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ミーガンはグルメになれるか?(ぼくとパコ崎ミャ子さんとの中華料理 激烈大論争。)

言葉よりも五感でしょ。頭よりも体でしょ。いいえ、頭と体は切り離せない。世界は広くゆたかなもの。しかし俗流AI人間~言葉人間は言葉の世界に閉じ込められて五感のよろこびを失ってしまう。これね、とんでもない精神の危機ですよ。もしもあなたが言葉の牢獄に閉じ込められているならば、すみやかに脱獄しましょう。幸福になるために。



「彼女」のハンドルネームはパコ崎ミャ子さん、人気の食べログレヴュアーのおひとりですが、しかしここではいかにも東大院卒40歳女史、略して「いかトー女史」とお呼びしましょう。「彼女」は言葉、言葉、言葉、言葉、ただひらすら言葉の人、死んだ五感をそのままに、地下アイドルふうの媚び媚び語尾を使ったレヴューをお書きになって、食べログで大活躍。「彼女」はどんなな手を使ってでも五感主義者ジュリアス・スージーをボコボコにしようと奮闘しておられます。助演男優として東大院卒アホアホチャーハンマンも登場、切なく純粋なチャーハン愛をイキってドヤって歌い上げます。ミーガンはグルメになれるか? グルメを主題に、味覚障害の問題も絡め、でたらめな他者「理解」の暴力性、AI時代の光と影、そして東大学力崩壊の問題までも扱い、全東大関係者を震撼させた今年一番の衝撃作。どうぞ、ごゆっくり、一字一句お読み逃しなく、ぜひ感動のエピローグまでむさぼるようにお愉しみください。では、開演です。


頭がいいって、なんだろう? 学校のお勉強がよくできて、知識が豊富で、しゃべる言葉の論理がすっきりしていて、口が達者な人をついおもいうかべるけれど。でも、言葉で扱える領域は狭く、きわめて限られている。他方、われわれが生きている世界はとてもゆたかだ。たとえばスポーツ選手やアート系の人たち(ファッション、音楽、デザイン、絵画、工芸、料理、ぞれらの作り手たち)は、ほとんど言葉に頼っていない。五感を使って生きているから。かれら彼女らにとっては、体で感じること(五感)がもっとも大事なんだ。まず感じ、繰り返して試み、技術を身につけ、次に考え、そして表現する。けっしてはじまりが言葉ではない。そもそも言葉はそれほど役に立たない。それどころか世の中に流布している言葉に頼った途端、かれらは自分自身を失ってしまうことさえある。



ところが、いまという時代はヒトがAIみたいになってしまう傾向があるようですね。気の毒なことです。なぜなら日本の場合AI人間と言ったところで、自称AIエキスパートの東京大学の松尾豊大先生を筆頭にたいへん多くの人は最前線のAIの知識にくわしいわけでもなんでもない。ぼくもそうだけれど。そもそもしょせん人間ですから演算能力もささやかなもの、たいていの人はChatGPTのようにただ言葉で示されたある事象を別の言葉で説明するだけ、辞書や百科事典のようなものです。論文や本に書いてあることをただ横流しして得意げにしゃべるなんて愚かなこと。そのうえ、似たようなことをたくさんの人がしゃべる。あまりに多くの人が言葉の世界に幽閉されている。なによりも悪いことは知性がAI的になってゆくとともに、五感がスポイルされて、まるで言葉の世界がリアル世界であるかのような錯覚が生まれてしまうこと。けっしてこの世界は既存のシニフィアンとシニフィエの集合体だけで理解できるわけではないのに。しかし、すでに俗流AI型知性になってしまっているご本人たちは自分がどれだけ大切な能力を失っているかということに気づけない。



たとえば香りと味覚の世界があまりにもこまやかでゆたかであるのに対して、言葉はまったくそのゆたかさに対応できていない。甘い、辛い、苦い、酸っぱい、塩っぱい。いい香り。おいしい。まずい。変なにおい。くさい。おおよそ言葉はこれしかない。言葉は、トロの味と鮭の切り身の味を区別して表現できない。鯵とコハダの味の違いもまた。それどころか砂糖の甘さも加熱したサツマイモの甘さもネギを煮た甘さの違いも表現できない。「からい」という字がどうして「つらい」と同じなの? 悦楽的辛味を知らないの? そしてまた上等なカレーを辛いとしか表現できない。油脂の種類を識別する言葉さえもない。つくづく言葉は役立たずです。しかも、こういう事情は音楽とてファッションとて絵画とてデザインとて同様です。心躍るたのしくゆたかな世界をしかし言葉はごくごくほんのわずかしか拾えない。しかし、AI人間はそのことにまったく気づけない。


本いっぱい読めば音楽演奏は上手になりますか? すばらしい絵が描けるようになりますか? 鑑賞力が身につきますか? かっこいいダンスが踊れるようになりますか? なにかの種目でオリンピックに出場できますか? 無理でしょ。同様に言葉に頼ってグルメ活動をしようたって、うまくゆくはずがない。どこかに書いてあるようなことしか言えず、けっきょく笑い者になるのが関の山です。それでも料理を言語化したいならば五感を使うことを覚え、そして調理を学ぶことですよ。たとえばレシピは調理知のサブジャンルであり、広義の工学知と見なすこともできるでしょう。もちろん有益です。それに対して五感も使えず、調理知抜きの料理についての感想文などなんの役にもたちません。



逆に言えばグルメにとって言葉はほとんど形容詞と副詞で済んでしまう。そもそもおいしい料理に言葉はいらない。あぁ、おいしいねぇ。んまいなぁ。オウムのようにそんな言葉を繰り返しながら、おいしさはさらに増大する。もっとも、もしもその料理にちょっとした疵を感じたならば、「肉に火が入り過ぎ」とか、「ソースの色は綺麗だけど、肉に負けてるよ」とか、「キャベツの鮮度が悪いね」とかそのていどの言葉で感想を述べるまで。音楽でもデザインでも絵画でも事情は同じです。エッセンスをかんたんな言葉で示すほかない。だって、それが言葉の限界なのだから。もっとも、料理の場合はそれぞれ固有の調理手順フローチャートをそなえていますから、それに察しがつくならば、それについて語るのは有用ではありますけどね。


もっとも、世の中には味覚の言語化を徹底的に追及する人もいるもので、たとえばワイン鑑定家のRobert Parker や日本一のソムリエ、田崎真也さんですよ。かれらは神童的天分を授かったうえ、超人的努力を重ねたことでしょう。あんな神業、われわれ凡人にとうていできることではありませんし、そもそもたいていの人にとってはかれらほどに高いレヴェルで味覚の言語化を追求する動機がありません。



他方、俗流AI人間たちは言語の牢獄に閉じ込められた結果、料理もファッションも音楽も美術もデザインも楽しめるわけがない。もちろんかれらは目的もなく街をうろついたり、野山に遊ぶこともしなくなる。かれらはそこに意味を見出だせず、人は意味のないことをしませんからね。(ほんとうは意味なんてものはどんなものからでも見出だせるものなんだけれど。)AI人間たちは生きていてもおもしろくもなんともない。だからかれらはしじゅう批評に明け暮れ、文句ばかり言うようになる。まさに現代の悲劇です。


食べログ界のデビル雅美、登場。



さて、ここからがいよいよ食べログ界のデビル雅美ことパコ崎ミャ子さん、自称もの書きの、いかにもトー大院卒女、略して いかトー女史についてのお話です。


ぼくは彼女のレヴューの数年来の読者であり、ぼくにとって彼女はもっぱらレヴュー上の存在である。彼女はお嬢さんを持つ妙齢のご夫人ながら、なぜか老人くさい文章の運びを、地下アイドルさながらの若作りで媚び媚びの文末処理で隠し、日常生活のあれこれの心象と絡めて、食べログでレストランレヴューをお書きになる。なお、彼女の読者はおやじとじじいだらけで、女の読者はひとりもいない。彼女の書く文章はレストランレヴューとしてはまったく役に立たないもののの、しかしそのあまりに非標準的で、いわばスキゾ女の大冒険とでも呼ぶべき不気味な文章にぼくは興味を持った。お互いのレヴューのコメント欄における社交もあった。いまなおぼくは(実在するか否かまったくわからない、ネット上の存在たる)彼女をけっして嫌いではない。いいえ、より正確に言えば、いまやぼくは彼女のことを大好きなんだか大嫌いなんだかまったく判然としない。喩えるならば「ワニは恐ろしいが、しかしワニの刺身は淡くピンク色がかった白身肉にまったり脂肪分がのっていて意外にもおいしい」というような相反感情かもしれない。いや、違うかも?



なお、以下の、ぼくによる彼女についての考察とぼくと彼女の論争のはじまりは、彼女の食べログページのコメント欄で、ぼくが五感の重要性を説いたときだった。そこで彼女はぼくを挑発した。「五感の話題はおバカな話題かとおもいます♡」みたいなやつだった。(そのときぼくは、なぜ彼女が五感の話題で怒りはじめたのか、その理由がわからなかった。ぼくがその理由がわかるようになるのは、ずっと後になってからのこと。)また彼女のこの上から目線の尊大な言い方! 実にいかトー(いかにも東大院卒)らしい。もちろんぼくとて売られた喧嘩は買わなければなりません。もっとも、ぼくはこのやりとりをあまねく広い世間に流布するつもりはまったくなく、彼女のコメント欄での「会話」でぼくは十分だった。にもかかわらずいまこの文章をここにアップロードしている。そこにはちゃんと理由がある。おいおいご説明してゆきましょう。では、順を追って。



いかトー女史はなんでもかんでも召し上がるけれど、とくに麻布十番ふじや食堂の料理と、中華料理だけはいかにも食べ慣れてらして、かつまた格別にお好きなのだろうな、とぼくは感じてきたもの。ところが、今回彼女がアップロードした新高円寺の街中華某店のレヴューを読んで、レヴューの一節にぼくは不穏なものを感じた。なるほど、そういうことだったのか。ぼくは長らく彼女のレヴューを楽しく読みながらも、同時にやもやした謎を感じもしてきた。しかし、このレヴューによってその謎が(たぶん)解けた。念のためぼくは彼女の過去のレヴューもいくつも読み直し、深い溜息をついた。



彼女いわく「自分の味覚に絶対の自信がアルと言う人♡ 先入観なく味だけの判断で評価できると言う人♡ 自分は、感覚が鋭く感性が素晴らしいと思っている人♡ それから、とにかく美味しい街中華を食べたい人~♡ そんな人達に、食べて欲しい~♡」と冒頭から彼女はいつものように地下アイドルふうの若作りトークで煽りまくる。ご本人としては「場末の街中華に、あたしという名のマリア降臨☆」というようなシーンが想定されているのでしょう。



しかし今回はレヴューのなかにこんな一節さえあるのだ。「街中華を語っていての味覇味だの化調風月味とか言うのは野暮な話だ。」(なお、原文は一部伏字。)これを読んでぼくは椅子から転げ落ちた。えッ? なにをとんちんかんなことを囀っておられるの!?? (なお、平成~令和生まれの人は、化学調味料なる言葉はご存じなく、うまみ調味料と呼ぶもの。こういうところで、自称40歳の彼女の年齢詐称疑惑が生れます。いいえ、本題に戻りましょう。)



味の素と味覇はまったく違う風味ですよ。味の素はグルタミン酸(昆布や発酵食品系)のうまみです。他方味覇のうまみは鶏エキス、豚エキス、野菜エキスであって(グルタミン酸も入っているとはいえ)まったく違う系統である。しかし彼女は両者の違いも感受できず、化学調味料(=うまみ調味料)という言葉で同じものにしてしまう。なんでもかんでも抽象化すればいいってものじゃない。そもそもふつうの人はあたりまえに両者の違いを感じている。だから両者をひとつのカテゴリーに容れる必要がない。しかし、彼女にはこの違いがおわかりにならない。さらにひどいことに、彼女は街中華は例外なくうまみ調味料を使うものと決めてかかっている。つまり、彼女は味覇味と多くの街中華が用いる本物のチキンスープ味の違いを識別できないのだ。とんでもない舌ですわ。驚き桃の木イチョウの木、三四郎池のほとりのミズキの木です!



この大誤解。味の素はともかく、もしも(!)この店がチキンスープもしくは肉骨水煮スープもとらず、味覇でうまみを演出しいるならば、いったいどこにこの店を大絶讃するべき理由があるかしらん? この店はラーメンも出していてそれなりに人気がある。まさかこの店が味覇と味の素でラーメンスープを作っているとはひじょうに考えにくい。ふつうは時間をかけて強火で煮立ててあとは弱火でじっくり肉骨の水煮ダシをとるんですよ。そしてもちろんそのダシは各種炒め物にも活用するもの。



まさか味覇味と本物のチキンスープもしくは肉骨水煮スープ味の違いがわからない人がいるなんて! おそらく彼女は中華料理にはほぼすべての炒め物におたま一杯ぶんの秘伝のチキンスープもしくは肉骨水煮スープを入れて炒めることさえもご存じないでしょう。まともな料理人ならば味覇にうまみを依存させたりなどしない。ちゃんと時間をかけてチキンスープをとるのだ。だからこそ街中華のその店の実力はサーヴィスで出して来る掻き卵入りチキンスープの味でわかるもの。


もっとも、なるほどたしかに味の素を使う店はそれなりにあるでしょう、あのギラッとしたうまみのアクセントはたとえばキューリの和え物に絶妙だ。本題から逸れるけれど、焼肉屋がサーヴィスで出して来る長ネギの小口切りとワカメ入りのコンソメもあきらかに味の素味ですね。かんたんにおいしくなるのだからいいじゃないですか。しかし昭和の学食やスキー場のゲレンデ食堂ならばいざ知らず、はたまた東京大学中央食堂、あるいは日高屋やガストの調理事情は知らないけれど、しかし街中華の個人店でズボラにもスープもとらずに、調理に味覇およびその類似商品を使う店はほとんどない。それで商売が成り立つほど世の中は甘くありません。



たとえ味覇を使うにせよ、50リットル越えの寸胴鍋で、秘伝の鶏ガラスープや丸鶏スープを時間をかけてとった上で、ごくわずか少量だけ、味の安定のために使うていどだ。(そもそも味覇は家庭用調味料です。家庭ではなかなか時間をかけてチキンスープをとるわけにもゆかないゆえ、味覇は便利です。もっともしょせん味覇のうまみであることはバレちゃいますけどね。近所の街中華が恋しくなるのはそんな時です。)



ひとことで言えば「街中華を舐めんじゃねー!」ということですよ。なんなんですか、あなたのこの上から目線の大誤解とセットになったとんちんかんな街中華讃美は!?? ご本人は(欺瞞的にも!)街中華に寄り添っているかのようにご自分を演出しながら、しかし内心彼女は街中華をえらく下に見てバカにしている。(学歴差別主義者を輩出する東大魂、全開ですね!)ご本人だけは当該中華料理屋を大絶賛しているおつもりながら、しかし彼女によるレヴューは、前述のくだりに着目するならば、事実上誹謗中傷と変わりない。そのことにお気づきでないのはご本人だけ。(それでいてそんなあなたは、アピシウスやキャンティのブイヤベースには惜しみなくそのダシのうまみに讃美を捧げる。いったいどんな舌をお持ちなんでしょう???)



後日ぼくは知った。彼女は南麻布 あら喜のレヴューのなかで、塩鮭を頬張り、塩のおいしさを寿ぎながら、ご自分の舌についてこう述べておられます。「味だけで言ったら1000円もする無化調ラーメンの何倍も美味しい百何十円かのインスタントラーメンを何個もソラで言えるもん~♡ 」そうでしょうねぇ、あなたにとっては。たいへん正直なご発言ですが、しかしパコ崎ミャ子さん、もうレストランレヴューをお書きになるのは辞めてもらっていいですか? 乱暴狼藉キャラもほどほどにしてくださいな。もっとも、ぼくが彼女のこの発言を知るのはずっと後のこと。この時点ではぼくはただただ、彼女の街中華観に呆れ、驚き、怒りさえ感じています。ぼくは彼女に言うーー。




どうぞ、言葉を食べるのではなく、目の前のその料理そのものを召しあがってくださいな。
ところがこの〈言葉で食べるな、舌で喰え!〉を言葉で説明することはとっても難しい。そもそも彼女の五感はとっくに死んでいます。次に、ほんらいこれは認知科学が扱う問題です。実際には誰もが日常的におこなっていることながら、しかし科学的説明は(見かけ上)ひじょうにややこしくなる。たとえば、ある種の脳科学者が提唱するクオリア。認知心理学のアフォーダンス。哲学者 Stevan Harnad 言うところの「記号接地問題」。それらを使って説明すべきことでしょう。しかし、無駄に話をややこしくしたところで、会話は成り立たない。そこでぼくは一般教養的な説明として、カントの〈物自体〉を使って解説を試みた。なお、〈物自体〉が示唆していることは、言葉に先だって物は存在すること。言葉に先だって人は五感を働かせ、物を認識すること。



誰にだって覚えがあるでしょう。あ、あそこに色の綺麗な花が咲いてるな。近づいてみるとその花の名前を知らない。あるいは、なにかの音楽を聴いて魅了されたとき、「この音楽のジャンルって何? どこの国の音楽? グループの名前は?」なんてこともあるでしょう。はたまたいわゆるエスニック料理を食べて、「うめえなこの肉。マトン? それとも水牛?」なんて経験は誰にだってあるでしょ。まず最初に五感が動く。けっして言葉が認識に先だっているわけではない。


ところが彼女は〈物自体〉という言葉を聞くやいなや、ぼくに対してマウントを取るべく、待ってましたとばかりに自信まんまんにカント解釈学の講義をはじめるのだった。これがまた凄いんですよ、彼女はさらりと言い放つ、「カントの言う物自体とは、〈物がそれ自体において考察されるーDinge an sich selbst betrachtet〉を意味し、ここから出発しているので、かれが語る解釈の問題点も、まさにこの点から生じているとおもいます。物自体は、〈主観の企投〉の客観的側面を言ったもので、その側面は当然〈先験的客観(対象)〉となると考えます。経験の理論を経験的なもの(事物) とするのは、やっぱり飛躍する「二段階の理論」と考えます。かんたんに言うと、時間、現象、客観的実在性から対象を対象化する「場」を最初から設定し、その「場」に置かれたモノのみが「本当の対象」として具現化されているという、関数のXのような使い方と私も考えます。」



さすがいかトー女史、You're a pretty smart bitch、おそれいりました! しかし、ぼくは言いたい、なーーーにが「私も考えます」だ、それってただのカント解釈学者プラウスの引き写しじゃん! セコいな~、この女! 他人の考え~言葉を引用するときはそれが引用であることを明示し、引用元も明記しましょうね。駒場で習ったでしょ。しかも、あなた、ご自分がなにをしゃべっているか、なーーーんにもおわかりになっていないでしょ。知ったかぶりもほどほどにしてくださいな。偉そうに講釈垂れるならばカントくらい素手で読みましょうね。自力で。



そもそもプラウスの〈物自体〉理解はテキ屋じみたハッタリで、理論物理学めかした枠組を導入し、現象学も利用して、無駄に話をややこしくすることによって伝統的カント学者たちを煙に巻く。いわゆるところの知の欺瞞ですよ。それに対してカントが言っていることはたんじゅんなこと。カントの〈物自体〉を理解するために、プライスなんて要らないの。なお、あなたは、Dinge an sich selbst betrachtet.とわざわざ原語のドイツ語を引いてスノビズムを演出なさっておられますけど、しかし、英訳すればたんに Looking at things in themselves.でしょ。つまり前述のとおりこの言葉は〈言語に先だって物を認識する〉という態度~方法の大切について語っているんですよ。



言葉を外して現実を感受すること。
まずこれができてからでないと、科学だろうが医学だろうが、絵画、音楽、料理、スポーツ、まったくお話にならない。ダーウィンがただひたすらミミズを見ていたことをおもいだしてくださいな。また、ルネサンス期の画家たちはデッサンを最重要事項としたでしょ。レオナルド・ダ・ヴィンチに至っては人体を正確に描くために、何度となく死体解剖までおこなった。観察することとは、まずは言葉の外へ出ること。同様に、指揮者たちやミュージシャンたちが音楽をどう聴いているか、とうてい言葉で説明しきれるものではありません。料理だって同じでしょ。料理の作り手はみんな自分の目と手と耳と鼻と舌でおいしさについて考えるんですよ。いったん言葉を括弧にくくって、五感を使って対象を観察する。つまり物自体とは実践的方法を示唆しているんですよ。



もっとも、べつにわざわざカントを読まなくたって、科学者も医者も画家もミュージシャンも料理人も、実はみんな物自体が言わんとする態度を身につけているんですよ。しかし、あなたはこのいちばん大事なことがまったく理解できない。なぜならあなたは徹底的な言葉人間、神羅万象すべての認知があらかじめ言葉に絡めとられているがゆえ、物自体について理解しようにも理解のしようがない。そこで意味もわからず念仏のように詐欺師のプラウスのハッタリが召喚される。いやはや、ぼくはお釈迦さまの言葉をおもいだします、「人が月を指さすとき、指を見るバカ。



なお、その後彼女はご自分の食べログ日記欄で、哲学案内を(髪振り乱して?)殴り書きした。有史以前の諸民族の神話にはじまり、中国、インド、南米、エジプトを視野に収めつつ、老荘思想、近代哲学ではミル、スペンサー、ベルクソンを概観し、彼女は返す刀でカントを相対化してみせるのだった。いやはや、さすが天下のいかトー女史ではある。ぼくは苦笑した。なぜって、ぼくはべつに哲学史議論をふっかけたつもりもなく、ぼくはただヒトは言葉に先だって五感で世界を知覚することを指摘しただけのこと。べつにカントを用いずとも、クオリアだろうがアフォーダンスであろうが同じこと、それはただの説明手段に過ぎないのだから。それに対して彼女は一気呵成に、世界の著名な諸哲学を口にして、あれも知ってますこれも知っていますと吹聴する。このとんちかんがめちゃめちゃおかしい。しかも、あなたがご開陳ささる哲学案内は哲学概論の試験で辛うじてCを取るのが関の山、たとえCを取れたところで一切れのパンほどの価値もありません。なぜなら哲学は考えるための道具であって、道具にできないまま他人にそれをひけらかしたところで仕事できないアピールにしかなりません。いいえ、本題に戻りましょう。



五感の愉しみの世界では自分の五感を根拠にする他、味わう術も表現する方法はありません。つまり、この世界を楽しむことができるのは、自分の五感を根拠にできる人だけなんですよ。しかし、それはあなたにはまったくできないこと。なぜなら、あなたの認知のすべては(五感を経由することなく)あらかじめ言葉に絡みとられているから。したがって、あなたの経験はけっして経験にならない。おのずとあなたの言葉は蘊蓄をかき集めたハッタリになる。そりゃああなたがホラ吹きにもなろうというもの。さらに踏み込んで言えば、あなたはホラしか吹けない。口になさる言葉はすべて駄ボラ、すなわちあなたは逆説的意味で、きわめて正直者です。



なお、この時点ではぼくは彼女を(怪しいな、と訝りつつもなお)実在の40歳女性であると信じていた。そしてまた彼女が五感を使えない理由は、彼女が言葉人間~chatGPT人間であるからだろう、と推理していた。ところがどうやらそうではなさそうなのだった。真実は、後半で明らかになる。



後半は、こちら(↓)。

こちら(↓)は、パコ崎ミャ子さん、フランス料理を食べに行く巻


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