やめときゃいいのにパコ崎ミャ子さん、ボロボロの舌でフランス料理を食べに行くの巻。味蕾のマイノリティにも発言の自由を!
こんな女、いるわけがない。
いやぁ、インターネットは魔界ですね、老いも若きもカネ持ちも貧乏人も清廉潔白な人もいれば犯罪者も大ウソつきもいて、本籍も現住所も人種も職業もさまざま。もちろん無職もいれば生活保護の人も学生さんも、そりゃあもうありとあらゆるさまざまな人がいらっしゃる。なかにはギョッとする方もいらっしゃいますよ。ぼくにとってそれは、なんと言っても食べログの小人気レヴュアー、パコ崎ミャ子さんです。学歴は自称東大院卒、フランス文学専攻、食べログ活動十年目で現在の年齢は自称40歳、性別は自称女性、「現役パリッぱりっのプロの物書き」ということになってはいます。
しかし、すべての属性が怪しい。舌も異様に老けている。お書きになるレストラン・レヴューはいかにも躁病が疑われるミャ子さんのアドレナリンが異様に出まくりなのはいいとして、その内容はとんちんかんなものばかり。そもそもこの書き手にはたとえば料理を論評するにあたって、(醤油大好き以外に)確たる主体性が存在しない。調理‐料理の教養もまったくお持ちでない。次に、どう考えても「彼女」には「中の人」がおられるでしょう、そうとうなご老人とお見受けします。ゆうに七十歳は越えておられるでしょう。これはいったい何事でしょうか?
あなたのどこが東大院卒!?? ご冗談もほどほどに。
なにせ多様性の時代ですからね、パコ崎ミャ子さんみたいなけったいなお方がいらっしゃるのも楽しい。あなたが網傘かぶって法被姿に下駄履きで、「あ、東大、東大、立花隆も先輩よ、ルーリー三浦も先輩よ。あたしゃ院卒、フランス文学専攻よ。恩師は蓮實重彦大先生♡ おまけにあたしはもの書きよ、あ、ときどきモデルもしています。あらえっさっさーの、よいよいよい♡」と食べログの辻から辻を十年間にわたって踊り踊ってまわっておられる姿をお見かけするのも、田舎の温泉旅館で見る深夜のローカルCMみたいな趣きがある。しかし、とうていあなたが東京大学大学院人文社会系研究科ロマンス語圏言語文化フランス語フランス文学専攻とはおもえない。もしも「彼女」がスタンダールを、バルザックを、ゾラを、フローベールを、サルトルを、ロラン・バルトを、ミシェル・フーコーをお読みになっていてなお、あなたご自慢の媚び媚びの頭も尻尾もわからないポストモダンな文章しかお書きになれないなんてありえないこと。しかもあなたフランス料理のメニューさえお読みになれないでしょ。そもそもミャ子さん、あなたは論理的思考も抽象的思考もできない。中学国語の小論文さえも怪しい。学習全般にいささか障害がある。こんなプアな能力であってなおこなすことのできる「現役パリッぱりっのプロの物書き」の仕事とは、いったいどんな仕事なのでしょう? もしもあなたが無駄な見栄とハッタリを捨ててバカ・キャラを選んでいたならば、多くの読者に無条件で愛されていたでしょうに。
もちろんぼくは自由な言論活動を大切なものとして擁護賞揚しています。ハンドルネーム使用もいいでしょう。遺憾ながら学歴、性別、年齢の詐称もネットではめずらしくありません。また、あなたにはそういうことをせずにはけっして解消できない社会的鬱屈や抑圧もまたおありになるのでしょう。とはいえ、ですよ。ミャ子さん、レストランレヴューはレストランの評価と営業に関わっています。たとえ日の丸扇子を広げてひらひらさせて踊り踊った絶讃レヴューであろうとも、しかし、とんちんかんででたらめで無責任な内容であればレストランに損害を与えます。たとえあなたは一貫して無傷であろうとも、しかし、レストラン側はそうはゆきません。ミャ子さん、いいかげんに少しは良識というものをおもいだしてくださいな。
ぼくのミャ子さんへの主張は、〈これ以上料理を知ったかぶりででたらめに論じるのは辞めていただきたい。まず最初にご自分の味蕾が壊滅的なことになっている現実を認識してくださいな。〉、次に〈こんな40歳女、いるわけがない。おじいちゃん、ネカマをおやりになりたいならば、せめてもっとまじめに取り組みましょうね。〉三番目に〈前述のとおり自称東大院卒も無理ですよ。だって、あなたのお書きになる文章って、誰かがひとつかふたつ疑問を投げかければ、たちまちすべてが崩れてしまう。〉もしかして「東大病院精神神経科に引率された」の間違いですか? ミャ子さん、そろそろ無理な演技を続けるのもくたびれたでしょ、いいかげん白状しちゃったらどうですか、あなたご自慢の不気味な文末処理で告白しちゃいましょうよ、そしたら心もすっきり日本晴れですよ。
「すべて嘘でありんす~♡」ってね。
盗んだプロフィール画像で美女を演じる。ただし、「中の人」は老人。
パコ崎ミャ子さんのプロフィール写真は十年間にわたって韓国系モデルのヨンアさんのそれをテヘベロで無断借用しておられます。
そしてミャ子はグラビアアイドル~タレントのみゃこさんからお取りになったものかしらん。
あるいは、まさかとはおもいますが、パコ崎にはPaCO2(動脈血ガス分圧)が、ミャ子には脈動が潜んでいるかしらん???(寝たきり老人で肺機能が衰え酸素療法を受けている患者でもなければおよそおもいつかないハンドルネームですね。)
後註:ぼくがこのエッセイを発表してからは、たちまちヨンア画像が削除され、今度はそのへんの洋服販売サイトの無名モデルの顔写真を拾ってきて使っておられます。若い女だったら誰でもいいのでしょうね。
ハンドルネームのパコ崎ミャ子。パコ崎は、謎の擬態語パコパコに由来するのでしょうか? (いつぞやはご自身がハードなマゾヒストであることを公言しておられましたね。)
そんなパコ崎ミャ子さんにはお嬢さんがおひとり、来年小学生という設定です。パコ崎ミャ子さんはスポーツジムで二段回し蹴りの高さも出て、ベンチプレスも90キロに届く、ということになってはいます。(ジム通いの設定もまたヨンアがモデルかしらん?「中の人」の健康願望にぼくは胸が締めつけられます。もっとも、例によってこの話題にもディティールがありませんから、これもまた駄ボラでしょうが、しかし、もしもほんとうに寝た切り防止対策でおやりになっているならば、おやめになった方がいいですよ。なぜなら、老人の健康維持にそこまでの負荷は必用ありません。体を痛めて整形外科医のご厄介になるのが関の山です。)さて、そんなミャ子さんの好きな色は黒、醤油の色。愛車はマツダのスポーツカー、RX7 spirit R黒「醤油号」。(あ、この名前はぼくが勝手につけました。)
「現役パリッぱりっのプロの物書き」を自称なさる「彼女」のお書きになる文章がまたキモいキャピキャピ語尾を駆使してなお、きわめて老けてます。浅草の尾張屋で天丼を召しあがれば、「尾の張りを粋に浅草本多髷♡」 とかなんとかヘボ川柳詠んじゃって悦に入る。広尾の某店でポテトフライを頬張っては、「水清月宿&水清無魚~♡」とフライドポテトに不似合いきわまりない讃辞の言葉を囀る。いやぁ、すばらしい、40歳で老人会に参加できます。おじいちゃん、たとえどれだけあなたが『ラブライブ 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』を熱心にご覧になったところで(?)、ざんねんながら実年齢は隠せませんよ。
ミャ子さんご自慢の語尾がまたキモい。
「彼女」の文章はいつも躁っぽくはしゃいでいて。一人称はほぼ省略され、ときどき「私」が用いられ、たまに「オイラ」「アタイ」が使われます。句点さながらに♡マークが頻繁につけまくられる。文末処理は「ありんす♡」「ごじゃる」「ヤンす♡」「・・・ナリ」「ズら。」「・・・のダす♡」「だそうでしゅ。」「思っているでオじゃルまる♡」「マジな話でナンじゃラホイ?」・・・。
自称40歳パコ崎ミャ子さんの、舌がまた老けている。
いま40歳と言えば1984年あたりの生まれでしょ。カズレーザー、ナダル、橋本マナミ、栗山千秋、ベッキー、土屋アンナたちの学年ですよ。ひとつ上が宇多田ヒカル。ところがいかトー女史が幸福そうに召しあがる料理は以下のとおり。おそらく「彼女」のおいしさの基準になっているだろうとおもわれるのが麻布十番の定食屋ふじや食堂の、〆め鯖、ポテトサラダ、さんまの塩焼き、ぎんたら味噌焼き、イカの煮付け、カボチャ煮、キムチオムレツ、しめじアスパラ炒め。準じて「彼女」が惜しみない絶讃を捧げるのが びっくりドンキーのハンバーグ、たいめいけんの醤油ラーメン、なにを血迷われておられるかしらん、世にもゲスきわまりないゴーゴーカレ-が続く。他にはスキヤキ、トンカツ、エビフライ。鮨屋に趣味などあるはずもなく、ただトロを喰いまくり鮟肝をはさみ鰹のタタキをつまむだけ。あるいは海老マヨ軍艦だのツナサラダ軍艦だのマグロユッケ軍艦だの怪しげな鮨に満面の笑みを浮かべ、エビ汁を2杯がぶ飲みして店を去る。たまにまともな鮨屋に入ってあれこれつまんでみたところで結局レヴューの〆は「この店のガリは世界で一番おいしい」。焼肉屋に入ればタン塩のどか喰い。(いいえ、実際にはカルビもハラミも召しあがるとはいえ。)その他、「彼女」が愛してやまないのがウナギ、ごはんにシシャモ、セブンイレブンのおでん、チャーハン、ラーメン、五目タンメン、餃子、春巻、小海老のチリソースケチャップ味炒めが続く。イタリアレストランのピアット・スズキに入っても「彼女」が絶讃するのはペペロンチーノ(スパゲッティのニンニク風味オリーヴオイル仕上げ)である。なるほど、それもおもしろい逆張り趣向だとはおもうものの、しかし、読者は「彼女」の非標準的な貧しい味覚に由来するのではないかと疑うばかり。だって、あなたの味蕾、ボロボロじゃないですか! いやぁ、これでグルメを自称されても、ねぇ。しかもミャ子さんがお好きなのは総入歯で食べやすい料理ばかり。もしやすべての義歯にイチョウマークがほどこしてあるかしらん? 芸が細かいですね~。
パコ崎ミャ子さんは、醤油味にしかほぼ反応できない。
パコ崎ミャ子さんはなんといっても醤油味が大好き、醤油、醤油、醤油がなくては日も夜も明けない。準じて脂肪のまったり感、そして油脂の舌触り、これが彼女をよろこばせる味覚の基本です。他にはウースターソース味、砂糖~味醂の甘み、ケチャップ~チリソース味、しいて言えば鮨屋でガリを絶讃してらっしゃいますから、酸味にもいちおう反応できるのでしょう。ざっとこれが「彼女」をよろこばせる味覚のすべてです。
「彼女」はインド料理の感受性もなければ、四川料理にも興味なし。ヴェトナム料理に無関心、タイ料理を素通りし、近年華やかな韓国料理に目を向けることもない。夏になったら沖縄料理を食べたくなるなんてことも一切なし。しかも「彼女」がプリンとモンブランと(カルメ焼になぞらえて召しあがる!)マカロンと、そしてガトー・ショコラこそお楽しみになるとは言え、しかしそれ以外のガーリーなスウィーツにまったく無関心なこともまた不思議です。すなわち、ナタデココ、ティラミス、ベルギー・ワッフル、生キャラメル、タピオカ、パンケーキ、フラペチーノ、パンナコッタ、エッグタルト、アサイーボウルに「彼女」は洟もひっかけない。「彼女」は多感な時期にいったいなにを召しあがっていたでしょう?
また、食べログレヴュアーを十年も続けていれば、社交のあるレヴュアー主催の食事会に誘われることも一度や二度ではないでしょう。ところが「彼女」は他のレヴュアーと食事をした気配も一切ありません。もしや「彼女」には姿を見せられない理由があるかしらん???
しかも、「彼女」のレヴューには店の外装、内装、料理、料理人、給仕の写真が一切ない。もちろんそんなものはなくたってかまわないとはいえ、しかし「彼女」の場合、ほんとうに実食しておられるのかどうか、疑わしいときがままある。
パコ崎ミャ子さんの履歴に吹き荒れる駄ボラの嵐!
その上「彼女」の履歴は東大院卒ではまだ足りないとばかりにつねに小解体され、建て増し増設が繰り返されています。たとえば、「彼女」の過去のレヴューでは「彼女」のフランス滞在は短期留学と観光で1年間になっているのだけれど、しかし、いつのまにか3年に延びています。(なお、たとえ「彼女」のフランス滞在が1年であったとしても、しかしその真実性をぼくは疑う。理由は後述します。)また、かつて「彼女」はフランス文学ご専攻だったはずが、しかし、味噌で学位をとったとか言いはじめもすれば、はたまたベルギーで研修医を2年やったなどという怪しげな履歴が追加されています。なるほど、フランス文学を研究するかたわら、味噌で学位をとるなんて洒落てはいます。また、ハンドルネームに「動脈血ガス分圧」と「脈動」が潜んでいる可能性をもってすれば、「彼女」が「医学をちょっとかじっ」ていても不思議はないかもしれないし、かつまたじっさい東大医学部は交換留学が可能ではあるとはいえ。しかし、まさかフランス文学科の院生がベルギーで医学を「ちょっとかじ」れるものかしらん? しかも、「彼女」のパリでのおもいではバゲットがおいしかった話しかなく、ベルギー2年滞在はフライドポテトが懐かしいという話題だけ。(なるほどたしかにベルギー人のフライドポテトへの熱愛と執着は考察に値するとはいえ。)さらには「彼女」はサザビーでアートオークションの仕事をやっていた時期もあるとさえ言いだす始末。「彼女」は「インドに30回ほど行った(デリーを拠点におもに北部インドを)」と豪語するけれど、しかし不思議なことに「彼女」にインド料理の感受性はまったくない。それどころか「彼女」が絶讃するのは呆れたことにGOGOカレーなのだ。品位を欠いたボロいトンカツにあろうことか醤油ととんかつソースで個性をつけた油脂過多のカレーをかけたあの気色の悪いあれが「彼女」の味覚をおおよろこびさせる味なのだ。いやはや、おそらくインド訪問30回もまた「彼女」お得意の駄ボラでしょう。駄ボラを吹かしたいならば、せめて『地球の歩き方』でも読んで、ディティールを書きましょうね。自称もの書きでしょ? これでは「彼女」のすべての履歴が怪しまれるのも致し方ありません。
娘を持つおかあさんとか言っちゃって。
また、「彼女」は娘を持つおかあさんという設定です。もしもほんとうにそうならば、育児の苦労話は山ほどあるでしょう。なにせちょっと目を離せば死んでしまいかねない存在の面倒を24時間、数年間にわたってみ続けるわけですからね。また家族がいればいくらなんでも少しくらいは調理をするでしょうに、しかし「彼女」のレヴューにはそういう話題はまったくない。そもそも米の炊き方に趣味もなければ、味噌汁のおいしさでさえもはじめて外食で知るような人。ソーメンを湯がいたことがあるかどうかさえ怪しい。「彼女」に冷奴の好みの食べ方を訊ねることさえ恐ろしい。だからといって冷凍食品だのインスタント食品の記述もさほど多くはない。ついでに言えば「彼女」にはスキンケア、メイク、ファッションの話題も一切ありません。いかトー女史(いかさま東大院卒女史)がいかに存在の疑わしい「味覚の豪傑さん」であり「食べログ界のどてらい女 problematic queen」であるか、おわかりいただけることでしょう。
マカロンをカルメ焼きになぞらえて喰う40女!??
また、あなたの舌がまたとうてい健康な40歳女性のものとはおもえない。だって、マカロン召しあがってカルメ焼きをおもいだすんでしょ。カルメ焼きってあーた、敗戦後神社の沿道でテキ屋が売ってた駄菓子でしょ、「中の人」たるおじいさんにとっては「マカロン知ってるおれ、かっこいい♡」というおよろこびの発露なのでしょうが、しかし、いまどきマカロン喰ってカルメ焼きを懐かしむ四十歳女性なんていませんよ。なにからなにまですべてがいんちきくさい。
今回いかトー女史(いかさま東大院卒女史)はまず最初に「フランスで、ホテル暮らしを3年近くしか、したことない私」とさりげなく自慢をキラキラ~ン☆とひけらかしつつ、それを担保に白銀高輪の住宅地にあるフランス料理レストラン、コートドールのレヴューを書いた。恐ろしい予感がぞわぞわ競りあがってくるのは、ぼくだけでしょうか?
パコ崎ミャ子に褒め殺され、惨殺死体と化す白銀高輪コートドール。
さて、いよいよここからが本題です。コートドールと言えば斉須政雄シェフ(b.1950-)率いる保守王道のシンプリーフレンチの定番名店。高齢者に人気があります。34席客単価ランチ1万円~ディナー4万円前後。90年代半ばで時代が止まっているような料理だけれど、そこには堂々たる自信が感じられもして、好きな人には堪えられないでしょう。ア・ラ・カルトで注文すると値つけがやや高いのだけれど、しかし、そのかわりスタッフを大事にする人情経営を感じもする。内装もまた当たり障りのない上品さで、商談、接待、お見合い、家族の記念日、はたまたデートまでなんにでも使えます。着てゆく服も天皇皇后両陛下がお召しになるようなファッションや、ポール・スチュアートやラルフ・ローレンならば上出来で、上手に着こなせばユニクロであろうが無印良品であろうがしまむらであろうが困ることはなにもありません。逆に言えば、それこそヨンアに似合うレストランとは言い難いし、もっと言えばもしもバレンシアガやコム・デ・ギャルソンなど着てゆけば、かなり居心地の悪いことになるでしょう。
なお、いかトー女史がフランス料理を召しあがるのは比較的にめずらしいこと。ほんとに大丈夫ですか? いったいどんな展開になるかしらん? たいへんサスペンスフルです。
「彼女」がコートドールで召し上がった料理は以下のとおり。料理選びはお店のスタッフにおまかせしたそうな。
赤ピーマンのムース
Mousse au poivre rouge
帆立とアナゴのテリーヌ
Terrine de Saint-Jacques et d'anguille de mer
梅干しと青紫蘇のスープ
Soupe de Umeboshi et de perilla de Nankin
スジアラのブレゼ
Brezet de bar
オマール海老のポワレ
Poiret de homard
シストロン産仔羊のロースト
Agneau rôti de Cistron
牛テールの煮込み赤ワインソース
Queue de bœuf braisée avec sauce au vin rouge
金時豆とイチジクのコンポート
Compote de haricots rouges et de figues
やけに皿数が多いものの、とっても素敵で贅沢なコース構成ですね。いかにもコートドールらしい定番メニューでありながら、日本人にも馴染んだ食材を注意深く選びながらそれでいてさまざまな食材の料理を織り込んで、食べ手の味覚をさまざまに鳴らしてくれるchic でgorgeousなフルコースです。料理名の書き方に無駄な気取りがないこともいい感じ。もっとも、4万円越えのコースに牛テールの煮込みをはさむのはちょっとどうかしらん、またデザートにもうちょっと芸が欲しいな、というような疑問はややあるけれど、ま、そんなことはささやかなこと。なお、ぼく自身はフランス料理に期待する世界がやや違うゆえ必ずしもコートドール絶讃派でこそないけれど、しかし、それであってなお料理が立派なものであることは疑いありません。
さて、いかトー女史はコートドールを日本唯一の最高のフレンチレストランであると熱唱します。ただし、熱唱のまえにまずイントロがあって。「彼女」は言う、フランスと日本は水が違うでしょ、フランスは硬水、日本は軟水。それからまた同じ食材でも性質が異なっているでしょ。したがって、日本でフランス料理を提供するならば、工夫が必要である。ここまでがイントロで、さて、ここからがいよいよです。
(気の毒にも)梅干と青紫蘇のスープにしか反応できないパコ崎ミャ子さん。
「彼女」は「梅干と青紫蘇のスープ」を大絶讃します。”「天啓」が降りて来た時に生まれる「非の打ち所の無い作品」””「酸味と塩味」の幅の広い中を心地よく泳ぐゆらぎの様な「甘さ」””その「甘さ」の手には、隠すように「水の様に透明で微かな 苦味」が握られている♡””(註:この料理のいったいどこに苦味が潜んでいるでしょう??? 推定される理由は数々あれど、あるいは中の人が入歯をしてらっしゃるからかしらん。とかく入歯の人は味覚異常になりがちですからね。いいえ、「彼女」の料理評に戻りましょう。)素材の持つ「日本独自」の清らかで透明で水の潤いの中に潜む「苦味」の重ね方が、その芯に置かれていると感じている♡””「日本的な素材」を「フランス料理」に生かし、どこから見ても「フランス料理」にしか見えない作品を作り出す”・・・。”そして「彼女」は言い放つのだ、”「コート ドール」様は日本における「フランス料理」を知る上での終点でもあり始まりでもある、他の日本のフレンチレストランは亜流であり、ものまねである。”(なお、彼女がコートとドールの間にわざわざ空白を入れるのは、その店名がブルゴーニュのCôte-d'Or 地方に由来するという豆知識披露なのでしょう。そんなことくらいフランス料理好きならば誰でも知っていることですが。いいえ、本題に戻りましょう。)
すごいですね~、ヤバいっしょ。まるで文学新人賞を狙って苦節半世紀のご老人がLSDキメて書いてらっしゃるような破れかぶれの文学性。しかも、なんという大胆かつ挑発的なお言葉でしょう。日本全国数多のフレンチレストランに喧嘩を売っているようなもの。そもそも「彼女」は料理を平明に記述する方法を身につけておられません。あなた、フランス料理の系譜と広がりをご存じですか? なにひとつご存じないでしょ。にもかかわらずの、このずうずうしさ、謙虚さのかけらもありません。これが天下のいかさまトー大院卒、おでこにイチョウマーク描いたパコ崎ミャ子の糞度胸。誰も呼んでもいないのに、あなた(いかさまトー大院卒女史)は白衣に緋袴姿で現れ、サル同然に無知蒙昧なわれわれ民草どものために、白い御幣を振りまわし、フランス料理についてとんちんかんきわまりない神託を告げはじめます。「彼女」の神託とともにたちまちカビ臭い死語の嵐が吹きすさび、そこから立ち現れる比喩がまた化け物じみていて、われわれ民草を恐怖させます。
いったい「梅干と青紫蘇のスープ」って、どんな料理なんでしょう? まずね、この冷製スープはアヴォカドグリーンの仕上がりなんですよ。推定するにアヴォカドとトマトを切ってミキサーにかけて、皿に盛って、仕上げに青紫蘇と梅干をスライスしたものを飾った、スムージーではないかしら。おそらく水は一滴も使っていないでしょう。(水を使う理由が見つかりませんから。)めちゃめちゃたんじゅんな料理でしょ。ただし、なるほど、酸味の重層的なかけあわせが効果的で「森のバター」アヴォカド由来のこってりした脂肪分がまったりあいまって、ひんやり冷えたこのスープは食欲に火をつけて、さわやかにおいしいことでしょう。なるほどね、「彼女」はこの料理がおいしく、そしてうれしかったのでしょ? だったらたんじゅんにそう書けばいいのに。
なるほど「彼女」が指摘するとおりフランスと日本では水も違えば野菜の質も異なる。調理にあたってなんらかの戦略が必要でもある。たしかにそこまでは正しい。もっとも軟水の日本の水道水とて海塩を使えばミネラルは補えるし、そもそも水を使う料理って、(そりゃあたしかにじゃがいもやニンジンを茹でたり、春になればよろこんじゃってアスパラガスを縦長専用鍋で茹でたりはするにせよ、しかし料理としては)コンソメ、そして魚のアラの水煮ダシで魚介を煮る各種ア・ラ・ナージュ、はたまたポトフとブイヤベースの他にはほとんどありません。他方、日本の野菜は総じて甘いし、(トマトに顕著なように)加熱すればたちまち崩れてしまう。では、この環境でどう調理するか? 日本のフレンチ料理人だったら誰だって考えることですよ。
しかし、ここでお待ちかね、「彼女」お得意の論理の棒高跳びが披露されます。鳥だ。飛行機だ。いいえ、いかさまトー大院卒女史なんです。いったいどういう理由で和食材を使ったフランス料理のみが日本のフレンチのあるべき姿という主張が導き出されるかしらん? Pourquoi tu dis ça?
まず最初に、その論理が意味不明である。日本では水も野菜もフランスのものとは違う。なるほど、そこまでは正しい。ではそれを前提に、なぜ正しい日本のフランス料理は和食材を使うべきだ、というとんちんかんな主張になるかしらん? この論理を汎用すれば、日本人は宗教もメンタリティもフランス人のそれとは違う。したがって(!)日本人は日本人のフランス語を創造すべきだ、とでもおっしゃりたいかしらん? たまにこういうおかしなことを言う人もいますけれど、しかし誰も相手にしませんよ。
次に、そもそもアヴォカドやトマトは和食材でしょうか? もしも「彼女」の主張に従うならば、日本においてビーフストロガノフの理想形は吉野家の牛丼なの? 北イタリアおよび南仏のコートレットの正しい受容形態は、蕎麦屋のカツ丼なの? もっとも厳密に言えば、けっして牛丼とカツ丼は「どこから見てもフランス料理にしか見えない作品」とは言い難いとはいえ、しかし「彼女」のおっしゃているこはわけがわからないよ。
また、(どこの国にもあたりまえに言えることながら)、フランスのフランス料理レストランとてすばらしくおいしい料理をふるまう店もあると同時に、他方、けっこうな値段を取りながらもしかし、雑な調理のろくでもない料理を出す店だってたくさんあるでしょ?「彼女」だってご存じでしょ? フランスの食材をフランスの水を使って調理したところで、冴えない料理はいっぱいある。つまり、「彼女」の論理はぼろぼろです。しかし、「彼女」は自信まんまんファミマの肉まんで言い放つ、「今見えているコトが全てではない。その中身、本質を感じ取る♡ そんな、自分の感覚を確信にかえるために訪れていル~♡」さぁ、「彼女」ご自慢の論理の棒高跳び、いったいどんな結果をもたらすかしらん?
和フレンチという小ジャンル。
なお、誤解のないように言い添えておきましょう。和フレンチってここ20年間ですでに定着した小ジャンルです。和フレンチの定義は人それぞれに違うでしょう。唯一絶対の正しい和フレンチなんてものはありえない。ただし、このジャン
ルにはひとつの知的で感覚的な問いかけがあって。フランス料理ってなんだろう? 和食ってどういうものだろう? その問いかけを楽しみながら、料理人も客もひとりひとりそれぞれに答えを出して遊ぶ。
余談ながらぼくは2011年麻布十番に開店した、un 十(あんじゅう)という和フレンチレストランのもともとのアイディアを出したもの。たまたまぼくはオウナーの友達だったから、和フレンチやってみれば、って提案して採用されたまでのこと。ざんねんながらun 十はとっくに閉店してしまったけれど。いまでも関係者からたまにあの店の話題は出る。ちょっと早すぎたね、もしもいまだったらうまくいったかも。ビルの4階で40席家賃80万円、広告費も使えなかったしね、などと慰められる。もっとも、ぼくはただアイディアを出しただけ、レストランは実際にスタッフを集めて作ってみないことには結果はわからないもの。いまだってうまくゆくかどうかはあらかじめわかることではありません。
和フレンチ、いいじゃないですか。野心的な料理人ならば挑戦したくなるでしょう。
ひとむかしまえのフランス人ならば、「Non.Non.Non.フランス料理をタタミゼ(=畳化=日本化)しないでください。S'il vous plait.」とかなんとか胸の前で手を左右にひらひらさせて上から目線で囀ったことでしょう。でも、いまやそんなことを言うフランス人はいません。それどころかLe Japon exotiqueとか言っちゃって褒めてくれるかもしれません。
しかし、コートドールはけっして和フレンチ推しのレストランではありません。この一品はコースにちょっとした驚きを添え、その後の流れに期待させるための小品という位置づけです。「彼女」のレヴューは、あどけなくいたいけな読者のコートドール理解をミスリードしてしまうでしょう。
次に、いかさまトー大院卒女史の当該レヴューはその後何度も改稿され、当初のオリジナリティの賞揚一本路線ではなく、いまではどちらかと言えばコートドールの料理のシンプルさに賞讃が捧げられています。「シンプルだからコソ、味のアクセントを「どの味」に置くか、「フランス料理」の「基本中の基本」を「コート ドール」様の数々のお料理は教えてくれている♡」と褒める。この一節には一見もっともらしいことが書いてあるかのように読み流してしまいそうだけれど、しかし果たしてフランス料理の基本中の基本は味のアクセントをどこに置くか、なのだろうか? それは具体的にはたとえば前述のスープであれば、アヴォカドとトマトの比率のことかしらん? それとも梅干と青紫蘇を添えることかしらん? まったく意味がわらないよ。いかトー女史は料理の基本について、ご自分の食の経験にもとづいてご自分の頭と手でお考えになったことが一度でもあるかしらん? ここでもまた、ただ言葉だけが上滑りしています。
パコ崎ミャ子さんは、フランス料理についてなんにもわかっておられない。
なお、いかトー女史(いかさま東大院卒女史)にはまったくご存じないことがあって、それは1990年代前半コートドールの料理がなぜシンプリーフレンチと呼ばれるようになったのか、その時代的文脈です。実は、これ、京橋のシェ・イノや有楽町のアピシウスの料理のリッチな重厚さと対照的な意味で「コートドールの料理はシンプルだ」と称されたのでした。(あなただってアピシウスでブイヤベースを召しあがったことがおありでしょ。わざわざアピシウスへ出かけていってこともあろうに魚介の寄せ鍋を注文する、そんなあなたの茶人心をぼくは尊重しますけれど。)モダンクラシックなフランス料理 と シンプリー・フレンチ、両者の違いは肉骨の水煮ダシの取り方と、それをベースにしたソースの仕上げ方にあります。なお、90年代においてコートドールの軽さは、けっしてコートドールのみならずフランス料理全体が軽くなってゆく時代を象徴していたものでした。
さらに正確に言えば、あの時代に東京でフレンチを食べていた人ならば、むしろ松濤のエヴリーヌで雇われシェフだった時代、若かった頃のフィリップ・バットン・シェフこそがフランス料理が軽くなってゆく時代を颯爽と表象していたものでした。もっとも、あの時代を体験していない人にとっては、バットン・シェフ讃美などまったく信じがたい、笑止の沙汰であることでしょうが。
いずれにせよ、もう遠い遠いむかしばなし。(一部例外店を除き)いまのフレンチ・レストランのほとんどはシンプリア・フレンチなんですよ。デュカスだって、ミニクだって、食べ心地が軽いでしょ。その上、いまやフォン・ド・ヴォー(仔牛の水煮ダシ)さえとらない店も増えています。かつてフォン・ド・ヴォーはソースの土台として、なくてはならない〈おいしさの精霊〉だったというのに。つまり自称40歳の いかトー女史が持ち出してくるこの話題は30年まえの古雑誌じみていて、ぼくを含めフランス料理好きはただ苦笑し肩をすくめるばかりです。
フランス・レストラン料理にはモードがある。はじまりは1973年のヌーヴェルキュイジーヌ、それは料理人たちが起こした革命だった。料理人たちは宣言した、おれたちは職人じゃない、表現者なんだ。このときからフランス・レストラン料理は、さまざまな料理人による多彩な表現の切磋琢磨がはじまった。流行の変化も著しい。すなわちレストラン・フレンチって、パリコレみたいなものなんですよ。もちろん料理人はどんな料理をふるまおうが自由ですが、料理のモードはどんどん変化し続けています。つまり依拠している考え方が、あなたの大好きなしんぱち食堂や麻布十番ふじや食堂とは違うんですよ。どうぞ、「今見えているコトが全てではない。その中身、本質を感じ取」ってくださいな。いいえ、そんなにリキむこともなくて。本質なんてものはプラトンにおまかせして、むしろまずは料理の形式を読んでくださいな。形式ならば理性を持つ者ならば誰だって考察できるでしょ。なお、フランス料理の形式については後述します。
しかも、驚くべきことに いかトー女史は、コースにおいて「梅干と青紫蘇のスープ」以外の他の料理を一切ガン無視。ポーションが不明ゆえどこからがメインなのかわからないもののスジアラ(変な顔をした赤く大きな魚。海の魚でおいしい。)のブレゼはどんな仕上がりだったかしらん。また、もしもフランス料理を愛する人ならばこのコースについてもっとも語るべきはオマールのポワレと仔羊のローストでしょ。Poiret de Homard(オマールのポワレ)においては、その稠密なオフホワイトの肉質がどれだけ優美に焼きあげられていたか。 le rôti d'agneau(仔羊のロースト)においては、調理にあたってオーヴンの包みこむ加熱の活用。具体的にはきっかけの高温加熱、ベンチタイムを挟んで、そして仕上げの低温加熱、この絶妙な時間配分によって、どれだけしどけなくローストされていたか。そしてソースはいかに華やかにおいしさを方向づけていたか? この2皿がこのコースの見どころであり楽しみどころ、つまりクライマックスです。ところが、いかトー女史はなーーーーーんにも教えてくれません。Pourquoi ignorerait-elle ces deux plats ?(なぜ、彼女はこの二皿をガン無視するでしょう? )Vous, lecteur, savez-vous pourquoi ?(読者のあなたはその理由をおわかりになりますか?)あるいは、それらの料理がオリジナリティを欠いているからでしょうか? それとも「彼女」のこのレヴューには暗にコートドールへのなんらかの皮肉が潜んでいるのでしょうか?
いいえ、たぶんそうではありません。もしもこれらの料理を褒めてしまえば、前述の「彼女」の讃辞、”「日本的な素材」を「フランス料理」に活かし、どこから見ても「フランス料理」にしか見えない作品を作り出す”、この讃辞のロジックが盛大に崩壊してしまうからでしょう。どうですか、「彼女」のこの態度? 失礼な女でしょ。Oh non ! Regardez cette stupid femme,
Madame Ikatoh!
もっとも、まるで出自の怪しい宗教家のように(?)あらゆる飲食店を肯定し絶讃してまわる、そんな いかトー女史が、これほどまで大胆に失礼な女であるともおもえない。だとすると、もしかしたらオマールのポワレや仔牛のローストに、そしてそれらの料理のおいしさを方向づけているソースに、快感を感じる味覚の文化的コードが「彼女」の舌にはそなわっていないのかもしれません。まさか、そんな!?? しかし、あきらかにその可能性はあって。「彼女」は過去に、デュカスのベージュ東京のレヴューを書いておられます。ちょっと読んでみましょう。
パコ崎ミャ子さん、ベージュ東京で精神崩壊!??
どうです、「彼女」のこの渾身のレヴュー? 「彼女」はたいへん饒舌に自慢がましい話題をえんえん書き綴るものの、しかし、けっきょく料理についての記述は、魚のグリルに鎌倉野菜が添えてありましたというだけ。どんな魚なのかについての紹介もなければ、ソースの解説もなし。また、「彼女」は鎌倉野菜を連呼するものの、しかしどんな野菜が選ばれ、組み合わせられ、どんな調理がなされ、どんな味だったのかについての記述もなし。コース全体の紹介もなし。なんて異様なレストラン・レヴューでしょう! もはや心理学の対象ではないかしら。「彼女」の饒舌の裏にはなにか隠したいことがあるかしらん?
いずれにせよ、「彼女」は目の前のフランス料理に脇の冷や汗をかき、うろたえ、あわてふためく。いったいどうして「彼女」はフランス料理にパニックになる? ぼくは驚く、フランス料理ってそんなにも難解ですか??? ただ無心に目の前の料理を味わえば、おいしいでしょうに??? ところが、いかトー女史のように(五感を使うことができず)神羅万象を言葉でしか理解できないchatGPT人間が、しかし、あろうことかフランス料理には言葉を失ってしまう。「言葉、言葉、言葉! わたしの精霊、言葉はどこへ消えた!」
推察してみましょう。「彼女」はきわめて個性的な味蕾をお持ちであるのみならず、料理の形式を読むことができません。文章が言葉と文法で書かれているのに対して、フランス料理は食材/調理法/ソースの形式で「書かれて」います。したがって、フランス料理好きの食べ手は目の前のその料理の構造を舌で読みながら、食事を愉しむ。ところが醤油味覚圏に生きる「彼女」にとってはまったくそれどころではなくて、わけのわからない「言葉」の数々がばらばらに皿の上に盛られ、ソースなる意味不明な液体で飾られ、次から次へと繰り出される。「彼女」にとってはまるでラテン語。わからない。まったくわからない。わかりませんねんまんねんじゅうまんねんッ!!! 彼女は叫ぶ、この世でもっとも暗いのは、フランス料理の暗がりだッ!!!
パコ崎ミャ子さん、魚のグリルに感涙!(アホなのか?)
おそらく「彼女」が涙涙で嚥下なさった前菜、魚、肉、デザートのコースのなかで「彼女」がかろうじて関心を持てた要素が、わずかに〈魚がグリルしてあるという情報〉と〈野菜が鎌倉野菜であるという説明〉だけしかなかったのでしょう、かわいそうに。そこで「彼女」は調理法グリル(grille=フランス語読みすればグリエ)について、〈薪や炭の炎に、直に魚をかざす=直火で焼く〉というふうに安手の辞書的に解釈し、この調理法は日本以外では実は「地中海周辺」にしかない、という説を述べておられます。Pourquoi tu dis ça? いかトー女史は賞讃しておられれるわけですよ、きっとデュカスはんは日本のどこかの炉端焼き屋でアジやイワシの串刺し直火焼きを召し上がって、感心なさって、さっそくそれをご自分のフランス料理に取り入れはったんでんなぁ、さっすが世界のデュカスはんや、偉いもんでんなぁ、というふうに。そりゃまぁたしかに炉端焼きの魚のあの焼き方もグリルではありますけどね。しかし、欧米近代におけるグリルって、むしろ肉や魚にあえてちょっとだけ焦げ目をつけて焼くことですよ。ほら、仔羊の背肉の脂をやや落としながら対角線の焦げ目のアクセントをつけて焼き上げるでしょ。ラムチョップのあの焼き方。あれが欧米料理におけるグリルです。日本でも、魚を焼き網を使って、いくらか脂を落とし、焦げ目をつけて焼くでしょ。同じことです。ついでに言えば、多くのガスレンジには引き出しがついてるでしょ、あれはグリルを基本にしながらロースト効果も加味した加熱をおこなうためのものです。(ちょっとだけ焦げ目をつけて焼き上げると、ごくわずかな苦味のアクセントによって、肉や魚がいっそうおいしく感じられます。なお、こういうことこそが料理の基本なんですよ。)あの筋目をつけて焼き上げるために専用の、凹凸の筋目ストライプをつけた鉄製の専用グリルパン(=フライパンの親戚)が日本を含め西側諸国ではどこでも売っています。したがって、恐縮ですが、魚のグリルに”日本的な「筋の良さ」をたがうことなく猛烈に感じまくる~♡”必要など一切ありません。FYI。
いかさまトー大院卒女史のミャ子さんはフランス料理を食べ慣れていないにもほどがあります。あまりにも経験値が足りない。フランス料理のどこをどう味わったらいいのかまったくご存じない。どこの国の料理にも型があって、文法に相当するものがあるのだけれど、もちろんそれさえご存じない。そのうえいかトー女史はフランス滞在3年を自称しながら、不思議なことに魚のグリルがフランスでもあたりまえな調理法であることさえもご存じない。にもかかわらず、例のコートドールの大絶讃ですよ。すごいでしょ、いかトー女史ってなんてタリラッタ~でどんげらぴょ~な人でしょう。こんな人、ちょっといません。しかもその「彼女」は(いけしゃあしゃあと)東京大学大学院人文社会系研究科ロマンス語圏言語文化フランス語フランス文学専攻を自称しておられるというのに。
パコ崎ミャ子さんに知性派キャラは無理、バカキャラの方が得ですよ。
知ったかぶりもほどほどにしてくださいな。ご自分がよくご存じのことをお書きになってくださいな、ミャ子さん。たとえば、こんなふうにーー。
「西欧料理ってのはね、皿の上に乗っている焼いてある大きめで厚みのある肉を左手に銛持って肉を突き刺して、右手の包丁で肉切って、食べるわけ。肉には一応ソースがかかってんだけど、でもね、気の毒にも欧州にはとんかつソースもおたふくソースも売ってないもんだから、かれらはぶさいくに手作りしてんの。気の毒でしょ。それからね、スプーンもいちおうあるんだけど、でもね、ヨーロッパのスプーンは先が割れてないの。だからスプーンでスパゲッティ喰いにくいわけ。ダサいでしょ、ヨーロッパって。」
あなたの読者はコメント欄で質問してくれますよ、「とんかつソースもおたふくソースもない国なんて信じられねーだよ。みじめだがや。しかも、先割れスプーンもなくて、銛と包丁で食事するなんて、お皿が割れたり、口を怪我しやしないかい?」
ミャ子さんは答えます、「ま、わたしはトー大仏文科の院卒でフランス滞在経験3年ですからお皿を割ることもありませんし、口を怪我することもありませんけど、でも、みなさんの場合はお気をつけあそばせ♡ オホホホホ。」
サイコーでしょ? パコ崎ミャ子さん人気も爆上がりですよ。
パコ崎ミャ子さんの知性はすでに死んでいます。
また、「彼女」は自分が対象についてなにひとつ知らないことをおもしろがりわくわくするセンスもない。わ、自分はこれについてなんにも知らない。いったいこれはどういうふうに成り立っているのだろう? 知りたい。もっと体験を重ねたい。そういう気持ちが立ち上がって良い。しかし、「彼女」にはまったくそんなことは起こらない。「彼女」の知性はすでに死んでいます。
パコ崎ミャ子さん、魯山人の猿真似で見栄張って、墓穴を掘る。
また、「彼女」の味覚の謎。その答えは「彼女」の言葉のなかにあります。「日本で有名とされるお店で”フランス料理”を食べると、”こげな綺麗なソースや複雑怪奇な装いの味わいで彩るよりも、バター醤油もしくは、わさび醤油のビシャがけで食った方が素材の良さが直に伝わり、満足感がMaxになるジャね・・・? とか・・・思ってしまうんだなぁ・・・」
わちゃーーー! まず最初に、そもそもあなたのその、「ステーキにワザビ醤油ビシャがけで食べるとサイコー♡」発言って、かの北大路魯山人の逸話の猿まねでしょ。なるほど、魯山人はパリのトゥールダルジャンで鴨料理をミディアムレアで注文し、届いた鴨に「あらかじめポケットにしのばせておいた(兵庫県)播州滝野の薄口醤油と、粉わさびをコップの水で溶いて、卓上の酢で練っ」て食べた。なるほど、魯山人には魯山人の味覚哲学があって(伝説を作りたいがためのハッタリ・パフォーマンスが過剰だとはいえ、しかし)魯山人が言いたいことはよくわかる。いかにも和食舌の主張であり、魯山人が関西の味つけを愛したところもまた興味深く、なるほど薄口醤油はお吸い物からだし巻卵まで活躍します。もっとも、いくら魯山人とてフランス料理に和食の味覚を要求するのは筋違いではある。あまり褒められたエピソードではない。ましてやパコ崎ミャ子さんのような世にも稀なる異端的で、ダシの味もわからないプアな味覚を持つ人が魯山人のまねして同じせりふを囀ったところで、読者の爆笑を誘うだけですよ。
次に、もしもあなたが肉そのものの素材の良さを味わいたいならば、まずはユッケや牛肉の刺身を召しあがってくださいな。次に、ミディアムレアの焼き加減のおいしさを舌で覚えてくださいな。魯山人のハッタリ・パフォーマンスのポイントはわさび醤油のみならず、鴨をミディアムレアの焼き加減で注文したところもまた重要なんですよ。上等の鴨を加熱すると肉から脂が染み出すでしょ。あの脂がまたなんともおいしい。ただしもしもウェルダンにしてしまえば、肉はパサパサになる。だからこそのミディアム・レアなんですよ。けっして魯山人はステーキにわさび醤油さえかけりゃうまくなるなんてあどけないことを言っているわけではありません。
なお、魯山人の鴨についての意見は和食になじんだ者にとってはもっともなものながら、しかしだからと言って素材の良さを味わうことこそが最高だ、とその主張をフランス料理全般に押しつけるのは乱暴であって。なぜなら、素材の良さを味わうことを至上とするのはあくまでも鮨美学であって。フランス内陸の都(日本で言えば京都さながらの)パリで栄えたフランス料理に鮨美学を押しつけることは自分勝手というものです。京都の鮨だってもともとは鯖鮨、箱鮨、鱧鮨、どれも一仕事ほどこしてあるでしょ。もちろんそれは京都が内陸の都だからです。しかも、パコ崎ミャ子さんは握り鮨を召しあがったところで、あなたが感受できるのは魚の食感と煮切り醤油に潜む味醂の甘味、米イカにまぶされた味噌の甘み、あとはせいぜい〆たアジの酸味だけでしょ。なんなんですか、けっきょくあなたはそれぞれの魚そのものの味にはまったく反応できていません! しかもあなたの某店での鮨讃美最後のアリアはその店のガリのすばらしさ! いやはや。
なるほど、さまざまな魚のそれぞれ異なった味を言葉で表現し分けることは至難の業、ほとんど不可能に近い。言葉の限界がここにあります。しかし、それでもグルメならば過去に同じネタを食べた経験を参照して比較するなり、それぞれの握りにほどこされたネタと「仕事」の関係(目的)に着目するなりして、(いわば補助線を引くことによって)そのときその場のその魚の味を浮かびあがらせるものなんですよ。いいえ、ぼくはけっして味覚の言語化を問題にしているわけではなくて、むしろいかさまトー大院卒女史が魚そのもの味に反応できていないことにぼくはただただ驚く。
ただひたすら醤油味のみを愛する女(?)パコ崎ミャ子。
ぼくはあなたの舌をよーーーく了解できました。なるほど、あなたにとってもっとも重要な味の決め手は醤油なんですね! より正確に言えば、あなたの味蕾をよろこばせる味は醤油、ウースターソース、ケチャップ、味醂~砂糖、脂肪のまったり感、そして油脂の舌触りだけなのだ。これで食べログレヴュアーですから、とんでもないこと。いやはや、とうてい現在40歳健康な日本人の言い草とはおもえません。「彼女」にとってはまずは醤油で、醤油を前提に肉やマグロやウナギ、バターの活躍がある。これが「彼女」の舌をよろこばせる快楽のツボなのだ。「彼女」にとってはせっかくの肉も醤油がなければ意味がない。だからこそ、「彼女」は言う、「豚の角煮に醤油をかける、それがわたしの流儀」。また「彼女」はBISTRO SUZUKI のステーキについてその醤油使いを絶讃する、「ステーキは(・・・)バターで焼いてしまうと油ぽくなり、最後の一口に到達する前に、肉にまとわりついたしつこさに飽きてしまう。でも、今口の中にあるステーキは違う。柔らかい肉質に、醤油風味のソースが最高。鼻を通る香りが漏れるのも勿体無い。フランス料理のソースもいいけど、日本人なら醤油なんだな。」
すごいですね~、ついさっきまでまるでフランス料理第一人者を自称するかのようなハッタリをかましていた「彼女」が、しかし、あっというまにフランス料理から撤退。いまや「彼女」はフランス料理を全否定しておられます。いいえ、それとも「彼女」はニッポンのフランス料理に和風化改革を要求しておられるのでしょうか? 仮にそうだとして「彼女」は和食がコンブ、カツオブシ、イリコ、干シイタケ、アサリ、シジミ、干貝柱、そのほか多彩なダシを活かしてさまざまなうまみを作り出すことをもまったく感受できないゆえ、もっぱら醤油愛のみをひたすら歌いあげておられるのでしょう。おそらく「彼女」の和食の基準がしんぱち食堂と麻布十番ふじや食堂だからでしょう。
なるほど和食は醤油を澄まし汁、煮物、お浸しそのほかに多彩に活用します。ただし、澄まし汁はカツオやコンブのダシがあってこそ。煮物は干しシイタケ、酒、味醂があってこそ。お浸しはカツオダシがあってこそ。つまり醤油はいわば名バイプレイヤーに過ぎません。とうぜん食べ手はダシの味を愉しむ。「日本人なら醤油なんだな」!?? いやはや、なんて貧しい和食愛でしょう。失礼ですけど、そんな貧しい和食愛、要りませんよ。迷惑千番。被害が日本料理店にまで及ぶだけです。失礼ながらあなたの味覚はパレスチナのガザ地区さながらではないかしら? もはやとうてい健康な40歳女性の味覚とはおもえません。
いずれにせよ、気の毒にも「彼女」は大枚払って食事をしているにもかかわらず、しかし、料理はちっともおいしくない。醤油味覚圏を離れた「彼女」にとっては、すべての料理がなにがなんだかまったくわからない。さぞや不愉快きわまりない経験だったことでしょう。かわいそうに。
対照的に、格安料理の味は濃く、原価計算によって食塩使用率も高いゆえ、塩度も強く尖っています。また、「彼女」が大絶讃するびっくりドンキーのハンバーグソースは醤油と味醂の風味。「彼女」が最上級の愛をもって讃美するゴーゴーカレーはあろうことかカレーに醤油とトンカツソースで(得体のしれない)個性をつけている。「彼女」が大好きなラーメンはたいめいけんの醤油ラーメンである。(たしかにあれはおいしいですね。ただし、たいめいけんのラーメンスープは、チキンとポークのガラをベースに鰹と昆布、野菜で旨みを出し、挽いた胡椒でパンチを効かせています。醤油はあくまでもおいしさを方向づけているに過ぎません。)
ただひたすら気の毒な白銀高輪コートドール。
いずれにせよ、醤油味にしか反応できない「彼女」の、満面の笑みが目に浮かびます。だったらそういう店に行きさえすれば、たとえあなたの嗅覚・味覚が多少(?)衰えているにせよ、あなたはかんたんに幸福になれるでしょうに! つまり、あなたはコートドールだのデュカスのベージュ東京なんて行かなきゃいいし、また見栄張って無理くり絶讃レヴューを書くこともないでしょうに。
もっとも、コートドールの料理とて、たとえば「帆立とアナゴのテリーヌ」には魚介好きの日本人への配慮があって日本人が食べるフルコースのスタートとしてしたしみやすい。他の料理もフランス料理としてはわかりやすい料理ではあって。デザートの「金時豆とイチジクのコンポート」もまたいかトー女史のような保守的な味覚の日本人をよろこばせたいがための一品でしょう。しかし、「梅干と青紫蘇のスープ」以外はけっして「彼女」の味覚をよろこばせはしなかった。いかトー女史の怒りの叫びが聞こえてきます、味がしねーんだよッ、ボケッ!
そんなこんなで、時を駆ける自称東大院卒元少女を偽装する「彼女」にとって、フランス料理はひじょうにむかつく。他の人が笑顔で楽しみ、しあわせを味わっているなか、しかし自分だけが理由もなく(?)疎外され、それが腹立たしい。しかも、この怒りを誰にぶつけることもできない。しかし、「彼女」は自分がフランス料理を味わうことができず、憤慨さえしていることだけは誰にも気づかれたくない。むしろ、自分がフランス料理を存分に味わい、料理の仕上がりの優劣を評価できる人間であると読者におもわせたい。そこで「彼女」はわたしにはフランス暮らし3年間の経験がある、わたしはフランス料理通なのだ。にもかかわらず、そんなわたしが日本のフランス料理に感動できないのは、日本のフランス料理が亜流でありものまねだからだ、という主張を「彼女」はぶちあげる。かわいいでしょ、いかさまトー大院卒女史って♡
「彼女」の味覚はまことにもって大正・昭和のFemme japonaise (日本女)。家庭の食卓に必ず醤油の小瓶、ウースターソースの小瓶、そして味の素のミニチュア瓶が置かれていた昭和をぼくはおもいだす。なんとなれば、「彼女」はコートドールへも携帯醤油持参で訪問して、オマールのポワレも仔羊のローストも「醤油ビシャがけで」召しあがれば、さらにいっそう「彼女」のコートドール評価は高まるでしょう。メイプルシロップもかければさらにいっそうあなた好みの味になるかもしれません。それはそれでひとつの個人主義のあり方ではあるでしょう。いいじゃないですか、やっちゃいましょうよ、ねぇ。あなたの人生の主役はあなたなのですから。
パコ崎ミャ子さん、醤油右翼として熱弁する。
しかし、ここで不滅のいかさまトー大院卒女史は攻めに転じる。いかトー女史は醤油愛こそが正しい日本人の味覚の在り方であるとして、他方、現代の日本人の、なんでもかんでもよろこびいさんで喰いまくる、そんな堕落した精神を軽蔑し、そのいやしい根性を叩き直すべく啓蒙を試みる。「彼女」は憂国の士として、自衛隊市ヶ谷駐屯地のバルコニーで演説する三島由紀夫さながら、梅干フレンチ最高論を演説するのだ。ぼくの心の耳にはいかトー女史の悲壮にして激烈きわまりない演説が聞こえてきます。「いまの日本の食のなんたるていたらくであることか。諸君は日本人の誇りを失ったのか。われわれにとって最高の料理は和食なんだ。われわれがフランス料理を見栄張って喰ったところで、ほんとうはおいしくもなんともない。もう一度言おう、われわれにとって、フランス料理はまずい! いいかげんに見栄を張るのはやめようじゃないか。正直になろうじゃないか。いま、われわれが讃えるべきは梅干フレンチである。あるいは、いまわれわれが起こすべきは洋食ルネサンスなのだ。バター醤油がいかにおいしいかを忘れちゃいけない。わさび醤油もな。醤油だよ、醤油! 諸君らだって日本人だろ? だったら醤油を忘れんな! 静かにしろ。話を聞け。女一匹、命を賭けて諸君に訴えているんだぞ。立ち上がれ、諸君。日本人の味覚を守ろうじゃないか。それこそが、天皇を中心とする、歴史と文化の伝統を守ることなのだ。」
果たしてこれはぼくの幻聴でしょうか? いいえ、けっしてそんなことはないでしょう。いやぁ、すごいことになってきましたね。いかトー女史は味覚障害バイアスをものともせず、むしろ世間の味覚に異議を申し立てる。醤油味とウースターソース味とケチャップ味、味醂~砂糖の味、脂肪のまったり感、そして油の舌触りににしか反応できないわたしの舌こそが日本人として正しく、わたしの舌をよろこばせないすべての料理はまちがっている。「わたしをうろたえさせるフランス料理は間違っている。猛省をうながしたい。わずかに、わたしの味覚と接点がある梅干フレンチこそが、ニッポンのフランス料理のあらまほしき姿であり唯一の希望なのだ!」「彼女」のこの叫びの激烈なこと。すなわち、「彼女」は醤油の味に日本の食の普遍を見出し、「わたし」は日本の食においてけっして醤油味覚圏からの逸脱を許さない、というファッショ的主張をぶちあげておられます。
なんでこんなことになっちゃったかしらん。「彼女」の味覚、その審美趣味への理解が深まれば深まるほどぼくは、「彼女」のフランス暮らしが不憫でなりません。いまよりもずっと若かった頃のことでしょうし、おそらく例によって駄ボラしょうが、いずれにせよ、「フランスで、ホテル暮らしを3年近くしか、したことない」「彼女」はその頃であってなおフランス料理を存分に楽しめた形跡はどこにもありません。さぞや外食が淋しく気が重くなったことでしょう。
パコ崎ミャ子さんの、みじめなみじめなパリ暮らし。
「彼女」が秋の夕暮れ、コートの襟を立て、一区のKIOKOでBonjour.とか囀って、醤油、味噌、納豆、果てはハウス食品のまことに怪しげな「特選生わさび」チューブなど買い込んで、Merci.とかau revoir.とか小声でつぶやいている淋し気な表情が目に浮かびます。そんな日の「彼女」の目にはリュクセンブール公園に敷き詰められた美しい黄金色の落葉も自分の若さが失われてゆく哀しみの象徴のように映ります。機嫌のいいときならば聴こえてくるはずのフランシス・レイのメロディもきょうは聴こえてきません。そのうえ「彼女」は気の毒にも犬のうんこを踏みつけてしまう。C'est donc Paris. ただ味噌と醤油と素性の知れない練りわさびだけが「彼女」に東京のビルの谷間、港区ながらかつては下町だったふるさとで懐かしい人たちとともに幸福に暮らしていた日々をおもいださせてくれます。さぞや淋しかったことでしょう。
「彼女」は「フランスで、ホテル暮らしを3年近くしか、したことない」とおっしゃる。しかしほんとうは(ひいきめに言ってせいぜい)十日ていどだったのではないかしらん。なぜって、もしも「彼女」の滞在が3年間ならば、「彼女」のフランス滞在の話題がパリ12区のMaison Doucetで召しあがったバゲットがおいしかった話しかないのも不思議だし、またフランスでも魚のグリルがありふれた調理法であることをご存じないことも不可解です。しかも、ふつうはフランスに3年も暮らしていたら、モロッコ人経営の食堂でクスクスやタジンを好きになったり、ヴェトナム料理に誘惑されたりするものですよ。もちろんマルセイユまでブイヤベースを食べに行ったり、ブルターニュの寒空の下、牡蠣のおいしさに感動したりもするでしょう。もちろん「彼女」の場合、パリの日本食レストランへ行かずに済むわけがない。しかし、「彼女」にそういう話題は一切なし。また、もしも「彼女」がほんとうにフランスに3年間滞在してなおここまで頑固に味覚が変化しなかったならば立派な適応障害ですよ。そもそも「彼女」の書く文章には、たとえばフランスに3年間近く暮らしたということひとつとってもその文章に真実相当性がありません。フランスでできたお友達の話などまったくありませんし。
もっとも、きわめて非標準的な味蕾を持つ、時を駆ける自称東大院卒元少女(?)たる「彼女」のフランス暮らし3年が嘘だったとしても、かわいい嘘ではあって。もしも小学2年生の女の子がそんな嘘をつくならばまわりの大人たちは微笑むでしょう。
そもそもフランス暮らしが十日だろうが3年だろうがどうだっていいことではあって。なぜって、フランス料理はいわば料理の英語ですから、フランスに滞在しようがしまいが、どこへ暮らしていようとその人がいったんフランス料理を好きになったならば食事を重ねることによって、フランス料理好きはいくらでも育つもの。(イギリスで生活しようがしまいが英語はいくらでも学べるでしょ。)と同時に、フランスに暮らせば暮らしたで文化的背景がわかりますから得るものもまた多いでしょう。
いずれにせよ、頭で食べるのではなく、自分の舌で食べる。楽しみながら食べる。料理のなり立ちを考える。ときには自分で調理する。これがいちばん大事なこと。逆に言えば、食事が合わない土地からは早く立ち去ることがしあわせというもの。またどこで暮らそうがフランス料理に向かない人もいるもの。
次に、「彼女」がフランス料理に向いてないからといって、べつにどうってこともありません。なるほど、昭和の御代にあっては日本のインテリはこぞってフランス文化の輝きにあこがれ魅了されたものですが、しかしいまやそれもむかしの話。魔法が解けたいまとなっては、フランス料理も中華料理もインド料理も日本料理もその他どんな料理ジャンルとて自分にとっておいしいものはおいしいしピンとこないものからはさっさと立ち去る。ただそれだけのこと。
平成以降、和食はなんでもありになった。
また、近年の日本では堂々たるフランス料理をふるまっていながらあえて鉄板焼きの看板を掲げる店もあれば、高額和食店のなかにはひそかにフランス料理の技法を密輸している店もけっこう多く、たとえばフォグラの茶碗蒸し仕立て(FLAN DE FOIE GRAS)をメニューに組み込む店などざらにあります。はたまた居酒屋メニューにさえも、トリッパ(ハチノスのトマト煮込み)、カスレ(ソーセージと白いんげん豆の煮込み)、チリコンカン(豆のトマト煮込み、赤唐辛子風味)が堂々と存在することさえ多い。これが現代日本です。
おじいちゃん、グルメを気取るのはあなたには無理。お好きなものをお好きなように召しあがりましょ。
また、べつにフランス料理に反応できなくたって、他においしい料理ジャンルは山ほどあって、困ることはなにもありません。じっさい「彼女」はいたって正直にご自分の実感を語っておられます、「日本で有名とされるお店で”フランス料理”を食べると、”こげな綺麗なソースや複雑怪奇な装いの味わいで彩るよりも、バター醤油もしくは、わさび醤油のビシャがけで食った方が素材の良さが直に伝わり、満足感がMaxになるんジャね・・・? とか・・・思ってしまうんだなぁ・・・」Pas de problème. それでいいんですよ。
これが老人の味覚の世界だ。
ここまで深刻な事態を知り及んでしまった今、「彼女」には「中の人」がいて、その「中の人」はご老人であるとおもわざるを得ません。すでに「中の人」が入歯である可能性に触れましたが、それ以外にもさまざまな可能性があります。そもそも70歳以上にもなれば味蕾の数が乳幼児に比べて3割から5割も減少します。さらには唾液の分泌量が減ることもあって。特に塩味の感受性が衰え、なんと成人の12分の1まで減弱する人もいると言われています。12分の1! これはもうえらいことですよ。そりゃあなんでもかんでも醤油ビシャがけで召しあがりたくもなるでしょう。なるほど、日本人は老人になると日本蕎麦や鮨への愛着が増し、梅干、塩昆布、漬物がいっそう好きになる傾向がありますね。しかも多くの場合、塩度の感受性が衰えると同時に、甘味の感受性もまた鈍くなる。だからこそ、老人は甘みの強い料理におおよろこびすることになる。
もっとも、味覚障害へ至る道は(老化以外にも)至るところにあって。たとえば「中の人」が糖尿病にかかっておられて、さらには糖尿病性腎症にまで至っているのかもしれません。糖尿病性腎症にかかってしまうと亜鉛が吸収されず排出されることによって味覚障害が起こります。また糖尿病薬剤によっても、降圧剤によっても味覚障害は起こります。ましてや腎臓疾患にでも至ったならば大変なこと。(万が一にも、すでにあなた‐中の人‐が透析患者にでもなっておられないことを、ぼくは切にお祈りします。)さらにはもしもあなたがなにかの癌にかかっておられるならば、抗癌剤によっても味覚障害が起こります。なお、味覚障害と嗅覚障害はセットで起こることが多い。はたまた嗅覚・味覚障害が大脳の機能障害の可能性もまたあって、そうなると事情はさらにいっそう深刻です。とっくに老眼なっておられることでしょう。やがて追い打ちをかけるように難聴がはじまる。その後は白内障、緑内障がはじまり、癌になったり、歩けなくなったり、そんな不穏な未来が控えています。誰にとっても、老化とは壮絶な冒険です。
ヒトが外界をセンサーするのが5感で、そこから入って来た情報を脳が処理して、ヒトは現実を認識する。そんな大切な5感が劣化する。とうぜんその人の現実認識はある種の疎隔(外界とのへだたり)をともなうようになるでしょう。
もっとも、「中の人」が嗅覚・味覚障害であるにせよ、しかし、だからといって恥じることもなく、また差別される所以もありません。生きていれば誰だって歳をとるのですから。むしろ、いかトー女史に扮する「中の人」は堂々と毅然とふるまい、肩の力を抜いて、誰の目も気にすることなく、ありのままの自分で、自分の好きなものを好きなように召し上がればいいじゃないですか。びっくりドンキーのハンバーグ。スキヤキ。アメリカンドッグ。チーズバーガー。タン塩。トロ。鮟肝。ウナギの蒲焼。天丼。醤油ラーメン。お好み焼き。タコ焼き。ソースやきそば。スパゲッティナポリタン。GOGOカレー。氷イチゴ。大福。ぜんざい。ポテトッチップスにコカコーラ・・・。あなたをおおよろこびさせるものはたくさんあります。逆に言えば、高級日本料理はもちろんのこと、トロと鮟肝以外の鮨もあなたをよろこばせない。また、たとえ中華料理の油脂がどんなにあなたをよろこばせようとも、しかし、チキンスープの味の良し悪しさえもわららないあなたが中華料理に感受できるよろこびはきわめて限定的でしょう。ましてやインド料理やフレンチにいたっては、あなたの味覚圏からは大きく逸脱しています。もちろんそんなものをあなたが相手にする必要はありません。それでももしもどうしてもあなたがご自分の味覚圏の外にある料理をも召しあがりたいならば、どうぞ、あなたのハンドバッグにあなた最愛の調味料群を忍ばせて、ウキウキ気分で飲食店へお出かけください。一度限りの人生、あなたはあなたであることをおもいっきり楽しめばいいじゃないですか。他の誰かになろうとおもったところで、けっしてなれるものではありません。え、あなたが東大院卒の、40歳女性ですって!?? ご冗談もほどほどになさってくださいな。
余談ながら、フランス料理のレストランは通例テーブルに各種調味料を置きません。これは高齢者に優しくないこと、と言えないこともありませんね。(もっとも、魯山人によればトゥール・ダルジャンの卓上には酢が置いてあったそうですが、たいへんめずらしいこと。)いずれにせよ、「彼女」にはヴィタミンB12と亜鉛をサプリで補うことをお勧めします。
パコ崎ミャ子さんの「中の人」は童貞老人か!??
視点を変えるならば、「中の人」たるあなたは多くの読者の先輩。高齢者界のインフルエンサーになりえる資質を持っておられます。なぜって、あなたは文章上で40歳女性を演じるという奇抜な方法で、ほとんど躁病的にご自分の老齢期をはしゃいで楽しんでおられます。こんな愉快な老人、誰も見たことありません。なんてきてれつなエイジフリー感覚でしょう!
ネカマスキルをもっと磨きましょうね。
それはそうと、いったいなぜこのご老人が、盗んだプロフィール画像で若い女を偽装し、苦心惨憺の文末処理でキャピキャピ若作りしているにもかかわらず、しかし無惨にも「中の人」が筋金入りのネカマ老人であることがバレてしまうでしょう? その理由はけっして味覚の老化だけではないでしょう。まず最初に「中の人」によるパコ崎ミャ子さんの人物造形があまりにも雑でしかも〈男の妄想〉丸出しだからですよ。おじいさんの癖していまだに若い女にはちきれそうな妄想持っちゃって、どんだけモテない人生を生きてこられたかしらん。ぼくはあなたが童貞老人である可能性さえ考えてしまいます。
次に、それでもおじいさんのあなたがご自分よりも二世代下の女性になりすましたいならば、まず最初に「彼女」が生れた家の経済環境、家族構成、そして文化史と彼女の年齢を照らし合わせてパコ崎ミャ子キャラクター設定ノートを作りましょうね。1984年生まれの女性ですから十代がルーズソックス大流行。1995年が11歳、神戸淡路大震災とオウム事件の年。『新世紀エヴァンゲリオン』が流行った頃です、1997年が13歳、中学3年生の男の子による神戸連続児童殺傷事件の年です。17歳が2001年、911の年ですよ、『ONE PIECE』が人気になりはじめた時期ですね。ガングロ少女が渋谷を徘徊し、浜崎あゆみが少女たちの神だった時代です。24歳が2007年、麒麟の田村裕さんの『ホームレス中学生』がベストセラーになった年です。28歳が2011年、311東日本大震災の年です。
また、「彼女」は、ゆとり教育を受けた世代であり、また「彼女」の中学生時代にインターネットが普及し、人が情報社会とダイレクトに繋がりはじめます。新自由主義が台頭し、非正規雇用が増えてゆき、格差が拡大していった時代でもある。たとえ「彼女」がどんなに裕福な家庭に育とうとも、社会には貧困が蔓延していることに気づかないわけがない。この時代に育った「彼女」はそれぞれに何歳でおのおのの出来事をどう感じたのか、それは貧富の度合い、生活環境、性別、個性によって感じ方は違うもの。人は誰も時代のなかで生きていて、大流行や大きな出来事は人の感受性に働きかけ、人の世界観を揺さぶり、ともすれば美意識や感受性を変化させるものなんですよ。けっして記号操作で処理できることではありません。しかも、高度成長期に育った「中の人」といま40歳では、世界観がまったく違うんですよ。
「彼女」の東大院卒設定にしても同様で、あなたは「蓮實重彦大先生」から飲み会の席で怒鳴られたなどという興味深いエピソードをうっかり書きつけておられます。なるほど、蓮實先生の教育的キレ芸は有名ですものね。しかし、先生は1997年4月から4年間東大総長を務めておられます。「彼女」が東大に入学したときは、すでに東大を去っておられます。あ、野暮な指摘をしちゃってごめんなさい、こういう「小さい間違いにこそ人間味を感じ、その味わいを喜び楽しんだりす」べきなんですね、あなたの審美眼においては。
とはいえ、もしも「東大院卒、現在40歳女性」の設定でゆくのであれば、「彼女」の学部、在学時のカリキュラム、担当教官、ひいては東大生の生活全般を取材しましょうね。しかも40歳設定の「彼女」はちょうど国立大学がみなし法人になった激動の時代を通過しておられます。興味深いトピックは山ほどあるでしょうに。つまり「パコ崎ミャ子」さんのリアリティのなさは、中の人たるあなたの取材への怠惰に由来します。ましてや、いまのように「彼女」に幼稚で拙劣な、田舎の中学生じみた哲学議論をさせているようでは、「彼女」が駒場の2年間を終了できたことさえも疑われてしまいます。あなたがフィクションをお書きになりたいならば、もっとまじめに取材をして、隙のないキャラクター造形に取り組んでくださいな。あなたは自称「現役パリッぱりっのプロの物書き」なんでしょ? もっとも、もはやネカマは人間がおこなう趣味ではありませんけどね。なぜって、ChatGPT-4o(オムニ)に負けるにきまっていますから。
パコ崎ミャ子さんは老いを主題にしたポストモダン長篇小説をお書きになればいいのに。
もしもぼくがあなたの担当編集者だったならば、あなたにアドヴァイスするでしょう。あなたがお書になるべきものは、老いを主題にした、ポストモダン長篇小説ですよ。第一章はあなたがネット上で書いてらっしゃるとおり、40歳女性になりすまして彼女の日常を描く。つまり、いかにもあなたがエリートであることをひけらかすような仕事の会議がどうこうとか、カラコンがなんたらとか、スポーツジムでなんちゃらかんちゃらとか、大好きな福島のお嬢さんとの交流がたのしかったとかなんとか。それでいて「彼女」は麻布十番ふじや食堂で老人くさい料理を醤油ビシャがけでたらふく召しあがる。続く第2章はオフラインにける老人の生活を描く。もの忘れがひどい。毎日飲むたくさんのクスリをきょうはもう飲んだのかまだ飲んでいないのかわからない。頭がボーッとする。神経痛に悩まされる。『誰でもできるひざ根治法』のページを祈るようにめくる。一人称は「小生」をお勧めします。しかし第3章はまたイケイケ40歳女性が愛車のマツダなんちゃら「醤油号」を運転して夜の街をドライヴしたり、エステに通ったり、そしてふとした出会いに浮気願望をかきたてられて道ならぬ恋に落ちる。西新宿のホテルの高層階の一室、ガラス窓の向こうに綺麗な夜景の見える。有線放送からちいさな音でバッハのピアノ曲が流れるなかで、不敵な微笑みを浮かべた男に裸のあなたはローションを塗りたくられ、SMプレイに歓喜の声をあげる。しかし続く第4章ではあなたが憂い顔で背中を丸め「長寿ホルモン」について検索する。あなたが麻布商店街を歩けば頻尿に悩まされ、おまけにあなたは、散歩中のマダムが連れ歩くビーグル犬に吠えられる。このように章ごとに別人の別世界を描きながら、物語は進行してゆく。しかし最後の章でいよいよ、ご自分が作り出した妄想の40歳女性と、ご老人のあなたが幻想的な出会いを果たす。愛にあふれた会話が恩寵のように交わされる。ご老人のあなたは告白する、「わたしは文章上であなたを演じているときだけ、生きているよろこびを感じられた。ただし、ひとつだけ謝りたいことがある。あなたを東大院卒として造形することはわたしには無理だった。あなたの最終学歴は、赤羽商業高校を簿記ができずに中退にすべきだった。」これに対して、「彼女」は慈愛に満ちた感謝の言葉を述べる、「わたしはあなたによって生を得た人間です。わたしは東大院卒を上手に演じることこそできなかったけれど、しかし、わたしはあなたにただ感謝の言葉しかありません。」どうです? 感動的なエピローグでしょ。21世紀サイコーの老人オナニー文学であり、ポストモダン化された谷崎~江戸川乱歩の誕生です! 話題になるのはまちがいなし。つまり、文学新人賞苦節半世紀の(?)あなたにいま眩しいばかりに希望の光が見えてきたんですよ。もちろんメディアも一斉に取り上げてくれます。文学界のスター誕生です。人生最後の時期に、日本中で話題になるなんて素敵でしょ。きっとそれはあなたを喜悦満面にして、それはあなたの長生きにもつながるでしょう。
いまやぼくは「中の人」たるあなた(おじいさん)に友情を感じずにはいられません。一緒に養命酒でも日本酒でも酌み交わし、醤油ビシャがけで食べる刺身でも、サバの味噌煮でも、イワシの生姜煮でも、ホタルイカと菜の花の酢味噌和えでも、デザートの甘納豆でも、一緒にいただきたいもの。そのときあなたはぜひ女装老人として、カツラかぶって、カラコンつけて、口紅つけてワンピースにハイヒールでいらしてください♡ 「ありんす♡」「ごじゃる」「ヤンす♡」「・・・ナリ」「ズら。」「・・・のダす♡」「だそうでしゅ。」「思っているでオじゃルまる♡」「マジな話でナンじゃラホイ?」・・・。 あなたの言葉、そのきわめてキモい文末処理とともにある言葉を、ご老人のあなたから直接聞けるなんてなんて楽しいことでしょう! いかにもバーナム・ミュージアムな女装老人とぼくのふたりだけの食事会、楽しいだろうなぁ♡ どうか食事代金はぼくに払わせてください。
味蕾のマイノリティにも発言の自由を!
あなたのこの(けっして自覚されてはいない無意識的)主張を否定する人はきょうび誰もいないでしょう。それどころか、いわばあなたは食べログ界の The Great Showman であって、かの、いくらか(?)欺瞞的なアメリカ映画に相当するていどには賞讃を受ける希望もあるかもしれません。(あなたの小説2作目は、ぜひあなたの自伝小説『バーナム・サーカス芸人としてのわたし』を書いてください。ミュージカルになるような書き方で!)あなたのご活躍はすべての非典型的な味蕾を持つ人びとと、そしてとんちんかんな老人たちを励ますでしょう。パコ崎ミャ子さん&中の人の今後のさらなるご活躍を祈っています。Viva、ネカマ老人、そして愉快な老齢期に万歳!
追記:やめときゃいいのにパコ崎ミャ子さん、イノヴェーティヴ・インド料理を食べに行くの巻。
その後パコ崎ミャ子さんはにわかインド料理通になりすまし、銀座のイノヴェーティヴ・インド料理レストラン SPICE LAB TOKYOに絶讃レヴューを捧げておられます。しかもフランス料理に無知蒙昧なミャ子さんが召し上がったこともなければ、召しあがったところでなんの反応もできないだろうところの、nomaだの、Geraniumだの、El Bulliだのを知ったかぶりで引き合いに出して、SPICE LAB TOKYOをその系譜に位置づけ、踊り踊って絶讃しておられます。しかもレヴューの後半は、鬼気迫る必死もんぎゃあな書きっぷりで、ぼくとしてもこれを黙殺するのもあまりにもミャ子さんに気の毒で、感想を書くことにいたします。
仮にSPICE LAB TOKYOが佳店であるとしても、しかしいったいどこにそんな大騒ぎするべき要素があるかしらん。インドはもちろん近年は欧米のどこの都市にでもあるスノッブなインドレストランの「イノヴェーティヴな」スタイルを採用したごくありふれたお店ではないですか。なぜか東京にだけはこの手のレストランはいくらか少ないだけのこと。なお、ぼく自身はこういう高級インドレストランが東京にできることをひかえめに歓迎しますけれど。もちろんぼくはSPICE LAB TOKYOにとやかくはなにもないし、もしも食事をすればぼくもまた讃辞を捧げる可能性もある。
むしろ興味深いのはミャ子さんですよ。だって、つい先日までミャ子さんは、「デリーを中心にインドは十回ほど訪ねたことがある」と豪語しつつ、GOGOカレーの、哀しくなるほどボロく粗末なトンカツに醤油味で個性をつけた油脂過多の品のないカツカレーを大絶賛してたでしょ。なんでまたSPICE LAB TOKYOなんですか? なるほど、けっしてかの店の入口に「GOGOカレー大好きの方、入店お断り」の張り紙など貼っていないにしても。
そもそもなんでまたあんな気色の悪いもんをミャ子さんは大絶讃するの? その理由は、ミャ子さんが、(甘味と並んで)油脂のまったり感と醤油味にしか反応できないからでしょ。したがってミャ子さんはフランス料理にも、インド料理にもまったくご縁がないし、召しあがってもとんちんかんなことしか言えない。なんでまたそんなミャ子さんがある日突然SPICE LAB TOKYOに大感動できますか??? もしもそんなまさかまさかのおよそありえないはずの奇跡のような恩寵に恵まれたならば、その奇跡をこそ書くべきでしょう。自称もの書きなんでしょ。もしかして、ミャ子さんは携帯醤油をご持参になって、すべての料理におかけになって召しあがられたかしらん? それならばわかりますけどね。GOGOカレーでいいじゃないですか。だって、それがミャ子さんの空前絶後な舌であり、ミャ子さんのキャラなのですから。ご自分のキャラを大事にしましょうね。
次に、老婆心ながら申し上げますと、インド料理屋ってべつに価格帯が高ければ高いだけおいしいわけでもないんですよ。定食屋まがいの格安店であろうとも、しかしすばらしくおいしい料理をふるまう店もある。食材はしょせんニンニク、生姜、イモとナス、マメ、米と小麦粉、そして各種スパイスで成立するのがインド料理です、冷凍骨つきマトン片でもくわわれば言うことなし。むしろシェフの調理力が高く、かれはスパイスに見識を持ち、フレッシュで上等の各種スパイスを仕入れ、いかに華やかにスパイスを使いこなせるか。もちろん立派なエビもキャビアもフォアグラもヒカヒレも熊の掌も用いずに、しかしそれであってなお、王様であろうが政府要人であろうが微笑ませ満足させることさえもできる。これがインド料理の華であり妙味なんですよ。価格帯の高い店へ行って、嘘でもうれしがって、おおよろこびしたテイで珍奇なトー大踊りをどたどた踊ってみせて、「違いのわかるあたし♡」みたいなハッタリをかましたところで、しかし、そんなのけっしてインド料理では通用しないんですよ。
そもそもね、ミャ子さんがいくら他人になりたかろうと、しかし、そんなこと無理なんですよ。じっさい中学国語の小論文さえもろくにお書きになれないミャ子さんが、「あ、東大、東大、立花隆は先輩よ、ルーリー三浦も先輩よ、あたしゃ院卒、フランス文学専攻よ、恩師は蓮實重彦大先生♪ やっとこせ~のよいよいよい♡」と踊り踊って日夜吹聴しまくったところで、しかし読者にはすぐにバレたでしょ。「嘘つけ、ボケ! おまえの最終学歴は、赤羽商業高校を簿記ができずに中退が関の山だろ」って。仕方ないことなんですよ、だって院卒には院卒らしいものの考え方もあれば、院卒らしい教養と知の方法もまたあるものなんですよ。chatGPTとウィキペディアの猿知恵で東大院卒を偽装するなんて、しょせん無理。ミャ子さんに中の人がいて、その人がおじいさんであることもいまやバレバレでしょ。味覚もまた同じことなんですよ。GOGOカレー大好きなあなたにとって、ほんとはインド料理なんて要らないでしょ。ある日世界からすべてのインド料理が消えたところで、ミャ子さんはなんにも困らないでしょ。にもかかわらず今回ミャ子さんはにわかインド料理通を偽装しちゃって、ご自身においしさの実感のないことがバレないように細心の注意を払って絶讃レヴューを書いておられます。なお、空疎な絶讃だけではこころもとないのか、レヴューの中盤に綿花の蘊蓄など添えておられます。なるほど、ミャ子さんは中学国語はまるでだめでも、しかし、中1の地理で教わった〈世界の農業〉の内容はちゃんと覚えておられるんですね。インドと言えば綿花、さすがデリーを中心にインドに十回だか訪ねられただけのことはありますね。いやはや。
ミャ子さんそして中の人のおじいさん、いいかげんあさはかな見栄を捨て、むなしく無駄な努力もやめて、あなたが心底愛する、そして総入れ歯のご老人にも優しい、そんなあなたのためのGOGOカレーをこそ讃美し続けてくださいな。だって、あんな気色の悪いもんに惜しみなく大絶讃を捧げるのは世界広しと言えどもパコ崎ミャ子さんただひとり♡ オンリー・ワンですよ。この鉱脈を忘れちゃいけません。そしてこれこそが”This Is Me”の教えというものですよ。ボロボロの味蕾をお持ちでつねに躁状態のネカマじじい、そんな不気味きわまりない「パコ崎ミャ子」さんをぼくは大好き、遠方よりミャ子さんのさらなるご活躍を期待しています!
今回のエッセイの前編に当たるぼくの書いたエッセイはこちらです。
なお、老人の絵は漫☆画太郎先生の作品をお借りしました。
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