが「彼女」の味覚をおおよろこびさせる味なのだ。いやはや、おそらくインド訪問30回もまた「彼女」お得意の駄ボラでしょう。「彼女」のすべての履歴が怪しまれるのも致し方ありません。


また、「彼女」は娘を持つおかあさんという設定です。もしもほんとうにそうならば、少しくらいは調理をするでしょうに、しかし「彼女」のレヴューにはその気配がまったくない。米の炊き方に趣味もなければ、味噌汁のおいしさでさえもはじめて外食で知るような人。ソーメンを湯がいたことがあるかどうかさえ怪しい。「彼女」に冷奴の好みの食べ方を訊ねることさえ恐ろしい。いかトー女史がいかに存在の疑わしい「味覚の豪傑さん」であり「食べログ界のどてらい女 problematic queen」であるか、おわかりいただけることでしょう。


この書き手はいったい何者? 果たして「彼女」の性別、年齢、学歴そのほかは真実でしょうか? もしもほんとうにこういう風変わりで異端的な自称40歳女性が実在するならば、いったいどういう環境で育ち、どういう理由でこのような老けた舌を持つにいたったでしょう? 「彼女」が自称もの書きならば、読者に「なるほど」と納得させるだけの真実相当性をそなえた理由説明が必要でしょう。また、こんなおいしいネタをスルーするなんて、文章芸人の「彼女」にとってももったいなさすぎる。謎は深まるばかりです。



今回いかトー女史はまず最初に「フランスで、ホテル暮らしを3年近くしか、したことない私」とさりげなく自慢をキラキラ~ン☆とひけらかしつつ、それを担保に白銀高輪の住宅地にあるフランス料理レストラン、コートドールのレヴューを書いた。恐ろしい予感がぞわぞわ競りあがってくるのは、ぼくだけでしょうか?




さて、いよいよここからが本題です。コートドールと言えば斉須政雄シェフ(b.1950-)率いる保守王道のシンプリーフレンチの定番名店。高齢者に人気があります。34席客単価ランチ1万円~ディナー4万円前後。90年代半ばで時代が止まっているような料理だけれど、そこには堂々たる自信が感じられもして、好きな人には堪えられないでしょう。ア・ラ・カルトで注文すると値つけがやや高いのだけれど、しかし、そのかわりスタッフを大事にする人情経営を感じもする。内装もまた当たり障りのない上品さで、商談、接待、お見合い、家族の記念日、はたまたデートまでなんにでも使えます。着てゆく服も天皇皇后両陛下がお召しになるようなファッションや、ポール・スチュアートやラルフ・ローレンならば上出来で、上手に着こなせばユニクロであろうが無印良品であろうがしまむらであろうが困ることはなにもありません。逆に言えば、それこそヨンアに似合うレストランとは言い難いし、もっと言えばもしもバレンシアガやコム・デ・ギャルソンなど着てゆけば、かなり居心地の悪いことになるでしょう。


なお、いかトー女史がフランス料理を召しあがるのは比較的にめずらしいこと。ほんとに大丈夫ですか? いったいどんな展開になるかしらん? たいへんサスペンスフルです。いかトー女史 対 コートドール。ドリームマッチ、開幕です!


「彼女」がコートドールで召し上がった料理は以下のとおり。料理選びはお店のスタッフにおまかせしたそうな。


赤ピーマンのムース 
Mousse au poivre rouge

帆立とアナゴのテリーヌ
Terrine de Saint-Jacques et d'anguille de mer

梅干しと青紫蘇のスープ
Soupe de Umeboshi et de perilla de Nankin

スジアラのブレゼ
Brezet de bar

オマール海老のポワレ
Poiret de homard


シストロン産仔羊のロースト
Agneau rôti de Cistron

牛テールの煮込み赤ワインソース
Queue de bœuf braisée avec sauce au vin rouge

金時豆とイチジクのコンポート
Compote de haricots rouges et de figues


やけに皿数が多いものの、とっても素敵で贅沢なコース構成ですね。いかにもコートドールらしい定番メニューでありながら、日本人にも馴染んだ食材を注意深く選びながらそれでいてさまざまな食材の料理を織り込んで、食べ手の味覚をさまざまに鳴らしてくれるchic でgorgeousなフルコースです。料理名の書き方に無駄な気取りがないこともいい感じ。もっとも、4万円越えのコースに牛テールの煮込みをはさむのはちょっとどうかしらん、またデザートにもうちょっと芸が欲しいな、というような疑問はややあるけれど、ま、そんなことはささやかなこと。なお、ぼく自身はフランス料理に期待する世界がやや違うゆえ必ずしもコートドール絶讃派でこそないけれど、しかし、それであってなお料理が立派なものであることは疑いありません。



さて、いかトー女史はコートドールを日本唯一の最高のフレンチレストランであると熱唱します。ただし、熱唱のまえにまずイントロがあって。「彼女」は言う、フランスと日本は水が違うでしょ、フランスは硬水、日本は軟水。それからまた同じ食材でも性質が異なっているでしょ。したがって、日本でフランス料理を提供するならば、工夫が必要である。ここまでがイントロで、さて、ここからがいよいよです。



「彼女」は「梅干と青紫蘇のスープ」を大絶讃します。”「天啓」が降りて来た時に生まれる「非の打ち所の無い作品」””「酸味と塩味」の幅の広い中を心地よく泳ぐゆらぎの様な「甘さ」””その「甘さ」の手には、隠すように「水の様に透明で微かな 苦味」が握られている♡””(註:この料理のいったいどこに苦味が潜んでいるでしょう??? いいえ、「彼女」の料理評に戻りましょう。)素材の持つ「日本独自」の清らかで透明で水の潤いの中に潜む「苦味」の重ね方が、その芯に置かれていると感じている♡””「日本的な素材」を「フランス料理」に生かし、どこから見ても「フランス料理」にしか見えない作品を作り出す”・・・。”そして「彼女」は言い放つのだ、”「コート ドール」様は日本における「フランス料理」を知る上での終点でもあり始まりでもある、他の日本のフレンチレストランは亜流であり、ものまねである。”(なお、彼女がコートとドールの間にわざわざ空白を入れるのは、その店名がブルゴーニュのCôte-d'Or 地方に由来するという豆知識披露なのでしょう。そんなことくらいフランス料理好きならば誰でも知っていることですが。いいえ、本題に戻りましょう。)


すごいですね~、ヤバいっしょ。まるで文学新人賞を狙って苦節半世紀のご老人がLSDキメて書いてらっしゃるような破れかぶれの文学性。しかも、なんという大胆かつ挑発的なお言葉でしょう。日本全国数多のフレンチレストランに喧嘩を売っているようなもの。そもそも「彼女」は料理を平明に記述する方法を身につけておられません。あなた、フランス料理の系譜と広がりをご存じですか? なにひとつご存じないでしょ。にもかかわらずの、このずうずうしさ、謙虚さのかけらもありません。これが天下のトー大院卒、イチョウマークの糞度胸。誰も呼んでもいないのに、あなた(いかトー女史)は白衣に緋袴姿で現れ、サル同然に無知蒙昧なわれわれ民草どものために、白い御幣を振りまわし、フランス料理についてとんちんかんきわまりない神託を告げはじめます。「彼女」の神託とともにたちまちカビ臭い死語の嵐が吹きすさび、そこから立ち現れる比喩がまた化け物じみていて、われわれ民草を恐怖させます。


いったい「梅干と青紫蘇のスープ」って、どんな料理なんでしょう? まずね、この冷製スープはアヴォカドグリーンの仕上がりなんですよ。推定するにアヴォカドとトマトを切ってミキサーにかけて、皿に盛って、仕上げに青紫蘇と梅干をスライスしたものを飾った、スムージーではないかしら。おそらく水は一滴も使っていないでしょう。(水を使う理由が見つかりませんから。)めちゃめちゃたんじゅんな料理でしょ。ただし、なるほど、酸味の重層的なかけあわせが効果的で「森のバター」アヴォカド由来のこってりした脂肪分がまったりあいまって、ひんやり冷えたこのスープは食欲に火をつけて、さわやかにおいしいことでしょう。なるほどね、「彼女」はこの料理がおいしく、そしてうれしかったのでしょ? だったらたんじゅんにそう書けばいいのに。


Le Japon exotique


なるほど「彼女」が指摘するとおりフランスと日本では水も違えば野菜の質も異なる。調理にあたってなんらかの戦略が必要でもある。たしかにそこまでは正しい。もっとも軟水の日本の水道水とて海塩を使えばミネラルは補えるし、そもそも水を使う料理って、(そりゃあたしかにじゃがいもやニンジンを茹でたり、春になればよろこんじゃってアスパラガスを縦長専用鍋で茹でたりはするにせよ、しかし料理としては)コンソメ、そして魚のアラの水煮ダシで魚介を煮る各種ア・ラ・ナージュ、はたまたポトフとブイヤベースの他にはほとんどありません。他方、日本の野菜は総じて甘いし、(トマトに顕著なように)加熱すればたちまち崩れてしまう。では、この環境でどう調理するか? 日本のフレンチ料理人だったら誰だって考えることですよ。



しかし、ここでお待ちかね、「彼女」お得意の論理の棒高跳びが披露されます。鳥だ。飛行機だ。いいえ、いかトー女史なんです。いったいどういう理由で和食材を使ったフランス料理のみが日本のフレンチのあるべき姿という主張が導き出されるかしらん? Pourquoi tu dis ça? そもそもアヴォカドやトマトは和食材でしょうか? もしも「彼女」の主張に従うならば、日本においてビーフストロガノフの理想形は吉野家の牛丼なの? 北イタリアおよび南仏のコートレットの正しい受容形態は、蕎麦屋のカツ丼なの? もっとも厳密に言えば、けっして牛丼とカツ丼は「どこから見てもフランス料理にしか見えない作品」とは言い難いとはいえ、しかし「彼女」のおっしゃているこはわけがわからないよ。


また、(どこの国にもあたりまえに言えることながら)、フランスのフランス料理レストランとてすばらしくおいしい料理をふるまう店もあると同時に、他方、けっこうな値段を取りながらもしかし、雑な調理のろくでもない料理を出す店だってたくさんあるでしょ?「彼女」だってご存じでしょ? フランスの食材をフランスの水を使って調理したところで、冴えない料理はいっぱいある。つまり、「彼女」の論理はぼろぼろです。しかし、「彼女」は自信まんまんファミマの肉まんで言い放つ、「今見えているコトが全てではない。その中身、本質を感じ取る♡ そんな、自分の感覚を確信にかえるために訪れていル~♡」さぁ、「彼女」ご自慢の論理の棒高跳び、いったいどんな結果をもたらすかしらん? 



なお、誤解のないように言い添えておきましょう。和フレンチってここ20年間ですでに定着した小ジャンルです。和フレンチの定義は人それぞれに違うでしょう。唯一絶対の正しい和フレンチなんてものはありえない。ただし、このジャン
ルにはひとつの知的で感覚的な問いかけがあって。フランス料理ってなんだろう? 和食ってどういうものだろう? その問いかけを楽しみながら、料理人も客もひとりひとりそれぞれに答えを出して遊ぶ。


余談ながらぼくは2011年麻布十番に開店した、un 十(あんじゅう)という和フレンチレストランのもともとのアイディアを出したもの。たまたまぼくはオウナーの友達だったから、和フレンチやってみれば、って提案して採用されたまでのこと。ざんねんながらun 十はとっくに閉店してしまったけれど。いまでも関係者からたまにあの店の話題は出る。ちょっと早すぎたね、もしもいまだったらうまくいったかも。ビルの4階で40席家賃80万円、広告費も使えなかったしね、などと慰められる。もっとも、ぼくはただアイディアを出しただけ、レストランは実際にスタッフを集めて作ってみないことには結果はわからないもの。いまだってうまくゆくかどうかはあらかじめわかることではありません。

和フレンチ、いいじゃないですか。野心的な料理人ならば挑戦したくなるでしょう。


ひとむかしまえのフランス人ならば、「Non.Non.Non.フランス料理をタタミゼ(=畳化=日本化)しないでください。S'il vous plait.」とかなんとか胸の前で手を左右にひらひらさせて上から目線で囀ったことでしょう。でも、いまやそんなことを言うフランス人はいません。それどころかLe Japon exotiqueとか言っちゃって褒めてくれるかもしれません。


しかし、コートドールはけっして和フレンチ推しのレストランではありません。この一品はコースにちょっとした驚きを添え、その後の流れに期待させるための小品という位置づけです。「彼女」のレヴューは、あどけない読者のコートドール理解をミスリードしてしまうでしょう。


Le Japon exotique


次に、いかトー女史の当該レヴューはその後何度も改稿され、当初のオリジナリティの賞揚一本路線ではなく、いまではどちらかと言えばコートドールの料理のシンプルさに賞讃が捧げられています。「シンプルだからコソ、味のアクセントを「どの味」に置くか、「フランス料理」の「基本中の基本」を「コート ドール」様の数々のお料理は教えてくれている♡」と褒める。この一節には一見もっともらしいことが書いてあるかのように読み流してしまいそうだけれど、しかし果たしてフランス料理の基本中の基本は味のアクセントをどこに置くか、なのだろうか? それは具体的にはたとえば前述のスープであれば、アヴォカドとトマトの比率のことかしらん? それとも梅干と青紫蘇を添えることかしらん? まったく意味がわらないよ。いかトー女史は料理の基本について、ご自分の食の経験にもとづいてご自分の頭と手でお考えになったことが一度でもあるかしらん? ここでもまた、ただ言葉だけが上滑りしています。



なお、いかトー女史にはまったくご存じないことがあって、それは1990年代前半コートドールの料理がなぜシンプリーフレンチと呼ばれるようになったのか、その時代的文脈です。実は、これ、京橋のシェ・イノや有楽町のアピシウスの料理のリッチな重厚さと対照的な意味で「コートドールの料理はシンプルだ」と称されたのでした。(あなただってアピシウスでブイヤベースを召しあがったことがおありでしょ。わざわざアピシウスへ出かけていってこともあろうに魚介の寄せ鍋を注文する、そんなあなたの茶人心をぼくは尊重しますけれど。)モダンクラシックなフランス料理 と シンプリー・フレンチ、両者の違いは肉骨の水煮ダシの取り方と、それをベースにしたソースの仕上げ方にあります。なお、90年代においてコートドールの軽さは、けっしてコートドールのみならずフランス料理全体が軽くなってゆく時代を象徴していたものでした。


さらに正確に言えば、あの時代に東京でフレンチを食べていた人ならば、むしろ松濤のエヴリーヌで雇われシェフだった時代、若かった頃のフィリップ・バットン・シェフこそがフランス料理が軽くなってゆく時代を颯爽と表象していたものでした。もっとも、あの時代を体験していない人にとっては、バットン・シェフ讃美などまったく信じがたい、笑止の沙汰であることでしょうが。



いずれにせよ、もう遠い遠いむかしばなし。(一部例外店を除き)いまのフレンチ・レストランのほとんどはシンプリア・フレンチなんですよ。デュカスだって、ミニクだって、食べ心地が軽いでしょ。その上、いまやフォン・ド・ヴォー(仔牛の水煮ダシ)さえとらない店も増えています。かつてフォン・ド・ヴォーはソースの土台として、なくてはならない〈おいしさの精霊〉だったというのに。つまり自称40歳の いかトー女史が持ち出してくるこの話題は30年まえの古雑誌じみていて、ぼくを含めフランス料理好きはただ苦笑し肩をすくめるばかりです。



フランス・レストラン料理にはモードがある。はじまりは1973年のヌーヴェルキュイジーヌ、それは料理人たちが起こした革命だった。料理人たちは宣言した、おれたちは職人じゃない、表現者なんだ。このときからフランス・レストラン料理は、さまざまな料理人による多彩な表現の切磋琢磨がはじまった。流行の変化も著しい。すなわちレストラン・フレンチって、パリコレみたいなものなんですよ。もちろん料理人はどんな料理をふるまおうが自由ですが、料理のモードはどんどん変化し続けています。つまり依拠している考え方が、麻布十番ふじや食堂とは違うんですよ。どうぞ、「今見えているコトが全てではない。その中身、本質を感じ取」ってくださいな。いいえ、そんなにリキむこともなくて。本質なんてものはプラトンにおまかせして、むしろまずは料理の形式を読んでくださいな。形式ならば理性を持つ者ならば誰だって考察できるでしょ。なお、フランス料理の形式については後述します。



しかも、驚くべきことに いかトー女史は、コースにおいて「梅干と青紫蘇のスープ」以外の他の料理を一切ガン無視。ポーションが不明ゆえどこからがメインなのかわからないもののスジアラ(変な顔をした赤く大きな魚。海の魚でおいしい。)のブレゼはどんな仕上がりだったかしらん。また、もしもフランス料理を愛する人ならばこのコースについてもっとも語るべきはオマールのポワレと仔羊のローストでしょ。Poiret de Homard(オマールのポワレ)においては、その稠密なオフホワイトの肉質がどれだけ優美に焼きあげられていたか。 le rôti d'agneau(仔羊のロースト)においては、調理にあたってオーヴンの包みこむ加熱の活用。具体的にはきっかけの高温加熱、ベンチタイムを挟んで、そして仕上げの低温加熱、この絶妙な時間配分によって、どれだけしどけなくローストされていたか。そしてソースはいかに華やかにおいしさを方向づけていたか? この2皿がこのコースの見どころであり楽しみどころ、つまりクライマックスです。ところが、いかトー女史はなーーーーーんにも教えてくれません。Pourquoi ignorerait-elle ces deux plats ?(なぜ、彼女はこの二皿をガン無視するでしょう? )Vous, lecteur, savez-vous pourquoi ?(読者のあなたはその理由をおわかりになりますか?)あるいは、それらの料理がオリジナリティを欠いているからでしょうか? それとも「彼女」のこのレヴューには暗にコートドールへのなんらかの皮肉が潜んでいるのでしょうか? 


いいえ、たぶんそうではありません。もしもこれらの料理を褒めてしまえば、前述の「彼女」の讃辞、”「日本的な素材」を「フランス料理」に活かし、どこから見ても「フランス料理」にしか見えない作品を作り出す”、この讃辞のロジックが盛大に崩壊してしまうからでしょう。どうですか、「彼女」のこの態度? 失礼な女でしょ。Oh non ! Regardez cette stupid femme,
Madame Ikatoh!



もっとも、まるで出自の怪しい宗教家のように(?)あらゆる飲食店を肯定し絶讃してまわる、そんな いかトー女史が、これほどまで大胆に失礼な女であるともおもえない。だとすると、もしかしたらオマールのポワレや仔牛のローストに、そしてそれらの料理のおいしさを方向づけているソースに、快感を感じる味覚の文化的コードが「彼女」の舌にはそなわっていないのかもしれません。まさか、そんな!?? しかし、あきらかにその可能性はあって。「彼女」は過去に、デュカスのベージュ東京のレヴューを書いておられます。ちょっと読んでみましょう。


どうです、「彼女」のこの渾身のレヴュー? 「彼女」はたいへん饒舌に自慢がましい話題をえんえん書き綴るものの、しかし、けっきょく料理についての記述は、魚のグリルに鎌倉野菜が添えてありましたというだけ。どんな魚なのかについての紹介もなければ、ソースの解説もなし。また、「彼女」は鎌倉野菜を連呼するものの、しかしどんな野菜が選ばれ、組み合わせられ、どんな調理がなされ、どんな味だったのかについての記述もなし。コース全体の紹介もなし。なんて異様なレストラン・レヴューでしょう! もはや心理学の対象ではないかしら。「彼女」の饒舌の裏にはなにか隠したいことがあるかしらん? 



いずれにせよ、「彼女」は目の前のフランス料理に脇の冷や汗をかき、うろたえ、あわてふためく。いったいどうして「彼女」はフランス料理にパニックになる? ぼくは驚く、フランス料理ってそんなにも難解ですか??? ただ無心に目の前の料理を味わえば、おいしいでしょうに??? ところが、いかトー女史のように(五感を使うことができず)神羅万象を言葉でしか理解できないchatGPT人間が、しかし、あろうことかフランス料理には言葉を失ってしまう。「言葉、言葉、言葉! わたしの精霊、言葉はどこへ消えた!」


推察してみましょう。「彼女」はきわめて個性的な味蕾をお持ちであるのみならず、料理の形式を読むことができません。文章が言葉と文法で書かれているのに対して、フランス料理は食材/調理法/ソースの形式で「書かれて」います。したがって、フランス料理好きの食べ手は目の前のその料理の構造を舌で読みながら、食事を愉しむ。ところが醤油味覚圏に生きる「彼女」にとってはまったくそれどころではなくて、わけのわからない「言葉」の数々がばらばらに皿の上に盛られ、ソースなる意味不明な液体で飾られ、次から次へと繰り出される。「彼女」にとってはまるでラテン語。わからない。まったくわからない。わかりませんねんまんねんじゅうまんねんッ!!! 彼女は叫ぶ、この世でもっとも暗いのは、フランス料理の暗がりだッ!!!




おそらく「彼女」が涙涙で嚥下なさった前菜、魚、肉、デザートのコースのなかで「彼女」がかろうじて関心を持てた要素が、わずかに〈魚がグリルしてあるという情報〉と〈野菜が鎌倉野菜であるという説明〉だけしかなかったのでしょう、かわいそうに。そこで「彼女」は調理法グリル(grille=フランス語読みすればグリエ)について、〈薪や炭の炎に、直に魚をかざす=直火で焼く〉というふうに安手の辞書的に解釈し、この調理法は日本以外では実は「地中海周辺」にしかない、という説を述べておられます。Pourquoi tu dis ça? いかトー女史は賞讃しておられれるわけですよ、きっとデュカスはんは日本のどこかの炉端焼き屋でアジやイワシの串刺し直火焼きを召し上がって、感心なさって、さっそくそれをご自分のフランス料理に取り入れはったんでんなぁ、さっすが世界のデュカスはんや、偉いもんでんなぁ、というふうに。そりゃまぁたしかに炉端焼きの魚のあの焼き方もグリルではありますけどね。しかし、欧米近代におけるグリルって、むしろ肉や魚にあえてちょっとだけ焦げ目をつけて焼くことですよ。ほら、仔羊の背肉の脂をやや落としながら対角線の焦げ目のアクセントをつけて焼き上げるでしょ。ラムチョップのあの焼き方。あれが欧米料理におけるグリルです。日本でも、魚を焼き網を使って、いくらか脂を落とし、焦げ目をつけて焼くでしょ。同じことです。ついでに言えば、多くのガスレンジには引き出しがついてるでしょ、あれはグリルを基本にしながらロースト効果も加味した加熱をおこなうためのものです。(ちょっとだけ焦げ目をつけて焼き上げると、ごくわずかな苦味のアクセントによって、肉や魚がいっそうおいしく感じられます。なお、こういうことこそが料理の基本なんですよ。)あの筋目をつけて焼き上げるために専用の、凹凸の筋目ストライプをつけた鉄製の専用グリルパン(=フライパンの親戚)が日本を含め西側諸国ではどこでも売っています。したがって、恐縮ですが、魚のグリルに”日本的な「筋の良さ」をたがうことなく猛烈に感じまくる~♡”必要など一切ありません。FYI。



グリル・パンで焼きあげたラムチョップ。
格子状の焼き目をご覧ください。
これがグリルです。


「わたくしデュカスもびっくりです。」



いかトー女史はフランス料理を食べ慣れていないにもほどがあります。あまりにも経験値が足りない。フランス料理のどこをどう味わったらいいのかまったくご存じない。どこの国の料理にも型があって、文法に相当するものがあるのだけれど、もちろんそれさえご存じない。そのうえいかトー女史は魚のグリルがフランスでもあたりまえな調理法であることさえもご存じないにもかかわらず、例のコートドールの大絶讃ですよ。すごいでしょ、いかトー女史ってなんてタリラッタ~でどんげらぴょ~な人でしょう。こんな人、ちょっといません。しかもその「彼女」は東京大学文学大学院フランス文学科卒を自称しておられるというのに。


「彼女」の味覚の謎。その答えは「彼女」の言葉のなかにあります。「日本で有名とされるお店で”フランス料理”を食べると、”こげな綺麗なソースや複雑怪奇な装いの味わいで彩るよりも、バター醤油もしくは、わさび醤油のビシャがけで食った方が素材の良さが直に伝わり、満足感がMaxになるジャね・・・? とか・・・思ってしまうんだなぁ・・・」


わちゃーーー! まず最初に、もしもあなたが肉そのものの素材の良さを味わいたいならば、ユッケや牛肉の刺身を召しあがってくださいな。けっして焼いた肉片にバター醤油だのワサビ醤油だのをビシャがけして口に放り込んだところで、素材の良さはきわめて限定的にしか味わえません。


次に、素材の良さを味わうことを至上とするのはあくまでも鮨美学であって。フランス内陸の都(日本で言えば京都さながらの)パリで栄えたフランス料理に鮨美学を押しつけることは自分勝手というものです。そもそもパコ崎ミャ子さんは鮨を召しあがったところで、あなたが感受できるのは魚の食感と煮切り醤油に潜む味醂の甘味、米イカにまぶされた味噌の甘み、あとはせいぜい〆たアジの酸味だけでしょ。なんなんですか、けっきょくあなたはそれぞれの魚そのものの味にはまったく反応できてないじゃないですか! しかもあなたのこちらの鮨讃美最後のアリアはこちらのガリのすばらしさ! いやはや。



そもそもあなたのその、「ステーキにワザビ醤油ビシャがけで食べるとサイコー♡」発言って、かの北大路魯山人がトゥールダルジャンで鴨料理にワサビ醤油をかけて召しあがったっていう逸話のものまねでしょ。魯山人には魯山人の味覚哲学があって言いたいことの意味はよくわかる。しかし、異端的味蕾を持ち、ダシの味もわからないプアな味覚を持つあなたがまねして同じせりふを囀ったところで、読者の爆笑を誘うだけですよ。いいえ、本題に戻りましょう。



なるほど、さまざまな魚のそれぞれ異なった味を言葉で表現し分けることは至難の業、ほとんど不可能に近い。言葉の限界がここにある。しかし、それでもグルメならば過去に同じネタを食べた経験を参照して比較するなり、それぞれの握りにほどこされたネタと「仕事」の関係(目的)に着目するなりして、(いわば補助線を引くことによって)そのときその場のその魚の味を浮かびあがらせるものですよ。いいえ、ぼくはけっして味覚の言語化を問題にしているわけではなくて、むしろいかトー女史が魚そのもの味に反応できていないことにただただ驚く。





ぼくはあなたの舌をよーーーく了解できしました。なるほど、あなたにとってもっとも重要な味の決め手は醤油なんですね! より正確に言えば、あなたの味蕾をよろこばせる味は醤油、ウースターソース、ケチャップ、味醂~砂糖、脂肪のまったり感、そして油脂の舌触りだけなのだ。これで食べログレヴュアーですから、とんでもないこと。いやはや、とうてい現在40歳日本人の言い草とはおもえません。「彼女」にとってはまずは醤油で、醤油を前提に肉やマグロやウナギ、バターの活躍がある。これが「彼女」の舌をよろこばせる快楽のツボなのだ。「彼女」にとってはせっかくの肉も醤油がなければ意味がない。だからこそ、「彼女」は言う、「豚の角煮に醤油をかける、それがわたしの流儀」。また「彼女」はBISTRO SUZUKI のステーキについてその醤油使いを絶讃する、「ステーキは(・・・)バターで焼いてしまうと油ぽくなり、最後の一口に到達する前に、肉にまとわりついたしつこさに飽きてしまう。でも、今口の中にあるステーキは違う。柔らかい肉質に、醤油風味のソースが最高。鼻を通る香りが漏れるのも勿体無い。フランス料理のソースもいいけど、日本人なら醤油なんだな。」



すごいですね~、ついさっきまでまるでフランス料理第一人者を自称するかのようなハッタリをかましていた「彼女」が、しかし、あっというまにフランス料理から撤退。いまや「彼女」はフランス料理を全否定しておられます。いいえ、それとも「彼女」はニッポンのフランス料理に和風化改革を要求しておられるのでしょうか? 仮にそうだとして「彼女」は和食がコンブ、カツオブシ、イリコ、干シイタケ、アサリ、シジミ、干貝柱、そのほか多彩なダシを活かしてさまざまなうまみを作り出すことをもまったく感受できないゆえ、もっぱら醤油愛のみをひたすら歌いあげておられるのでしょう。おそらく「彼女」の和食の基準が麻布十番ふじや食堂だからでしょう。



なるほど和食は醤油を澄まし汁、煮物、お浸しそのほかに多彩に活用します。ただし、澄まし汁はカツオやコンブのダシがあってこそ。煮物は干しシイタケ、酒、味醂があってこそ。お浸しはカツオダシがあってこそ。つまり醤油はいわば名バイプレイヤーに過ぎません。とうぜん食べ手はダシの味を愉しむ。「日本人なら醤油なんだな」!?? いやはや、なんて貧しい和食愛でしょう。失礼ですけど、そんな貧しい和食愛、要りませんよ。迷惑千番。被害が日本料理店にまで及ぶだけです。失礼ながらあなたの味覚はパレスチナのガザ地区さながらではないかしら? もはやとうてい健康な40歳女性の味覚とはおもえません。



いずれにせよ、気の毒にも「彼女」は大枚払って食事をしているにもかかわらず、しかし、料理はちっともおいしくない。醤油味覚圏を離れた「彼女」にとっては、すべての料理がなにがなんだかまったくわからない。さぞや不愉快きわまりない経験だったことでしょう。かわいそうに。なお、フランス料理のレストランはテーブルの上に各種調味料を置きません。これは高齢者に優しくないこと、と言えないこともありませんね。なお、「彼女」にはヴィタミンB12と亜鉛をサプリで補うことをお勧めします。



対照的に、格安料理の味は濃く、原価計算によって食塩使用率も高いゆえ、塩度も強く尖っています。また、「彼女」が大絶讃するびっくりドンキーのハンバーグソースは醤油と味醂の風味。「彼女」が最上級の愛をもって讃美するゴーゴーカレーはあろうことかカレーに醤油とトンカツソースで(得体のしれない)個性をつけている。「彼女」が大好きなラーメンはたいめい軒けんの醤油ラーメンである。(たしかにあれはおいしいですね。ただし、たいめいけんのラーメンスープは、チキンとポークのガラをベースに鰹と昆布、野菜で旨みを出し、挽いた胡椒でパンチを効かせています。醤油はあくまでもおいしさを方向づけているに過ぎません。)



いずれにせよ、醤油味にしか反応できない「彼女」の、満面の笑みが目に浮かびます。だったらそういう店に行きさえすれば、たとえあなたの嗅覚・味覚が多少(?)衰えているにせよ、あなたはかんたんに幸福になれるでしょうに! つまり、あなたはコートドールだのデュカスのベージュ東京なんて行かなきゃいいし、また見栄張って無理くり絶讃レヴューを書くこともないでしょうに。


もっとも、コートドールの料理とて、たとえば「帆立とアナゴのテリーヌ」には魚介好きの日本人への配慮があって日本人が食べるフルコースのスタートとしてしたしみやすい。他の料理もフランス料理としてはわかりやすい料理ではあって。デザートの「金時豆とイチジクのコンポート」もまたいかトー女史のような保守的な味覚の日本人をよろこばせたいがための一品でしょう。しかし、「梅干と青紫蘇のスープ」以外はけっして「彼女」の味覚をよろこばせはしなかった。いかトー女史の怒りの叫びが聞こえてきます、味がしねーんだよッ、ボケッ! 



そんなこんなで、時を駆ける東大院卒元少女たる「彼女」にとって、フランス料理はひじょうにむかつく。他の人が笑顔で楽しみ、しあわせを味わっているなか、しかし自分だけが理由もなく(?)疎外され、それが腹立たしい。しかも、この怒りを誰にぶつけることもできない。しかし、「彼女」は自分がフランス料理を味わうことができず、憤慨さえしていることだけは誰にも気づかれたくない。むしろ、自分がフランス料理を存分に味わい、料理の仕上がりの優劣を評価できる人間であると読者におもわせたい。そこで「彼女」はわたしにはフランス暮らし3年間の経験がある、わたしはフランス料理通なのだ。にもかかわらず、そんなわたしが日本のフランス料理に感動できないのは、日本のフランス料理が亜流でありものまねだからだ、という主張を「彼女」はぶちあげる。かわいいでしょ、いかトー女史って♡ 



「彼女」の味覚はまことにもって大正・昭和のFemme japonaise (日本女)。家庭の食卓に必ず醤油の小瓶、ウースターソースの小瓶、そして味の素のミニチュア瓶が置かれていた昭和をぼくはおもいだす。なんとなれば、「彼女」はコートドールへも携帯醤油持参で訪問して、オマールのポワレも仔羊のローストも「醤油ビシャがけで」召しあがれば、さらにいっそう「彼女」のコートドール評価は高まるでしょう。メイプルシロップもかければさらにいっそうあなた好みの味になるかもしれません。それはそれでひとつの個人主義のあり方ではあるでしょう。いいじゃないですか、やっちゃいましょうよ、ねぇ。あなたの人生の主役はあなたなのですから。



しかし、ここで不滅のいかトー女史は攻めに転じる。いかトー女史は醤油愛こそが正しい日本人の味覚の在り方であるとして、他方、現代の日本人の、なんでもかんでもよろこびいさんで喰いまくる、そんな堕落した精神を軽蔑し、そのいやしい根性を叩き直すべく啓蒙を試みる。「彼女」は憂国の士として、自衛隊市ヶ谷駐屯地のバルコニーで演説する三島由紀夫さながら、梅干フレンチ最高論を演説するのだ。ぼくの心の耳にはいかトー女史の悲壮にして激烈きわまりない演説が聞こえてきます。「いまの日本の食のなんたるていたらくであることか。諸君は日本人の誇りを失ったのか。われわれにとって最高の料理は和食なんだ。われわれがフランス料理を見栄張って喰ったところで、ほんとうはおいしくもなんともない。もう一度言おう、われわれにとって、フランス料理はまずい! いいかげんに見栄を張るのはやめようじゃないか。正直になろうじゃないか。いま、われわれが讃えるべきは梅干フレンチである。あるいは、いまわれわれが起こすべきは洋食ルネサンスなのだ。バター醤油がいかにおいしいかを忘れちゃいけない。わさび醤油もな。醤油だよ、醤油! 諸君らだって日本人だろ? だったら醤油を忘れんな! 静かにしろ。話を聞け。女一匹、命を賭けて諸君に訴えているんだぞ。立ち上がれ、諸君。日本人の味覚を守ろうじゃないか。それこそが、天皇を中心とする、歴史と文化の伝統を守ることなのだ。


「醤油だよ、醤油! 
諸君らだって日本人だろ?」
 


果たしてこれはぼくの幻聴でしょうか? いいえ、けっしてそんなことはないでしょう。いやぁ、すごいことになってきましたね。いかトー女史は味覚障害バイアスをものともせず、むしろ世間の味覚に異議を申し立てる。醤油味とウースターソース味とケチャップ味、味醂~砂糖の味、脂肪のまったり感、そして油の舌触りににしか反応できないわたしの舌こそが日本人として正しく、わたしの舌をよろこばせないすべての料理はまちがっている。「わたしをうろたえさせるフランス料理は間違っている。猛省をうながしたい。わずかに、わたしの味覚と接点がある梅干フレンチこそが、ニッポンのフランス料理のあらまほしき姿であり唯一の希望なのだ!」「彼女」のこの叫びの激烈なこと。


なんでこんなことになっちゃったかしらん。「彼女」の味覚、その審美趣味への理解が深まれば深まるほどぼくは、「彼女」のフランス暮らしが不憫でなりません。いまよりもずっと若かった頃のことでしょうが、しかし、「フランスで、ホテル暮らしを3年近くしか、したことない」「彼女」はその頃であってなおフランス料理を存分に楽しめた形跡はどこにもありません。さぞや外食が淋しく気が重くなったことでしょう。



「彼女」が秋の夕暮れ、コートの襟を立て、一区のKIOKOでBonjour.とか囀って、醤油、味噌、納豆、果てはハウス食品のまことに怪しげな「特選生わさび」チューブなど買い込んで、Merci.とかau revoir.とか小声でつぶやいている淋し気な表情が目に浮かびます。そんな日の「彼女」の目にはリュクセンブール公園に敷き詰められた美しい黄金色の落葉も自分の若さが失われてゆく哀しみの象徴のように映ります。機嫌のいいときならば聴こえてくるはずのフランシス・レイのメロディもきょうは聴こえてきません。そのうえ「彼女」は気の毒にも犬のうんこを踏みつけてしまう。C'est donc Paris. ただ味噌と醤油と素性の知れない練りわさびだけが「彼女」に東京のビルの谷間、港区ながらかつては下町だったふるさとで懐かしい人たちとともに幸福に暮らしていた日々をおもいださせてくれます。さぞや淋しかったことでしょう。





「彼女」は「フランスで、ホテル暮らしを3年近くしか、したことない」とおっしゃる。しかしほんとうは(ひいきめに言ってせいぜい)3か月ていどだったのではないかしらん。なぜって、もしも「彼女」の滞在が3年間ならば、「彼女」のフランス滞在の話題がパリ12区のMaison Doucetで召しあがったバゲットがおいしかった話しかないのも不思議だし、またフランスでも魚のグリルがありふれた調理法であることをご存じないことも不可解です。しかも、ふつうはフランスに3年も暮らしていたら、モロッコ人経営の食堂でクスクスやタジンを好きになったり、ヴェトナム料理に誘惑されたりするものですよ。もちろんマルセイユまでブイヤベースを食べに行ったり、ブルターニュの寒空の下、牡蠣のおいしさに感動したりもするでしょう。もちろん「彼女」の場合、パリの日本食レストランへ行かずに済むわけがない。しかし、「彼女」にそういう話題は一切なし。また、もしも「彼女」がほんとうにフランスに3年間滞在してなおここまで頑固に味覚が変化しなかったならば立派な適応障害ですよ。そもそも「彼女」の書く文章には、たとえばフランスに3年間近く暮らしたということひとつとってもその文章に真実相当性がありません。フランスでできたお友達の話などまったくありませんし。



もっとも、きわめて非標準的な味蕾を持つ、時を駆ける東大院卒元少女(?)たる「彼女」のフランス暮らし3年が嘘だったとしても、かわいい嘘ではあって。もしも小学2年生の女の子がそんな嘘をつくならばまわりの大人たちは微笑むでしょう。



そもそもフランス暮らしが3か月だろうが3年だろうがどうだっていいことではあって。なぜって、フランス料理はいわば料理の英語ですから、フランスに滞在しようがしまいが、どこへ暮らしていようとその人がいったんフランス料理を好きになったならば食事を重ねることによって、フランス料理好きはいくらでも育つもの。(イギリスで生活しようがしまいが英語はいくらでも学べるでしょ。)と同時に、フランスに暮らせば暮らしたで文化的背景がわかりますから得るものもまた多いでしょう。



いずれにせよ、頭で食べるのではなく、自分の舌で食べる。楽しみながら食べる。料理のなり立ちを考える。ときには自分で調理する。これがいちばん大事なこと。逆に言えば、食事が合わない土地からは早く立ち去ることがしあわせというもの。またどこで暮らそうがフランス料理に向かない人もいるもの。



次に、「彼女」がフランス料理に向いてないからといって、べつにどうってこともありません。なるほど、昭和の御代にあっては日本のインテリはこぞってフランス文化の輝きにあこがれ魅了されたものですが、しかしいまやそれもむかしの話。魔法が解けたいまとなっては、フランス料理も中華料理もインド料理も日本料理もその他どんな料理ジャンルとて自分にとっておいしいものはおいしいしピンとこないものからはさっさと立ち去る。ただそれだけのこと。


また、近年の日本では堂々たるフランス料理をふるまっていながらあえて鉄板焼きの看板を掲げる店もあれば、高額和食店のなかにはひそかにフランス料理の技法を密輸している店もけっこう多く、たとえばフォグラの茶碗蒸し仕立て(FLAN DE FOIE GRAS)をメニューに組み込む店などざらにあります。はたまた居酒屋メニューにさえも、トリッパ(ハチノスのトマト煮込み)、カスレ(ソーセージと白いんげん豆の煮込み)、チリコンカン(豆のトマト煮込み、赤唐辛子風味)が堂々と存在することさえ多い。これが現代日本です。



また、べつにフランス料理に反応できなくたって、他においしい料理ジャンルは山ほどあって、困ることはなにもありません。じっさい「彼女」はいたって正直にご自分の実感を語っておられます、「日本で有名とされるお店で”フランス料理”を食べると、”こげな綺麗なソースや複雑怪奇な装いの味わいで彩るよりも、バター醤油もしくは、わさび醤油のビシャがけで食った方が素材の良さが直に伝わり、満足感がMaxになるんジャね・・・? とか・・・思ってしまうんだなぁ・・・」Pas de problème. それでいいんですよ。



しかし、ここまで深刻な事態を知り及んでしまった今、「彼女」には「中の人」がいて、その「中の人」はご老人であるとおもわざるを得ません。とくに70歳以上にもなれば味蕾の数が乳幼児に比べて3割から5割も減少します。さらには唾液の分泌量が減ることもあって。特に塩味の感受性が衰え、なんと成人の12分の1まで減弱する人もいると言われています。12分の1! これはもうえらいことですよ。そりゃあなんでもかんでも醤油ビシャがけで召しあがりたくもなるでしょう。なるほど、日本人は老人になると日本蕎麦や鮨への愛着が増し、梅干、塩昆布、漬物がいっそう好きになる傾向がありますね。しかも多くの場合、塩度の感受性が衰えると同時に、甘味の感受性もまた鈍くなる。だからこそ、老人は甘みの強い料理におおよろこびすることになる。



もっとも、味覚障害へ至る道は(老化以外にも)至るところにあって。たとえば「中の人」が糖尿病にかかっておられて、さらには糖尿病性腎症にまで至っているのかもしれません。糖尿病性腎症にかかってしまうと亜鉛が吸収されず排出されることによって味覚障害が起こります。また糖尿病薬剤によっても、降圧剤によっても味覚障害は起こります。ましてや腎臓疾患にでも至ったならば大変なこと。(万が一にも、すでにあなた‐中の人‐が透析患者にでもなっておられないことを、ぼくは切にお祈りします。)なお、味覚障害と嗅覚障害はセットで起こることが多い。はたまた嗅覚・味覚障害が大脳の機能障害の可能性もまたあって、そうなると事情はさらにいっそう深刻です。とっくに老眼なっておられることでしょう。やがて追い打ちをかけるように難聴がはじまる。


ヒトが外界をセンサーするのが5感で、そこから入って来た情報を脳が処理して、ヒトは現実を認識する。そんな大切な5感が劣化する。とうぜんその人の現実認識はある種の疎隔(外界とのへだたり)をともなうようになるでしょう。



わたしの味蕾について
シのゴの言うのはやめてください!



もっとも、「中の人」が嗅覚・味覚障害であるにせよ、しかし、だからといって恥じることもなく、また差別される所以もありません。生きていれば誰だって歳をとるのですから。むしろ、いかトー女史に扮する「中の人」は堂々と毅然とふるまい、肩の力を抜いて、誰の目も気にすることなく、ありのままの自分で、自分の好きなものを好きなように召し上がればいいじゃないですか。びっくりドンキーのハンバーグ。スキヤキ。アメリカンドッグ。チーズバーガー。タン塩。トロ。鮟肝。ウナギの蒲焼。天丼。醤油ラーメン。お好み焼き。タコ焼き。ソースやきそば。スパゲッティナポリタン。GOGOカレー。氷イチゴ。大福。ぜんざい。ポテトッチップスにコカコーラ・・・。あなたをおおよろこびさせるものはたくさんあります。逆に言えば、高級日本料理はもちろんのこと、トロと鮟肝以外の鮨もあなたをよろこばせない。また、たとえ中華料理の油脂がどんなにあなたをよろこばせようとも、しかし、あなたが中華料理に感受できるよろこびはきわめて限定的でしょう。ましてやインド料理やフレンチにいたっては、あなたの味覚圏からは大きく逸脱しています。もちろんそんなものをあなたが相手にする必要はありません。それでももしもどうしてもあなたがご自分の味覚圏の外にある料理をも召しあがりたいならば、どうぞ、あなたのハンドバッグにあなた最愛の調味料群を忍ばせて、ウキウキ気分で飲食店へお出かけください。一度限りの人生、あなたはあなたであることをおもいっきり楽しめばいいじゃないですか。他の誰かになろうとおもったところで、けっしてなれるものではありません。



また、「中の人」たるあなたは多くの読者の先輩。高齢者界のインフルエンサーになりえる資質を持っておられます。なぜって、あなたは文章上で40歳女性を演じるという奇抜な方法で、ほとんど躁病的にご自分の老齢期をはしゃいで楽しんでおられます。こんな愉快な老人、誰も見たことありません。なんてきてれつなエイジフリー感覚でしょう! 



では、いったいなぜこのご老人が、盗んだプロフィール画像で若い女を偽装し、苦心惨憺の文末処理でキャピキャピ若作りしているにもかかわらず、しかし無惨にも「中の人」がネカマ老人であることがバレてしまうでしょう? その理由はけっして味覚の老化だけではないでしょう。ひとつにはこのご老人がもっぱら観念的に生きていて、けっして五感を使って生きることができていないからでしょう。五感を使って生きている人にとっては日々目に映るすべてのものが新鮮なもの。おのずと話題もつねに新しい。それに対して、観念的に生きているあなたの脳は日々使っている部位がきわめて限定的で、とうぜん使っていない多くの部位は衰えてゆきます。したがって、観念的に生きているあなたの話題は(文字情報に依存するゆえ)アップデートもままならず、結果遠いむかしの古雑誌さながらになり果てています。そもそも文字情報は遅れをともなう。しかも、体験をともなっていないゆえ記憶に残りにくい。文字情報って微力なものなんですよ。だからと言ってぼくはそれを軽んじはしませんけれど。それに対して、五感で受け取る情報には時差もなく、記憶にも残りやすい。たとえば誰かとはじめてキスでもすれば、その記憶は鮮烈に残りつづけるでしょう。グルメにとって食はそんな幸福な体験を求めていて。しかし、哀しいかなあなたがくちづける相手は前述の料理群に限られています。とはいえ、それでもご自分が心底愛せる対象を無限に愛する、これが人を幸福にする唯一の道。どんなにあなたが他人の「恋愛」に胸をかきむしって嫉妬なさったところで、あなたの品位を下げるだけのことです。どうぞ、ふじや食堂のお総菜、びっくりドンキーのハンバーグ、そしてGOGOカレーを愛し抜いてくださいな。



もしもぼくがあなたの担当編集者だったならば、あなたにアドヴァイスするでしょう。あなたが書くべきものは、老いを主題にした、ポストモダン長篇小説ですよ。第一章はあなたがネット上で書いてらっしゃるとおり、40歳女性になりすまして彼女の日常を描く。つまり、いかにもあなたがエリートであることをひけらかすような仕事の会議がどうこうとか、カラコンがなんたらとか、スポーツジムでなんちゃらかんちゃらとか、大好きな福島のお嬢さんとの交流がたのしかったとかなんとか。それでいて「彼女」は麻布十番ふじや食堂で老人くさい料理を醤油ビシャがけでたらふく召しあがる。続く第2章はオフラインにける老人の生活を描く。もの忘れがひどい。毎日飲むたくさんのクスリをきょうはもう飲んだのかまだ飲んでいないのかわからない。頭がボーッとする。神経痛に悩まされる。『誰でもできるひざ根治法』のページを祈るようにめくる。しかし第3章はまたイケイケ40歳女性が愛車のマツダなんちゃら「醤油号」を運転して夜の街をドライヴしたり、エステに通ったり、そしてふとした出会いに浮気願望をかきたてられて道ならぬ恋に落ちる。西新宿のホテルの高層階の一室、ガラス窓の向こうに綺麗な夜景の見える。有線放送からちいさな音でバッハのピアノ曲が流れるなかで、不敵な微笑みを浮かべた男に裸のあなたはローションを塗りたくられ、SMプレイに歓喜の声をあげる。しかし続く第4章ではあなたが憂い顔で背中を丸め「長寿ホルモン」について検索する。あなたが麻布商店街を歩けば頻尿に悩まされ、おまけにあなたは、散歩中のマダムが連れ歩くビーグル犬に吠えられる。このように章ごとに別人の別世界を描きながら、物語は進行してゆく。しかし最後の章でいよいよ、ご自分が作り出した妄想の40歳女性と、ご老人のあなたが幻想的な出会いを果たす。愛にあふれた会話が恩寵のように交わされる。ご老人のあなたは告白する、「わたしは文章上であなたを演じているときだけ、生きているよろこびを感じられた。」「彼女」もまた慈愛に満ちた感謝の言葉を述べる、「わたしはあなたによって生を得た人間です。わたしはあなたにただ感謝の言葉しかありません。」どうです? 感動的なエピローグでしょ。21世紀サイコーの老人オナニー文学であり、ポストモダン化された谷崎~江戸川乱歩の誕生です! 話題になるのはまちがいなし。つまり、文学新人賞苦節半世紀の(?)あなたにいま眩しいばかりに希望の光が見えてきたんですよ。もちろんメディアも一斉に取り上げてくれます。文学界のスター誕生です。人生最後の時期に、日本中で話題になるなんて素敵でしょ。きっとそれはあなたを喜悦満面にして、それはあなたの長生きにもつながるでしょう。


いまやぼくは「中の人」たるあなた(おじいさん)に友情を感じずにはいられません。一緒に養命酒でも日本酒でも酌み交わし、醤油ビシャがけで食べる刺身でも、サバの味噌煮でも、イワシの生姜煮でも、ホタルイカと菜の花の酢味噌和えでも、デザートの甘納豆でも、一緒にいただきたいもの。そのときあなたはぜひ女装老人として、カツラかぶって、カラコンつけて、口紅つけてワンピースにハイヒールでいらしてください♡ あなたの言葉、そのきわめてキモい文末処理とともにある言葉を、ご老人のあなたから直接聞けるなんてなんて楽しいことでしょう! いかにもバーナム・ミュージアムな女装老人とぼくのふたりだけの食事会、楽しいだろうなぁ♡ どうか食事代金はぼくに払わせてください。


味蕾のマイノリティにも発言の自由を!

 

あなたのこの(けっして自覚されてはいない無意識的)主張を否定する人はきょうび誰もいないでしょう。それどころか、いわばあなたは食べログ界の The Great Showman であって、かの、いくらか(?)欺瞞的なアメリカ映画に相当するていどには賞讃を受ける希望もあるかもしれません。(あなたの小説2作目は、ぜひあなたの自伝小説『バーナム・サーカス芸人としてのわたし』を書いてください。ミュージカルになるような書き方で!)あなたのご活躍はすべての非典型的な味蕾を持つ人びとと、そしてとんちんかんな老人たちを励ますでしょう。パコ崎ミャ子さん&中の人の今後のさらなるご活躍を祈っています。Viva、ネカマ老人、そして愉快な老齢期に万歳!




すべての料理を醤油ビシャがけで喰う。
これがおれの流儀なんだよッ!
シのゴの抜かすんじゃねー、
おまえだって老人だろ!
アホ! ボケッ!
すかたん!



今回のエッセイの前編に当たるぼくの書いたエッセイはこちらです。


なお、老人の絵は漫☆画太郎先生の作品をお借りしました。

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